ふっふっふと笑うと、王妃はクリスの長い髪をブンブンと振り回す。苦笑いしながらそれを見ていたクリスは、やがて大きなため息を吐いた。

「これで、あんたを脅かす者はいなくなった、な。あーあ、ムカつく。……けど、なんか、すっきりした」

 憑き物が落ちたような顔をしているクリスをユウキは呆然と見つめる。

「……い、命を狙われてるって、言ってたよね?」
「狙われてたよ」

 クリスは真面目な顔で頷く。だが、どう見てもそうは思えない。王妃はクリスの髪を切っただけで満足しているのだ。

「ただし、俺のとしての命をな」

 混乱とともに頭のなかの危機感が豆腐のように崩れていく。

「どういうこと……?」

 わけが分からずに問いかけると、クリスが気まずそうな顔で言った。

「この人、俺のこの姿・・・が嫌いでしょうがないんだよ。『男らしくなりなさい』だと。嫁いできたばっかりのくせに、母親づらで頭ごなしに言われて腹たったから、逆に姫として・・・・美しさに磨きをかけてたんだよ。そしたら俺の隙を突いて無理やりに男にしようとしてさ。だから家出したんだけど、二回とも準備不足で、遭難して死にかけた」

 過去の逃亡の真相を聞いて、ユウキは呆然とするしかない。

(って、逃げたって、家出だったってこと? で、前に失敗したから妙に準備が良かったってこと?)

 頭がついていかない。

「で、捕まってさ。こっぴどく説教されたのはまだいいとして、この女、罠にかけやがったんだ」

 王妃はムッとしながら「お母様とお呼びなさい」と命じるが、クリスはつんとそっぽを向く。

「罠ですって? わたくしを剣で倒せなかったら、言うことを聞くとクリスが言ったのよ。それなのにこの子、いざ負けたら逃げ出したの。あっという間に親衛隊を撒いてびっくりしたわ。逃げ足だけは速いとか、わたくし、情けなくてしょうがない」

 王妃が呆れたように言うのを、クリスはむうっと顔をしかめて流すと、口をとがらせて言った。

「だってさ。髪を切れって言われたから」
「……髪?」

 王妃が、横から口を挟んだ。

「踏ん切りが付かないみたいだったから、切ってあげようとしたら逃げちゃったのよねえ」
「いきなり刃物を突きつけられて、黙って切られてやるわけがないだろうが! 大体、髪を切るなら、普通はハサミだ。どう間違っても長剣じゃない」

 喧々諤々《けんけんがくがく》と言い争う親子の前で、ユウキはまじまじとクリスの短くなった髪を見つめる。よく手入れされた、八年伸ばしていたという美しい髪は今、王妃の手の中にある。

(そんなに大事だったの?)

 髪は女の命とは聞くけれど、男の子のクリスにそこまでのこだわりがあると聞くと違和感は大きかった。
 戸惑うユウキに、王妃は賛同を求めるように問いかけた。

「びっくりするでしょう? 息子ができると聞いて嫁いできたら、私より美人な娘がいるとか。その上、中身は手負いの獣みたいだし。どうしたものかしらってずっと悩んでいたのよね。ルドルフ――国王陛下は好きにやらせておけとか。無責任なのか、素直に喜んでいるのかわからないし……。わたくしは、前のお后さまに勝とうなんて思ってないの。だけど息子にまで負けるなんて言うのはね、女としてプライドが許さないし、万が一父子で間違いでもあったらどうすればいいの! 家庭の崩壊よ!」

 末恐ろしいことを言いながら、王妃はどんどん機嫌を損ねていく。

(な、なんていうか、思ってた王妃様と全然違うし……!)

 あっけにとられるユウキの前で、クリスは「落ち着けよアンドレア」となだめるが、王妃は「お母様とお呼びなさい!」と顔を真っ赤にする。クリスのこれは、わざと火に油を注いでいる。どうにも相性が悪すぎるのはユウキにもわかった。
 というより、若く美しい義母と多感な思春期の義息子の不仲など、現代でもよく聞く話。上手くやるのは難しいに決まっている。

 クリスはユウキの方を向く。そして、僅かに残った髪の房を掴むと、気まずそうに眉を寄せた。

「最初は、父上を慰めるためにやってたんだ。俺が七歳の時、母上が亡くなったあと、沈み込んでやつれていくのが見てられなくってさ。俺、母親にそっくりだったから、父上は喜んでくれたし、立ち直ると約束してくれたんだ」

 そこまで言うと、クリスは眉をしかめて、王妃を見た。

「だけど、父上はこの人に惚れてからは、嘘みたいに勝手に元気になってさ。今じゃ十は若返って見える。じゃあ、俺の努力はなんだったんだ? って思ったんだよ。俺の価値はなんだったんだって。俺は父上には必要ないのかって」

 王妃が「馬鹿ねえ、そんなわけないじゃない」と呆れた顔をして呟いた。
 ユウキはぐっと胸が詰まった。その感情にはユウキも覚えがある。自分を見て欲しいと頑張り続けたけれど、母の心を奪ったのは物語だった。母の頭が作った理想のこどもたちだった。

「でも」とクリスは苦笑いを浮かべる。

「同じように悩んでる奴を見てたら、なんつうか、いつまでもこんな真似してるわけにもいかないって、冷静になれたっていうか。……つーか、そいつ、俺よりたち悪いし。母親の愛を、創作の中の人物と奪いあうとかさ」

 ぎくりとしてクリスを見る。すると、彼は口元を手で覆うと、ぷいと顔を逸らした。

「ごめん、俺、おまえの手帖見た」
「………ええええ???」

 瞬く間に頭に血が上る。

(え、ちょっと待って、それ、それ、めちゃくちゃ困る!)

 ユウキの様々な葛藤が書き散らかされているあのノートは、そもそも、人に見せることを前提としていないのだ。
 日記を覗き見られたような気分で、非難の言葉を探すユウキに、クリスは驚くようなことを言った。

「で、馬鹿なことしようとしてるみたいだったから、さ。こうやって、話を進めてやったんだよ」
「は?」

 怒るのも忘れて目を丸くする。

魔法の鏡・・・・は、俺だ」
「…………は?」

 意味が飲み込めない。

(え、どういうこと、鏡が俺って、つまり、)

「クリスが、王妃様に、ここを教えたってこと? じゃあ」

 先日殺されそうになったあの件は。言葉が出てこなくて口をパクパクさせると、クリスはばつが悪そうにうなずいた。

「あれもこれも舞台を整えるための狂言だ。騙してごめん」

 だが、騙された――などと思えない。とても思えない。
 つまりクリスは、ユウキの代わりに、自らが鏡の役割を買って出たというのだ。なんのためなんてわかりきっている。ユウキが現実に帰るのを諦めないように、そうしてくれたのだ。
 言葉を失ってただクリスを見つめていると、彼はやがて目を伏せ、王妃に向き直った。そして、ユウキが先ほどまで持っていたかごを指差すと、「そのりんごを一つ取ってくれ」と王妃に頼む。

「え? でもこれ、毒があるでしょう」

 王妃は首を傾げながらもりんごを拾う。

「え、え!? それ、毒があるの?」

 つやつやと赤いりんごは、あまりにも美味しそうで、有毒などと疑いもしなかった。
 手伝ったルーカスを見ると「殿下に、摘んでもいいけれど、食べさせるなと命じられておりました」と頷く。
 嫌な予感がしてユウキがりんごに手を伸ばすと、クリスは一瞬先にそれを奪った。

「仕上げをしないとな」

 クリスの伏せられていた目が覚悟を湛えたとたん、ぞっと鳥肌が立つ。

「止めて――食べちゃだめだよ! ねえ、ここには、王子様がいない!」

 だが、クリスは「ちがうな」と否定する。

「もうここには王子・・しかいない」

 聡明そうな眼差しが胸に刺さった。ついこの間、クリスが一段階深い考え方をすると思ったばかり。息が止まりそうだと思うユウキに、「これを食べるのはおまえだ」とクリスがりんごを差し出す。

「ユウキ――夕姫。おまえは名前にを持っている。そして黒髪に、赤い唇を持った――おまえが白雪姫・・・だ」

 突然の配役変更に心が追いつかない。クリスが何をしようとしているのかがわからない。
 クリスは一歩前に出る。そしてユウキがノートに書いていた白雪姫の一節をそらんじた。

「『最後には毒りんごを食べて命を落とす』――それから『生き返る』。今から、この一番の難関を切り抜ける」
「でも――蘇りなんて、そんな不思議な現象、この世の中にはないんでしょう!」

 りんごを手のひらに押し付けられる。ユウキは縋るようにクリスを見つめ、そして目を見開いた。

「欠損が――」

 最後の欠損が修復されていた。燃えるように赤い・・髪をしたクリスは、「欠損は、物語が進むに連れ修復される、か」とホッとしたように頷いた。

「欠損ってなんだろうって思ってたんだけど……おまえ、色が見えなかったんだろ? だから、赤い髪の俺でも白雪姫だと思い込んだ。俺、おまえのノートを見たらすぐにわかったけどな。森で迷子の黒髪の女の子――白雪姫って言うならユウキの方だろって」
「ちがう、わたし、白雪姫なんかじゃない! だって、わたしは、クリスみたいなび、美人じゃないし!」

 反論するけれど、クリスは小さく首を横に振ってあっさり言った。

「ユウキは綺麗だ」
「…………は??」

 卒倒しそうなユウキの後ろで、王妃とルーカスも息を呑んだ。そして、

「なんだかよくわからないけれど、ここ数日で、すごく男っぽくなっちゃった……これはこれでわたくし寂しい」
「そうなんですよ、すっかり男になってしまって私も寂しいのです」

 と囁き合う。
 耳を赤らめたクリスが「外野は去れ」と冷たい声で刺すと、二人は迫力に圧されたのか、その場から離れる。
 森に静けさが戻ると、クリスは続けた。

「そして、おまえは母親に殺されそうになってる。――母親に愛されていないっていう、妄想・・にな」
「…………!」

 絶句するユウキに、クリスは続けた。

「とにかく、欠損が補われたってことは、どうやら俺の考えは正しいみたいだ。不思議な現象はこの世界にも一つだけある。俺なら、この場面でそれを使う。っていうかここしか使いどころがない」

 彼はいつもどおり、人を安心させるような、頼もしい笑顔を浮かべている。
 彼の青い目が言う。俺を信じろ、と。

「この林檎の毒じゃ死ぬことはない。せいぜい腹を下すぐらいだ。だけど、もし、死んだとすると、そこには物語の意志が働いていることにならないか? ――大丈夫。おまえは絶対に生き返る――あっちの世界・・・・・・で。それが正解だ」
「待って。わかったようなこと言わないで!」

 そう言い返しながらも、正しいと直感が訴える。死者を生き返らせる方法は、あちらの世界にも、この世界にも存在しない。だけど、毒りんごを食べて、死んだ姫は生き返る。それは物語だから・・・・・だ。物語の外側の人間には、それを可能にさせる力がある。想像力という力だ。
 外側の人間であるユウキには、物語を脚色することが可能だ。そうノートに書いてある。
 この世界には魔法がない、だけど、この世界にはユウキという唯一の不可思議要素がある。それだけが、この不可能を可能にできる力なのだ。
 そして、りんごを受け取ったとたんに欠損が修復されたということは、おそらくこの選択が正しいということ。

 ぱちん、ぱちん、とパズルが嵌まるような音がする。
 この一番の山場を切り抜けるには、クリスの言うとおりにするのが一番よい方法に思えた。
 だが――

(待って。待って!!!)

 ユウキの心が切り裂かれて悲鳴を上げる。

「わたし、ここから離れたくない」

 クリスの傍から離れたくない。ユウキの主張は無視される。クリスは毒々しいまでに赤いリンゴの上から、ユウキの手を包み込んだ。その赤は血の色――命の色だ。

「食べるんだ! おまえは自分の世界に帰らないとだめだ!」
「帰っても待ってる人なんていない!」
「おまえはちゃんと愛されてる」
「そんなこと、どうして言えるの」
「じゃあ、どうしておまえはこの世界を白雪姫の世界だと思えたんだ? どうして白雪姫の話を知っていたんだ!」
「…………」

 母親が、読み聞かせてくれたんだろう!? ――クリスの真剣な目がそう言っていた。
 胸が震える。信じたい、だけど怖いと目を背けていた事実。

「だけど、それは本当に小さい時だけだし」
「本当か? それはおまえが字が読めるようになったからじゃないのか? 字が読めるようになったおまえには、代わりのものがちゃんと与えられていたはずだろ」

 ユウキは胸が詰まる。母が読み聞かせの代わりにユウキに与えてくれたもの。
 沢山の本。たくさんの物語。思い切って飛び込んでみなさい――たくさんの世界を惜しげも無く与えてくれた。
 ユウキは自分からそれを、拒んだ。

「帰って、ちゃんと母親に直接確かめろ。怖がらないで、甘えてみろ。絶対返してくれるから。――俺もちゃんと母上と向き合った。もう逃げない。だからおまえも頑張れ。じゃないと、いつまでも平行線だ」

 厳しく言われて、ユウキは目を伏せる。

「……でも、わたしはきっとこっちでは目覚めないよ。王子様は白雪姫と結婚できない」

 ユウキが生き返ることが出来るのは、現実の世界。こことは別の世界だ。
 そうしたらハッピーエンドには届かない。

「じゃあ、いっそ今ここでしてしまう?」

 あっさり言われてユウキは目を剥く。

「そんな重大事、何を簡単に言ってるわけ!? こっちでは目覚めないんだから死体と結婚だよ!?」
「役が足りなくても、配役交代でも、ここまでこじつけだらけで大丈夫だったんだろ。なら、あとはどうとでもなるって。任せておけよ」

 配役交代――という言葉にホッとしながらも、自分がいなくなったあとの世界を想像して胸が切り裂かれそうだった。
 白雪姫は、実は死んだのかもしれない。そして、代わりのそっくりさんが妃になったのかもしれない。

(いやだ。そんなの――いやだ!)

 ユウキはこの世界にとどまる理由を、必死で探している自分に気がついた。
 いつしか止めどなく涙がこぼれていた。クリスはりんごをナイフで切り分けると、ユウキの口に指で押し込む。唇にクリスの指先が触れる。まるでやさしいキスのようで、目を見開くユウキの視界には満面の笑顔があった。

「自分の世界で生きろ・・・。それがおまえのためだ」

 じわり、と甘い果汁が喉の奥から広がっていく。吐き出したいけれど、クリスの指がそれを許さない。だけど、飲み込めない。噛みくだくことも出来ない。
 だが、いやだ――再び口にしようとした時、りんごのかけらは計らずものどの奥へ落ちていく。

「!」

 急激な息苦しさに、ユウキはもがく。同時に天と地がひっくり返る、強烈な重力の変化が身体を覆った。
 木漏れ日が差し込む空が地面に。森が空に。逆転する。

(いやだ――空に引っ張られる――!)

 手を伸ばす。だが、ユウキの手は空を切る。クリスが泣きそうな顔でユウキを見上げている。拳を体の脇で握りしめて。
 彼は手を伸ばす代わりに笑った。

「ユウキ、俺、おまえのこと好きだった。だから、男に戻りたいって思えたんだ」

 ありがとう――その言葉が、ユウキが聞いた、クリスの最後の言葉だった。

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