「姉ちゃん!?」
「……ユウキ? 夕姫!」

 目覚めたユウキの視界に入ったのは、白い漆喰の天井と、それから母と弟の顔だった。

「あ、れ……わたし……」

 頭がひどくぼんやりした。凄まじく長い夢を見ていたようで。
 幸せな、いつまでも続いて欲しいような、そんな夢だったような気がする。思い出そうとしても頭のなかに靄がかかったようで、うまくいかない。何か大事なことを忘れているような気がして、ユウキは喪失感にわけもなく焦った。
 だが、母がわっと泣き出したせいで、ユウキは我に返る。

「ごめんね、ごめんね――あんたが無理してるって、これっぽっちも思わなくて。拓哉に散々怒られたよ。母さんが姉ちゃんを使いすぎたからこうなったんだって」
「え、ええと、何? 貧血で倒れたとか?」

 それ、いまいち自分には似合わないな――そんなことを考えながらも、状況がつかめなくてユウキは辺りを見回した。
 白い壁、銀色のサッシ。ベージュのカーテン。言ってしまえば、すこぶる地味だ。生活感がまるでない。

「ここ、どこ?」
「まやま総合病院だよ」

 タクヤが答える。

「まやまって……ああ、図書館の近くの……って、え、なんで?」
「ユウキは図書館で倒れてて、救急車で運ばれたんだよ――もうびっくりして」

 その顔がやつれている。めずらしく髪をひっつめているせいで、こめかみの白髪が目立ってしまっている。まるで締め切り前の切羽詰まった時の母みたいで、

「お母さん、締め切りなの?」

 とユウキが問うと「あんた、馬鹿なの――娘が倒れたっていうときに仕事なんかするわけ無いでしょう!」と目を怒らせた母に怒られた。

「え、でも」

 驚きすぎて言葉を失う。

(え、今、お母さん、なんて言った?)

 仕事よりも、自分を選んでくれた? そう考えた途端、ユウキはこれが夢なのではないかと疑った。頬をひねろうと、腕をあげようとしたユウキだが、体が動かない。なんで? ユウキはもう少し力を入れるとようやく腕が上がった。だが、上がった腕を見てぎょっとする。点滴の管が刺さっている。それに気づいた途端、ユウキはおでこにも違和感を感じた。何か貼られていて、そこからコードが何本も伸びているのだ。おおげさすぎる姿だ。

(ど、どういうこと――!?)

 驚いてチューブやコードを触っていると、看護師さんに「だめですよ」と怒られる。

「母さん、寝ずの番してたんだよ。ま、普段が放置し過ぎだから、このくらいして当然だと思うけどな」

 そう言いつつも、タクヤはどこか嬉しそうだった。いまいち腑に落ちなくて状況を詳しく尋ねようとした時、

「賀上さん、起きたって?」

 のんびりした声とともに白衣を着た男性が入ってくる。優しげな顔に丸いメガネをかけている。

「真山先生」

 母が場所を譲ると、真山先生と呼ばれた白髪の壮年男性は、ユウキのベッドの隣の簡易イスに腰掛けた。そして「ちょっといいかな」とまず体温計を手渡した。次に脈を測る。そして聴診器で胸の音を聞いて、下瞼を押し下げ、喉を見る。
 こんな風に診察されるのは久しぶりだ。タクヤと違って、ユウキはめったに病気をしなかったから。
 ぴぴっと音がして体温計が計測終了を知らせる。脇の下から取り出した体温計が示したのは、36.5度。平熱だ。

「熱もないし、どこも異常はなさそうだねえ。気分は?」
「平気です」
「うーん、まあ念のため、もう一日入院ね」

 思ったより重大事だとユウキはその時になってようやく気づく。てっきり貧血だと思ってたというのに。もしかしたら、倒れた拍子に頭でも打ったのだろうか。

「入院ってそんな大げさな」

 目を剥くユウキに、真山先生は眼鏡の向こうからニッコリと笑いかけ、ユウキが更に目を見開かざるをえない発言をした。

「大げさじゃないんだよ。君ね、一週間眠り続けてたんだからね」


 *


 看護師さんの手で、身体に刺されていたいろいろな管や電極が取り外されていく。意識不明になると大変だと、他人事のように思う。だって、やはり信じられないのだ。
 母とタクヤが言うには、ユウキはなぜか喉にりんごをつまらせて倒れていたらしい。その事自体がちょっとあり得ないのだけれど、りんごが取り除かれたあとも、ユウキは一週間目覚めなかったそうだ。
 脳に異常が見られるかもと、ユウキは眠っている間に様々な検査を受けたそうだが、どんな検査でも全く異常が見つからなかったらしい。

「弟さんがねえ、過労と疑ってお母さんと喧嘩して大変だったのよ」

 腕から最後の点滴を外すと、看護師さんが苦笑いをしながら暴露する。

「だってよ。過労以外に考えられるか? 学校から帰ったら家事がガッツリ溜まってるしさ。その上夜遅くまで勉強してりゃ、くたびれるに決まってんだよ。仕事が大変なのは分かるけど……家政婦代わりに姉ちゃんを使うなよってんだ」

 って……俺も人のこと言えねえんだけどよ……とふくれっ面のタクヤが言うと、母がどんどん小さくなる。

「大丈夫って言うから言葉通りに取っちゃったのよ。……無理してるって……気づかなかったとか……ごめんねえ。お母さん、自分のことでいっぱいいっぱいで。それでお父さんにも逃げられたのに、またおんなじことしてて。学習しなくて情けないわ」

 しゅんと俯くと、母はぽろぽろ涙を零す。
 母は昔、物語に夢中になりすぎて、父に逃げられた過去を持つ。ユウキが六歳の頃の話だ。祖母の愚痴で知ってはいたけれど、母の口から聞くのは初めてだった。
 いくら作家として成功しているといっても、シングルマザーの大変さがわからないわけではない。だからこそ、物語に没頭する母を見ても、寂しさや憤りをこらえてユウキはいい子を装って頑張ってきたのだった。

「わたし、大丈夫だから。タクヤもそんなふうに言わないで」

 本当は大丈夫じゃない。
 母が仕事だからと割りきってやっているのならば、こんなふうに嫉妬などしないと思った。

(わたしたちといる時よりも楽しそうにしないで。物語の人物より、わたしとタクヤを見て)

 そんな本音を飲み込む時、ユウキの胸はズシンと重くなる。

(……あれ?)

 だが、ユウキは不可解さに眉をひそめた。

(……なんだろう、いつもと違って心が軽い)

 ユウキは原因を探って、理解した。
 さきほどの、母の言葉のせいだ。

『娘が倒れたっていうときに仕事なんかするわけ無いでしょう!』

(お母さんが、仕事よりも、わたしを選んでくれた)

 たとえそれが一週間だけのことだったとしても、構わなかった。その事実一つで心が踊り出していたのだ。自覚すると喜びが膨らみ、頬が緩むのを堪えきれない。タクヤがニヤニヤしながらこちらを見ると「俺、今日は帰るから。明日試合なんだ」と病室を出て行く。扉が閉まる寸前で、まるで邪魔者は去るとでもいうように『ごゆっくり』と口パクで言われ、ユウキは思わずそっぽを向く。心のなかを見透かされているようで、姉の威厳が保てそうにない。
 と、備え付けの簡易テーブルの上に一冊の本が置いてあるのに気がついた。

「お母さん……これ」

 それは有名な御伽噺がつめ込まれた古い童話集だった。ユウキが幼い頃に読み聞かせてもらっていたもので、もう角は破れ、開くと、ところどころ綴じ糸が見えている。

「ああ、それ。ユウキがよく読んでってせがんだ本。……ほら、仕事が忙しくて読んであげられなくなったでしょう。いくらでも読んであげるから、戻ってきてって。一緒に読もうって祈りながら読んだのよ。よく考えたら、何の関係もないのに、なんでか、こうしたらいい気がしてね」

 しんみりと話す母に、ユウキは胸が熱くなる。

「……ねえ、お母さん?」
「なあに」

 何年ぶりなのだろうか。幼いころと同じような穏やかな時間が流れていた。
 ユウキはむずむずと落ち着かなくなる。ずっと問いたくて、問えなかった。答えを聞くのが怖かった問いかけを今、したくてしょうがなかった。なぜか、今なら聞けると思った。

『怖がらないで、甘えてみろよ』

 心のなかで誰かが笑って背中を押した。ユウキは力を得て、口を開く。

「わたしと、お母さんの本に出てくる子たち、どっちが大事?」
「ユウキ、あんたねえ……!」

 母は目を丸くしたあと、ぐしゃぐしゃに顔を歪めた。

「あんたに決まってるじゃない! あんたを産んだから、わたしはお母さんになれたのよ! わたしは、お母さんになれたから、娘の可愛さを知ったから……今みたいにたくさんのこどもたちを育てることが出来ているの!」

 母はユウキを抱きしめると、頭をなでてくれる。昔みたいに。昔はユウキを包み込むくらいに大きかった身体は、今はすごく小さかった。母は顔を伏せたまま何度も言う。

「お姉ちゃん、我慢させて、ごめんね。あんたはほんとに我慢強いいい子。だけど、いつもいい子じゃなくたっていいんだからね」

 ユウキは母の胸の中で目をつぶり、鼻をすすった。
 そして、ふと思いついて口にしてみる。

「お母さん、絵本読んで」
「いくらでも読んであげるよ。何がいいの」

 温かく受け入れてくれる母に涙がにじむ。

(ホントだ。言わないと伝わらなかった。怖がってたらいつまでも平行線だった――)

 誰かに無性に感謝したくなったユウキの口から、何気なくそのタイトルはこぼれ出た。

白雪姫・・・

 だがそれが飛び出たとたん、ユウキの胸は突然悲鳴を上げた。

「…………!」

 サイレンのスイッチが不具合でも起こしたようだ。うわぁあん、うわぁあん、と唸り上げる胸を鎮めようと、ユウキが胸を押さえてベッドに突っ伏すと、

「ユウキ!? どうしたの? ――先生!」

 血相を変えた母がナースコールのボタンを押した。


 *


 真山先生が呼びだされて、急遽診察が始まった。だけど、やはりどこにも異常はなし。
 難しい顔をした先生は、「ちょっと話を聞かせて欲しいんだけど」と言うと、母を一旦病室から出した。

「ユウキちゃん。今から聞くことは誰にも言わない。だから、僕が何を言ったのかも誰にも言わないで欲しいんだ」

 先生は前置きをした。
 真剣な表情に、ユウキはひとまず頷く。

「実はね。数年前にも同じように謎の眠りに落ちて、ここに運ばれてきた子がいたんだ。その子もどこにも異常がなかった。だけど……」

 先生はそこで瞳を陰らせた。

「その子は、君と違って、とうとう起きなかった」
「え……」

 それって。ユウキが絶句すると、先生は頷く。

「一月眠ったあと、そのまま息を引き取ったんだ。すごく幸せそうな顔をして。だから、同じことになるんじゃないかって、内心すごく心配していたんだ。戻ってきてくれて本当に良かった……。でね、ここからが本題なんだけど……二度あることは三度あると言うだろう。三度目がないとは限らない。だから僕は手がかりがほしいんだ。君は図書館で一体何をしていたんだい?」
「え……?」

 ユウキは首を横に振る。記憶を辿っても、何一つ変わったことがなかったのだ。

「私、図書館に本を寄贈に行っただけです」
「司書の人もそう言っていたらしいんだけどね。専門外の僕が調べるのも変な話なんだけど……どうしても気になってね」

 先生は顔を陰らせると、窓の外を見て、小さく息を吐いた。

「……いち」
「え?」

 何か人の名前が聞こえた気がして、ユウキは目を瞬かせる。だが、先生は

「いや、なんでもない」

 と言うと、とにかく無理はしないことと言いつけた。


 *


 退院し、二日後の夕方。
 一本の電話が家の電話にかかってきた。
 退院後もしばらく自宅療養を命じられたユウキは、買い物に出た母の代わりに電話を取る。
 それは図書館の司書さんからの電話だった。

『実は、落ちていたかばんを預かっていまして。お名前から賀上先生の娘さんだとわかりましたので、ご連絡差し上げました』

 ユウキのリュックサックはどうやら少し離れた場所に荷物があったため、置き去られてしまっていたようだ。

『どうされます? お送りすることも出来ますけれど……着払いになってしますが』
「いいえ、あの、近いので取りに伺います」

 司書さんはホッとした様子で『お預かりしますので、引取時には身分証明書をお持ちください』と言った。
 時計を見ると四時だ。まだ閉館時間まで少しある。そのまま母の携帯電話に電話をかける。だが、買い物の最中なのだろう。電話はつながらない。

「……うーん、行くかなあ。ないと学校行けないし」

 特に具合も悪くないし、来年は受験なのだ。あまりゆっくり休んでもいられない。明日には行こうかと思っていたのだ。幸い教科書などはだいたいそろっていたけれど、買い直すのももったいないと思っていたところ。リュックもお気に入りのものなのだ。
 母はさっきでかけたばかり。携帯もあるし、置き手紙をしていけばいいだろうとユウキは気軽に家を出る。
 外は夕焼けに染まっていた。外に出るのは久しぶりで、大きく深呼吸をする。だけど、妙に空気についた埃の匂いが気になって首を傾げる。乾いた空気が塵とともに喉に張り付く感じがして、小さく咳をする。

(ここってこんなに臭かったかなあ……)

 なんだか、体が都会の空気を受け付けない。

 図書館は自転車で十分位のところにあった。ユウキは図書館に入ると、カウンターに直行した。

「あの、お電話いただいた賀上です」
「ああ、もういらしたの? え、あなた、この間倒れたばかりでしょう? 大丈夫なの?」
「全然平気なんですよ」
「……そう、それなら、いいのだけれど」

 司書さんはどこか歯切れの悪い口調で言いながら、カウンターの後ろからユウキのリュックを取り出した。

「これで間違いないですか? あ、念のため、何か身分証明書持ってます?」

 学生証を出すと、司書さんは控えをとってリュックを差し出した。
 背負うとなぜか妙にずっしり重い。背中に何か硬いものが当たるのを不思議に思ったユウキは、入口付近のソファでリュックを下ろすと、中を検める。

「え」

 手にあたったのは、靴。リュックから取り出すと、燃えるような赤い色をしたハイヒールだった。
 目を見開く。呼吸が止まる。

「……クリス?」

 口から飛び出した名が、ぽかんと胸に開いていた穴と同じ形をしている。
 耳の奥でサイレンが鳴り響く。バクバクと心臓が大暴れをし始める。
 思い出せ。
 思い出せ――この名前は、忘れてはいけない名前。忘れてはいけない人の名前だった。
 輪郭を取り戻しはじめる記憶を頼りに、ユウキはリュックを引っ掴むと、図書館の中に舞い戻る。そして「走らないでください!」と怒られるのも構わずに寄贈図書コーナーへと向かった。
 コの字にくぼんだスペース。三段の本棚の中央。古さと厚さと色で存在感を示す本に恐る恐る手を伸ばす。
 そして背表紙に書かれた『御伽噺奇譚』のタイトルの下にある著者の名前を見て、ひっと喉が鳴った。

『賀上 夕姫』

 そこにはいつの間にかユウキの名前が書き込まれていたのだ。
 ユウキは本を抱え込むとカウンターに向かう。そして先程の暴走に渋い顔をする司書さんに謝りながら、初めての利用者カードを作り、『御伽噺奇譚』を借りる。
 リュックに大事に入れるとユウキは大急ぎで家に戻った。

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