そして、目覚めは森。かたわらには背負っていたリュックサックと手のひらサイズの手順書――というか単なるノートだ――が一冊。
 リュックの中には教科書が数冊と、筆記用具。飲みかけのペットボトルの水が入っていた。ノートを開いてみると、むちゃくちゃなルールだけが書かれていて、叫んだところで、今に至るのだ。
 最初グリムに聞いた話から想像したのは、どこまでも二次元の世界。紙芝居がばらばらになってしまって、それを元の話の順に並べ替える――そんな印象だった。だけど、実際の世界は二次元ではなく、れっきとした三次元。当初予想したようなメルヘンな世界ではなく、文章としては書かれていない圧倒的な情報にあふれて、生きて・・・いた。

 濃い森には鳥の鳴き声が響き、ちょろちょろと小川のせせらぎも聞こえてくる。美しい風景は家電量販店においてある最新型の大型テレビで見るよりも更に鮮やかだった。だけど、羽虫はところどころに群れを作っているし、足元はぬかるみ、蛇の心配をしなければいけない気がした。
 これは本当に物語の中なのだろうかと、疑うくらいにリアルな世界だった。
 膨大な情報に圧倒されながら、ユウキは途方にくれた。

 どのお話かわからない。どんな役割を与えられているのかもわからない。そしてどこからスタートするのかもわからない――という、わからないことづくし。ユウキは一体どう動けばいいのか、見当もつかずにただノートをじっと見つめ続けていた。
 だけど、無情にもユウキの身体は空腹を訴え始める。
 きゅうう、とお腹が鳴って、飢餓感にこれが現実なのだと知らされる。

(ああ、このままじゃ、わたし、飢え死にする? ――それはいやだ――)

 そう思った時だった。
 ふと、後ろで草むらががさりと音を立て、ユウキは飛び上がった。

「…………あんた、なんでこんなところにいるんだ? 追っ手……じゃないよな?」

 高くもなく低くもない、中性的な声に恐る恐る振り向いて、ユウキは目をむいた。
 そこにいたのは、レースとフリルで飾られた豪華な赤いドレスを着た、おとぎ話に出てきそうなお姫様だったからだ。森の景色とはそぐわないけれど、自分のセーラー服姿とどちらがましだろうか、とユウキは思う。

(あぁ、ってことは、ここは日本じゃないってこと。やっぱり、グリムの言ったことは現実なんだ……)

 信じたくない。縋るようにノートを抱きしめる。

(あれ? でも…………あんた? って言わなかった、今?)

 そんな違和感が頭をかすめて、混乱の中、首をわずかに傾げていると、お姫様然の女の子がふらふらと近づいてくる。裾の広がったドレスを重そうに引きずって危なっかしい足取りで。

「だ、大丈夫?」

 ユウキが声をかけた瞬間だ。
 その女の子は何かに躓いたかと思うと、その場に崩れ落ちた。

「ちょ、ちょっと! あなた真っ青――」

 青い――というよりは、とにかく顔が紙のように白い。慌てて駆け寄ったユウキは目を見開いた。
 目を凝らしたあと、一度ギュッと目をつぶる。
 一呼吸して、もう一度目を開ける。だが、目に入る映像は変わらない。
 上を見て確認する。木々の隙間にある空は、眩しいくらいに見事な青。

「……青いよね」

 次にぐるりと周囲を見回した。森と称した木々の集まりは、萌黄色から深緑、様々な緑色を使った、見事なグラデーションを作り出している。

「うん、綺麗な緑色」

 最後にユウキは目線を少女に戻した。
 ……が、やはり、先ほど見た映像と同じ。少女のドレスは赤。だけど少女だけにがついていなかった。白黒だったのだ。グレースケールとでも言えばいいのだろうか。肌が真っ青と思ったのは、色が紛れも無い白だったから。本来色の付いているはずの唇も薄い灰色。たくさんの編みこみが作られた腰まである長い髪は濃い灰色に見えるけれど、きっと、もっと違う色なのだと思う。

(こ、ここの人間って色が付いてないの!?)

 大混乱するユウキに向かって少女が「ここから、早く立ち去れ」と呻き、はっとする。見ると、苦しげに顔をしかめる少女は、腕に大きな切り傷を抱えているようだった。
 ただし、血と思える液体が赤には見えない。濃い灰色に見えるけれど、結構な量がにじみ出ている。
 それを見ていて、はっとする。

(もしかして――世界の欠損って、これ!? 色のこと!?)

 ユウキは頭の半分でそう思いながらも、残りの半分はどうやって治療しようかと焦燥感に急き立てられていた。
 ごめんね、と断って裾をめくると、切り傷と泥だらけ(に見える)の裸足の足が出てきてぎょっとする。

「なんで靴履いてないの!? これ――破傷風になっちゃう!」

 母は、ユウキやタクヤがけがをするたびにそう脅して消毒液をぶっかけた。ちょっとしたトラウマなのだ。

(この世界に予防接種ってあるの!? いや、あったとしてもこれは危ないよね。怖いのは破傷風だけじゃないし。もっと怖い菌がいるかもしれないし!)

 ユウキは慌てて辺りを見渡すと、耳を澄ます。何処かで水音がしていたから、きっと近くに水場があると思った。

「ちょっと待ってて!」
「いや、だから森から出てけって――」

 少女が言うのを振りきって、ユウキは駆ける。言うとおりに出て行ったほうが、いや、逃げたほうがいい――どこかでもうひとりの自分が叫ぶけれど、とてもじゃないけれど放っておけない。
 だけど、あんなひどい傷は日常ではお目にかかることはめったに無いし、ここには消毒液だって無い。

(わたしに、できるの?)

 自信が陰った途端、恐怖が足元から這い上がる。
 それでも、しんとした空気がユウキをその場に縫い止めていた。
 静まり返った森には人の気配が無い。目を凝らしてみようとも、森は薄暗く、出口など見えず、獣道さえ見つけられそうにない。

(ここにはわたししかいない。わたしが助けなかったらあの子は死んでしまうかもしれない!)
(それは――いやだ。なんとかしなきゃ。出来る範囲でなんとかしなきゃ!)

 自らを奮い立たせて岩から降りると水音を頼りに川を探す。運良くすぐに小川が見つかる。水が澄んでいるのを確認したユウキは歓喜に顔を輝かせた。

(――よかった! まだツキはある!)

 ユウキはすぐに元の場所へ戻ると、少女の肩の下に身体を潜らせる。少女はユウキより少しだけ背が高い。そのせいだろうか。華奢に見えるのに案外重いと思いながら、わずかに意識のある少女を支えて下へ降りる。そして川にたどり着くと、まず彼女の腕を洗ってハンカチで止血する。そして次に足を水に浸した。

「ってえ」

 うめき声が残念すぎると思いながらも、必死で泥と血の混じったものを落とす。ユウキも昔たわしでゴシゴシ洗われたことがある。そのくらい丁寧に泥を落とさないとまずいのだ。やめろと騒ぐ少女をなだめながら洗い続けると、だんだん傷口が顕になる。出血の割には傷が浅いことにホッとした。ただ足首がひどく腫れているのはどうしようもない。これはひねったか折ったかしてる。

「よく我慢したね。――動かせる?」

 聞くと、彼女はホッとしたように小さく頷く。

「たぶんひねっただけ。慣れない靴履いてたせいで転んだ」
「靴はどこ?」

 彼女はドレスと同じ色の赤い靴をポケットから取り出す。右足片方だけの靴には七センチくらいのヒールが付いている。これで山歩きはたしかに無理だろう。

「左足のはムカついて捨ててきた」

 口調からなんとなく察していたけれど、結構過激なお姫様みたいだ。

(あぁ、もともとはきっと綺麗な足首だっただろうに……傷だらけでもったいない……)

 そんなことを考えながらももう一方の足の傷を診てほっとする。こちらは小さな切り傷だけみたいだ。
 自分のリュックサックを漁る。だけど教科書に筆記用具、それからアルミ製の弁当箱とペットボトルの水が入っているだけで……使えそうなものはない。

「包帯はさすがにないし」

 少し悩んだユウキは自分の靴下を脱ぐと、何枚か硬そうな葉っぱをちぎってきて中に敷き詰める。そしてその上に柔らかそうな葉っぱを敷いてクッションにした。

「嫌かもしれないけど、ちょっと我慢して」

 無いよりましな靴の代わりだった。

「……逃げないと」

 応急処置もろもろを終えると痛みが少しましになったのだろうか。少女はぽつんと呟く。

「この足で? 無理だよ」
「死ぬよりはましだから」
「死ぬ!?」
「捕まったら殺される」

 思っていたよりも壮絶な状況にユウキは絶句する。悲壮感の漂った顔で少女は言うと、ユウキの手を振りきって傷だらけの足を踏み出す。そして痛みにうめいた。

「お願い、やめて。無理だから」

 背負っていけるだろうか――そんなことが頭を過る。けれど、一体どこへ? この場所がどこかもわからないのに。助けて欲しいのはユウキの方なのに。

(わたし、帰らなきゃ。こんな子、置いて、早く物語を完成させて、帰らなきゃ)

 そう思うのに身体は勝手に動いていた。
 多分、少女と、弟が重なったのだ。忙しい母に代わって、面倒を見続けた世話のやける弟タクヤに。そうなってしまうともうだめだった。

(やっぱり、放っては置けない! 置いて行ったら、絶対後悔するに決まってる!)

 彼女に肩を貸すと、ユウキは歩きはじめる。

「一緒に逃げる。――どこに行けばいいの」
「え、なんで?」

 少女は信じられないという顔でユウキを見る。

(そんな顔しないで。わたし、一瞬あなたを見捨てようとした。つまるところ……自分が心苦しいからこうやってるだけなんだから)

 後ろ暗くて目を逸らす。真っ直ぐな目が見ていられない。

「だって困ってるんでしょ」
「でも巻き込むわけに行かない。危ないし――正直、あんたを信用出来ないってのもある」

 言いにくそうに、でも、きっぱりと少女は言った。

(タクヤとは違って、しっかりしてるなあ。それはそうか。わたし、完全なる不審者だもんね)

 知らない人の過分な親切は、ユウキでも裏があるんじゃないかと疑ってしまうと思った。

(たぶんこう言った方が受け入れてくれるんじゃないかな)

「じゃあ、交換条件ってのはどう?」

 そう思いながらユウキが提案すると、少女は面白そうに眉を上げた。

「困ったときはお互い様――つまり、わたしも見返りが欲しい。わたしは今ここで迷子なの。行く宛もないし、一人にされたら路頭に迷う。あなたを無事に逃したら、わたしを助けて。それならいい?」

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