家に帰ると母はまだ帰ってきていなかった。タクヤも部活があるから、八時くらいまでは帰ってこないはず。
 一人で部屋にこもると、ユウキは深呼吸をして《御伽噺奇譚》を開いた。壊さなければ、飲み込まれることもないだろう。そう思ったので、とにかく丁寧に慎重に行った。
 そしてゴワゴワの紙を一枚、めくる。
 美しく打ち込まれた活字が浮かび上がり、ユウキは背筋が冷えていくのがわかる。
 古い紙の上で、文字だけが今印刷されたばかりのように鮮やかだったのだ。

 恐ろしさをこらえながら、それでも、ユウキは文字を追う。
 そこにはユウキが紡いだ白雪姫奇譚が詳細に書かれていた。ユウキの生い立ちから、ユウキが母に愛されていないと思い込むきっかけ。愛に飢えて憂鬱な日々を過ごしたこと。そして本に飲み込まれるところまで。まるで小説のように綴られている。
 しかもユウキの視点だけでなく、なぜかクリス側の事情までもが書き込まれているけれど、この辺りはどうやって補完したのだろうと不思議でならない。
 首をひねり表紙を検めるけれど、そこにはユウキの名が書かれているだけ。だがとてもじゃないが、単なる女子高校生であるユウキに、これは書けないと思った。

(お母さんみたいな作家なら出来るんだろうけど……)

 なめらかに綴られる物語を読んでいると、様々な出来事が思い出されて、ついついのめり込んでしまう。だが結末を知ることが優先だ。ユウキは読書を一時中断すると、後ろから読むことにする。

(任せておけと言ったんだもの。大丈夫。きっと大丈夫。どうかクリスが幸せな人生を送っていますように)

 願いながら辿った文章に、ユウキは目を丸くした。

「……はぁ?? え、ちょっと、なにこれ」

 顎が落ちそうだ。
 そこにはこう書いてあった。

『王子様はいつまでも目覚めない白雪姫を、一生をかけて見守り続けたのでした』

(ちょっと待て。――願望? これはわたしの願望なの!?)

 待っていて欲しい――という心の奥底の願いを暴かれたようで、羞恥で顔が赤くなる。

(ちがう、ちがうし! こんなのちがうし!)

 書き換えたくて消しゴムを取り出す。だけど、相手は印刷された活字だ、うまくいくはずない。

(落ち着いて、ユウキ、落ち着いて!)

 深呼吸とともにやや冷静さを取り戻したユウキは、今度は修正テープを貼ろうとしたけれど、紙がゴワゴワのせいで全くくっついてくれない。ならば、破ってみようと手に力を入れるけれど、まるでゴムでも入っているのではないかという弾力性があって、できなかった。

(も、燃やす――?)

 とライターを持ち出しかけたけれど、そうするとクリスに二度と会えない気がした。本の中の人物だ。本がなくなったらきっとそれは世界の死と同じ。
 結局、燃やす以外のありとあらゆる方法を試してみるユウキだったが、本――と言うよりは書かれた文章が不思議な力で守られているかのようだった。本は、外からの修正をまるで受け付けなかった。

「内部からしか、変えられない?」

 あまりの不気味さに、心細くなったユウキは母に相談しようかと思う。小説家という空想を売り物にする職業の母ならば、このユウキの嘘みたいな話を理解してくれる気がしたのだ。だけど、クリスを救う方法など、突き詰めれば一つしかないことはわかっていて、そしてそれを言えば母が全力で止めるだろうというのはわかりきっていた。
 ちっちっと針が時を刻む音がする。
 壁掛け時計は既に五時を指していた。母が帰ってくるのも時間の問題だ。

(待ってから、せめて顔を見てから……にする?)

 そう思ったけれど、覚悟が――なにより危機感が薄れそうで怖かった。

(迷っている間も、クリスは待っている――)

 どうしても今行かねばいけない気がしたユウキは、母とタクヤに向けて書き置きをする。信じてもらえないかもしれないけれど、「本の中へ行く」と正直に書いた。

「心配しないで。絶対戻ってくるから」

 リュックの中に手当たり次第に物を詰める。そして、最後に母の読み聞かせてくれた童話本を詰め込む。いてもたってもいられずに、《御伽噺奇譚》の綴紐を握ると、目をつぶり、左右に思い切り引っ張った。


 * * *


 クリスがわがままを言って作らせたガラスの棺は、パンタシアの工芸技術をいかんなく発揮した素晴らしい代物だった。
 窓から差し込む光が乱反射して、中に横たわる娘を彩った。黒髪の少女の頬は生きているかのようにバラ色に色づき、唇は血のように赤い。彼女は、死なないはずの毒りんごで、深い眠りについた。死――と呼ばずに眠りと呼んでしまうのは、その後、彼女が全く姿を変えないからだ。呼吸をすることはない、胸の音も聞こえない。だが、朽ちてしまうこともない。あの時からを止めたままなのだ。どういう仕組みなのか、この世の中の唯一の不思議は、未だここに存在し続けていた。
 セミの抜け殻のようだと思う。たった半月ほどだけこの世で生きて、そして殻だけを残して旅立ってしまった。
 姉のように頼もしい彼女が好きだった。かと思うと、時折驚くほど脆い彼女を守りたかった。それが恋なのかと問われると、正直に言うとよくわからない。だけど、行き詰まり灰色に濁っていくばかりの自分の人生にを与えてくれた人だと思う。半年じゃ足りなかった。もっとたくさんの時を過ごしたいと思っていた。
 クリスは手に持っていたシロツメクサの花をユウキの髪に刺す。薔薇や百合よりも素朴な花が似合うといえば、彼女は怒るかもしれないけれど。クリスにはこのか弱そうで強い花がユウキにはよく似合うと思う。

 黒髪を撫でると青い香りが狭い塔の中に漂う。
 世の中に彼女のことが広まれば、不思議を暴こうとするものにこぞって狙われるだろう。だからこそ、厳重に口止めをして、高い塔の上にひっそりと隠している。宝物のように。

「クリスティン殿下。そろそろお時間です。陛下がお呼びでしたので」

 付き添いという名の見張り役、ルーカスが声をかける。
 だが、クリスは死んだように眠る姫君・・をじっと見つめたままだ。

「行かない。この時間だけは邪魔されたくない」

 話の内容など聞かなくてもわかる。クリスの縁談についてに決まっているのだ。結婚する、しないの攻防はここのところ激化している。顔を合わせるたびに、あまたの姫君の肖像画をつきつけられ、辟易しているのだ。

「初恋なんて、儚いものですよ。いつまでもこどものような振る舞いをなさらないでくださいね」

 お体ばかり大きくなられて。そうルーカスが呆れるが、

「こどもだからいいんだ」

 とクリスは答える。

「その言い訳が通じるのもあと一月ほどですよ」
「わかっている。だからそれまでは、放っておいてくれ」

 いつまでも目覚めない娘との結婚を突き通そうとするクリスに、ルーカスを始め、周囲は憐れむような目を向けてくる。
 あとひと月でユウキが去ってから三年になるが、ほぼ時を重ねてクリスは成人する。クリスがわがままを言えるのはこどものうちだけだと、母アンドレアと約束させられた。それまでにユウキが目覚めねば、諦める。そして、正式な・・・后を迎えろと命じられている。
 考えると憂鬱でたまらない。クリスが長いため息を吐くと、

「じゃあ……すぐに出てきてくださいよ。じゃないと覗きますからね・・・・・・・

 ルーカスがしっかり釘を差して部屋の外へと出て行く。一日のうちで、二人きりになれる僅かな時間。クリスは身をかがめると、ユウキの額にくちづける。その額からは、僅かだがぬくもりを感じる。だからこそ、諦められない。

「なあ、俺さ、おまえより年上になっちまったんだよ」

 ユウキとの約束を果たすため、クリスは神父を買収して結婚証明書を書かせた。――いや、本当は彼女があちら・・・で目覚めていれば、あちら・・・で伴侶を見つければいいだけの話なのだ。だから、これは多分クリスの願望にすぎないのだが……。
 とにかく、おままごとのような婚姻は、母アンドレアとの約束通り、白い結婚であるからという理由で間もなく破棄される。

(だから目覚めてほしい――だけど、目覚めないでくれ) 

 たとえユウキの中身がここに戻ったとしても、王子である自分には、政略結婚が義務付けられている。自ら結婚相手を選ぶことなど不可能だと知っている。もしクリスがユウキと結婚すると言い張れば、父も母も全力で妨害するに決まっていた。
 なにより、やはりユウキは異世界の少女。こちらの世界で生きていくよりも、自分の世界で生きるべきだ。そう思って帰したのだ。

(自分の世界で――幸せになるべきだ)

 幸せになって欲しい――ではないのが情けないところだと、自分の諦めの悪さをクリスは嘆く。そうして、窓の外に広がる鮮やかな青い海を見つめた。

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