出港時には穏やかだった海は、二日経った今、ひどい有様だった。魔物のように襲いかかる黒い高波に、クリスの乗った船は翻弄されつづけた。船酔いのため動きが全く取れなかったクリスだったけれども、異常事態に叩き起こされ、目の前に広がる惨状に船酔いを忘れた。
 つい先程、船が大きな衝撃のあと、バリバリというすさまじい悲鳴を上げたのだ。
 船は岩礁に乗り上げた。こうなってしまうと船を捨てるしかない。沈むのも時間の問題だからだ。水夫が避難用の小舟を下ろしているが、高波が被ればひとたまりもないだろう。迫り来る命の危機。クリスは恐怖に震え上がる。

「リーベルタースの港は!」

 闇に染まった海上で稲光が光る。白く反射した波しぶきに目を細めながらクリスが問うと、

「もう見えています! あと少しだったのに――風で煽られて」

 水夫が叫び返す。クリスは水夫の指先を睨む。灯台の上で松明が赤々と燃えていた。港だ。およそ半レウカ(約1km)あるかないかと言ったところか。

「こんなところで、……ちくしょう」

 水夫は歯噛みする。大陸の周囲を周回するだけの、さほど難しくない航海のはずだった。だがこの嵐の中を進むのは経験豊富な海の男でも厳しいようだ。

「とにかくお逃げください。ご一緒します!」
「だが、他の者は!? 船が足りない」
「殿下以外は皆鍛えております、泳げます!」

 水夫は頼もしい笑顔で励ますが、この嵐だ。凪いだ海を泳ぐのとはわけが違う。
 水夫は問答無用でクリスの体に浮き輪をつけると、さあ、と促した。だが、そのとき、

「うわ――」

 一際高い白波がクリスをさらい、彼は海に投げ出された。
 容赦なく次々に襲いかかる波の中、クリスは浮き輪を頼りに足をばたつかせる。暗く冷たい海の中、「殿下!」と自分を探す声が聞こえる。

「ここだ!」

 だがクリスの声はごおごおと鳴り響く風の音にかき消される。と、船が波に攫われると同時に海中に引きずり込まれていくのが見えた。
 沈没に巻き込まれたら海の底へ一直線だ。クリスはとにかく岸を求めて必死で足を動かした。港へ行くのは難しいかもしれない。そう思ったクリスは崖へと向かう。避難できるような場所があるかもしれないと思ったのだ。

「……まだ死ねない――おまえを見つけ出さないと死ぬわけにいかないんだよ! ユウキ!」

 どこかで呼びかけに応える声が聞こえた気がしたのが最後だった。頭上から降ってきた波に海水を大量に飲み込むと、クリスは意識を飛ばしていた。


 *


 眼裏が赤い。じりじりと肌が焼かれるような感覚にクリスは目を開ける。直後、刺すような日差しに目を閉じる。馴染みのない南国の日差しだった。

(ん…………?)

 目を閉じる直前になにか懐かしい面影を見たような気がして、クリスは重いまぶたを持ち上げようとする。
 だが、全身を覆う気だるさのせいで、瞼は再び力なく閉じてしまう。
 喉がヒリヒリと焼けるようで、クリスは干上がった呻き声を上げる。あれだけ水を飲んだのに、喉が乾いて仕方がない。

「――――?」

 何か問いかけられ、同時に、口元に冷たいものが触れる。どうやら水を誰かが与えてくれているらしい。無我夢中で与えられるままに飲み干すと、喉が潤いを取り戻す。すると頭のなかに漂っていた靄が少し晴れた気がした。

(ああ……俺、溺れたんだっけ)

「他の、皆は」

 声が溢れるが、聞き覚えのない言葉が返ってきた。リーベルタース語だと気がついたのは、自分が何をしに、どこに向かっていたのかを思い出したのと同時だった。

(ああ、俺は、ユウキを探しに――)

 クリスは働かない頭を叱咤すると、もう一度、今度はリーベルタース語で問いかけた。

「他の皆は?」
「……ああ、リーベルタースの言葉を話されるのですね? よかった。誰か通訳を呼びに行こうと思っていたところでした」

 意識して聞き取ると、普通に理解できる。太い声、だが柔らかい女性の声だ。

「ほら、姫様、もっとお水を。そんなに引っ込み思案でしたかねえ? ああ……もしかして恥ずかしがっておられるのですか? めったにお目にかかれないくらいの美男子ですもんねえ! ふふふ」

 慌てる気配だけが漂う。もう一人、人がいるようだ。だが、まぶたがどうしても重くて、目を開けられなかった。
 それに今は別のことが気になって仕方がない。
 船の水夫たちは無事なのだろうか。泳げると言っていたけれど、心配だった。

「だから――水夫たちは」

 声を振り絞ると、ああ、と慌てたように声が返ってくる。

「小舟で港にたどり着いております。ご安心を。海の男達は、そう簡単にくたばりませんよ」

 どうやら、海の底に連れて行かれそうだったのは自分だけだったようだ。
 ほっとしたクリスは体の力を抜いた。

「姫様、介抱をお願いいたしますよ。アタシはちょっと上に報告に行ってきますからね! ――アタシの勘が間違ってなければ、おそらく浅からぬ縁でつながるかもしれないお方ですから、とにかく大事にしてくださいね! この好機を逃さないでくださいよ!」

 最後はひそひそと囁くと大きな足音が去っていく。傍には先程の女性と比べると半分くらいの人の気配が残っていた。姫様――と言っていたけれど、どこかの姫君なのだろうか。

(ここはリーベルタースだから……リーベルタースの姫君)

 うつらうつら考えているうちに眠気がクリスを包み込む。
 半分足を突っ込んだ夢の淵で、誰かが自分を呼ぶ。

『くりす?』

 聞き覚えのある声。片言の発音に違和感はあったが、忘れもしない声に意識が浮上しかける。
 だが、

「――――――?」

 続いた言葉がまるで理解できない。この辺りで使われるパンタシア語でもリーベルタース語でもカタラクタ語でもない。なんとか理解しようと試みたところで、気力と体力の限界が来た。

(ユウキ)

 願望が見せる夢かもしれない。

(っていうか、こんな都合のいい展開、もう夢を見ているんだろ、絶対)

 クリスはそう思うと、誘惑に耐え切れずに意識を手放した。

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