脇の下を流れていく汗の感覚が妙に生々しい。握りしめた手のひらもすでにぐっしょりだった。これが夢だとしたら、どれだけリアルな夢なのだろう。

(落ち着いて。落ち着け、わたし――!)

 念じながら、ユウキは記憶を順に遡る。
 ここに来る前、確か、ユウキは本を寄贈するために、図書館を訪れていた。
 財政難の自治体は図書館に予算を割けないのだろう。昭和の時代にに建てられたという古ぼけた鉄筋の建物はあちこちがた・・が来ているように思えた。
 また、人気作の予約数は下手すると三桁に上り、そうでなくとも新作は半年くらい待たないと読めないのが常。それを憂いた母のお遣いでユウキは図書館に足を運んだのだ。

 ユウキの母はそこそこ売れている小説家である。そのため、仕事柄、家には資料本がたくさんあった。さらに母は無類の本好きなので、仕事部屋は、壁の三面が本棚になっている。ユウキと二つ歳の離れた弟、タクヤに与えられたこども部屋の一面も本棚で、びっしりと児童書がつめこまれていた。
 それでも収まらないため、リビングにも常に本が溢れていた。だが……読み終わった本を図書館に寄贈することにしたのは、積んでいた本が地震で雪崩を起こしてからだった。

『お母さんどうしても手が離せないの。だからお姉ちゃんお願いね?』

 そんなふうに頼まれてると断れないのは、ユウキが母の前ではいわゆるいい子・・・だからだ。
 月に一度訪れる図書館。今日もユウキは学校帰りの制服のまま、重たい荷物を早く手放そうとカウンターの前に立って手続きをしていた。あらかじめ母が書いていた書類を提出するだけだし、手慣れたものだ。
 隣のカウンターでは、絵本を上限の十冊まで借りてほくほく顔で帰っていく男の子がいた。母親と手を繋いで帰っていく姿は微笑ましく、羨ましく思う。
 それでも、ユウキの食指は動かない。家に児童書から一般書まで揃っているし、そもそもユウキは本が嫌いだ。いや――ある時を境に嫌いになった・・・・・・ため、個人的には利用したことはなかった。
 だから、いつもなら寄贈したらすぐに帰っていたけれど、その日は、違った。
 ワゴンに載って運ばれていく本の一冊に、ユウキは興味を惹かれたのだった。

「あれは? あの古くて赤い本」
「返却本ですよ。すぐに貸し出しできますけどどうしますか?」

 ユウキは少し悩んで首を横に振った。借りようにも利用カードがない。作ってもいないし、時間を割いて作ろうという気にもならない。

「いいです。もう帰りますし」
「そうですか。ありがとうございました。新しい本は予約が沢山入っているので、本当に助かっているんですよ。先生によろしくお伝え下さいね」

 そんな司書の謝礼も耳半分に、ユウキはふらふらとカウンターを離れていた。
 十メートルほど離れてワゴンを追いかけたけれど、ユウキの目は不思議と本をしっかりと捉えたままだった。
 と言うより――あとから考えると、この時ユウキは目が離せなくなっていたのだ。

 それは古い古い本で、見たことのない装丁をしたものだった。分厚い赤茶けた表紙と裏表紙の間に、まさかこれが羊皮紙? と一瞬疑ってしまうほどに焼けてしまったゴワゴワとした紙が、やはり古びた紐でとじられていた。

(あれは今の時代の本? 見た目は貴重そうなのに、一般で貸し出せるものなの?)

 本を載せたワゴンはきぃ、きぃと引きつれたような音を立てながら、天井近くまである本棚の隙間を運ばれていく。
 やがて本は、幾つもの角を曲がり、人気ひとけのないエリアへと向かった。
 一般書と児童書という二つの人気エリアの丁度真ん中辺りにある、コの字にくぼんだスペースだった。学術書などが置いてある、ユウキがめったに足を止めないエリアの更に奥。周りの本棚が死角になって、周囲から目が届かない。だからこんな場所があったなんてと驚いた。
 ユウキは司書が本を置いていなくなったのを見計らって、そのスペースに近づく。そこには同じように古ぼけた本がまとめて置いてあり、上部に掲げられた案内を見ると寄贈図書コーナーと書いてあった。
 窓がない。薄汚れた壁に囲まれた、ちょっと落ち着かない場所。
 壁が迫ってくるような圧迫感に、ユウキはなんとなく胃が重たくなるのを感じた。だが、興味に勝てず、棚に差された本を取り出した。
 古い表紙には手書き風の草書体でタイトルが書いてある。

御伽噺奇譚おとぎばなしきたん?」

 つぶやきながらなぞる。著者名は書かれていない。気になって裏返して後付を見ようとした時だった。
 傷んでいたのだろうか。本を閉じていた紐がぷつっと音を立てて切れた。

「うわ」

 パラパラパラ――紙が舞う。
 まずい――そう思って、落ちていく紙を受け止めようとしたその時。


 ぐるり。ユウキの天と地が逆転した。

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