小さな靴が甲板に落ちている。
 身をかがめ、拾い上げる。
 握りしめると、布製の柔らかい靴はくしゃりと形を変える。あっけなく散る命に思えて、クリスは慌ててそれを手放す。だが、落ちる寸前に拾い上げて、今度は胸の中に抱きしめた。

「ユウキ」

 朝日が登る。黄金に染まる海の上から、泡が消えていく。
 音もなく消える泡は、ユウキの存在が消えていく様に思えて、クリスは海を凝視した。かつて、彼女は身体から離れ、空に吸い込まれていった。今度は、海に溶けてしまうのかもしれない。
 呆然と立ちすくむクリスの背に、聞き覚えのある高い声がかかった。

「なにぼーっとしてんだ! 助けないと! 大した傷じゃなかったと思う。けど、あいつは、泳げない!! 海に落ちれば手遅れになる!」

 カタラクタ語で発破をかけられたが、クリスは小さく首を振るだけ。

「ユウキは、帰ったんだ」

 カタラクタ語で返し、小さく振り返ると、予想通りに視界に現れたのはエミーリエ。目が合うと同時に罵倒が飛んできた。

「は? 何いじけてんだ? この腰抜け!」

 反論するのも億劫だと思った。クリスが黙り込むと、彼女は、真っ青な、しかし決意に満ちた顔で、まとっていたドレスを脱ぎはじめた。

「な、」

 淑女とは思えない突飛な行動に、さすがにクリスは正気を少し取り戻す。
 泡を食いながら止めようとするクリスだったが、彼女のドレスはあっさりと剥がれ落ちた。
 目を見開く。身体にぴったりと合った、ひどく身軽そうな、シャツとズボンを身にまとったエミーリエは、色香をドレスとともに捨て去ってまるで別人だった。

「あんたが行かないんなら、アタシが行く! あいつを殺るつもりじゃなかったんだ。放っておけない!」
「待て!」

 そのまま船の縁に足をかけたエミーリエを、クリスは慌てて止める。どう説明すれば理解してもらえるかわからなかった。

「彼女は、死ぬんじゃなくて、自分の世界に帰ったんだ――」

 どちらも二度と会えないという意味では同じことだ――と思いかけたクリスは、だが、直後、

(本当に? 本当にそうか?)

 心の中に泡のように浮かんだ問いに、頬を張られたような気になった。

(どこが同じだよ! 全く違う! ……そうだ……! ユウキの身体を回収しないと!)

 諦めるのは、早すぎだった。

(――もう待てないだと?)

 エミーリエの言うとおりだ。自分と生きる道を選んでもらえなかったと、いじけて拗ねていた自分を殴りたい。もし、今諦めたら、ユウキの身体までを失ってしまえば、クリスは彼女を完全に・・・失ってしまう。

(待てないんなら、おれが、自分から追いかければいい)

 方法など今は見当もつかないけれど。

「待て――おれが行く!」
「って、あんた、泳げるのかい?」

 先日、海の藻屑となりかけた思い出が恐怖となって襲いかかり、ぐっとつまる。それでも行かねばならないと思った。船べりに吊るしてあった浮き輪を掴みつつも、頷くとエミーリエが笑った――その時だった。
 エミーリエの頬がピクリと引きつる。視線がふいにクリスから離れ、そして険しくとがる。
 思わずエミーリエの視線を追ったクリスは、ぐるりと自分を取り囲む黒い影の集団に気がつく。
 騒ぎに気がついて集まったのだろうか。
 彼らは甲板に落ちた血にどよめいて、殺気立っている。

「殿下、花嫁は、オフィーリア様は――」

 不在の花嫁、そして血痕は最悪の状況を想像させたらしい。ほぼ全員がオフィーリアの恋敵(だと思われているはずの)エミーリエを凝視している。

「まさか、おまえがやったのか? さては殿下の妃の座を得られなかったからか――このカタラクタのメス犬め! 殿下から、今すぐに離れろ!」

 どこからか声が上がり、辺りがどよめいた。その言葉にひどい違和感が湧き上がる。

(なんだと?)

 違和感の正体はすぐに知れる。
 カタラクタという国の名前が、あまりにも唐突に出過ぎていた。まるで皆に印象づけるかのよう。
 エミーリエはかなり慎重に出自を隠していた。言葉さえ封印して。
 クリスでさえ先程知ったばかりだと言うのに、誰が彼女をカタラクタの者だと知ることが出来ようか。
 クリスは注意深く辺りを見回し、発言者を探す。
 だがどよめきの中では、もう見つけられない。
 ただ、どこからか向けられている眼差しの鋭さに、先程ユウキを貫いたナイフを自分に向けられているような心地になる。それが殺気だと気がついたとたん、

「……そうか。そういうこと――」

 先程寝室で感じた《偽物の花嫁に関する違和感》と、今感じた違和感がようやく結びつく。

(あのとき、おれが刺されていたら。ユウキがかばってくれなかったら)

 クリスがエミーリエに万が一害されていたら、一体どうなっていたかは想像に難くない。
 パンタシアは王子を失い、エミーリエは捕らえられ、ユウキはおそらくエミーリエが犯人だと、動機も含めて証言するだろう。そうなれば、カタラクタはパンタシアの敵意を一気に背負い――おそらくは戦が勃発する。
 そして。パンタシアとカタラクタが揉めれば、誰が一番得をするかなど火を見るより明らかだった。

 と考えると、身代わりの花嫁の意味もすんなりと呑み込める。
 万が一の場合に、娘を危険に晒させたくなかったから、だ。

 だが、今、表向きには、ユウキがオフィーリアだ。彼女がエミーリエによって殺されたという事態が発生すれば、カタラクタと揉めるべきはリーベルタース。彼の国は、身代わりを暴くか、カタラクタと戦をするかどちらかの選択を迫られる。
 リーベルタースは、どうするだろう。姫を害されたとカタラクタと戦うだろうか。

(いや、どちらの道も望まない。だって、カタラクタと揉めれば、パンタシアは黙っていない。これ幸いと、弱ったところを叩きに行くだろう)

 つまり、リーベルタースがパンタシアに仕掛けた罠に、自ら嵌まるようなものだ。だから、きっと代替策は用意されているはず。

(それは、おそらく)

 つ、と脇の下をひんやりとした汗が流れていく。
 自分に絡む視線がじわじわと増えている気がする。相手は一人ではないのかもしれない。居場所を掴ませない辺り、間違いなく玄人だ。こちらが丸腰では、絶対に分がない。
 一瞬でも気を抜けば、殺られる――そんな気がして仕方がない。そして多分それは気のせいではない。パンタシアとリーベルタースは似ている。だから、クリスは同じ立場で考えることが出来るのだ。

(つまり――おれは”ここで死なないとまずい”ってわけか)

 そうすれば、最初の計画通りに事が進むのだから。一番簡単だ。
 最悪の事態を想像して、クリスは必死で考える。

(じゃあ、どうする!? だけど、そうだ……リーベルタースは表立っておれを殺すことは出来ないはず――!)

 そんなことをすれば、パンタシア対リーベルタースという大戦が発生する。同じだけの国力でぶつかれば、疲弊するのが目に見えている。それはあちらも本意では無いはず。相手の国力を充分に削いでからでないと、戦を仕掛ける気にならないだろう。
 ――国力を削ぐための前哨戦、それが彼の国の今回の作戦なのだ。

(おれは、今、ここでは死ねない。それならば、逃げ場所は一つしかない――!)

 クリスの頭のなかに、ここを乗り切る一番良い方法――パンタシアを守る方法が降ってくる。

「エミーリエ。生きたかったら、ついてこい」

 彼女だけに聞こえるような声で囁くと、クリスは上着ガウンを脱ぎ捨てる。そして声高らかに宣言した。

「花嫁が海に落ちた。おれはオフィーリア・・・・・・の後を追う!」
「殿下! お待ち下さい!!」

 どこかでルーカスの声が聞こえた気がしたが、振り切るようにしてクリスは海へと飛び込んだ。

 泡がクリスを包み込む。

(もうここにはいないはずなのに――)

 なぜか、ユウキが待っていてくれるような気がして、仕方がなかった。

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