目が覚めるたびに、ここはどこなのだろうとユウキは思う。
 なぜだか、自分が居るべきところにいない気がしていた。自宅ではないからだろうか。とにかく落ち着かなくて逃げ出したくなる。
 怪我をしたというのは本当らしく、鎮静剤が切れるとともに引きつれるような痛みが背中に走った。その度にユウキのぼんやりした意識はわずかにはっきりするのだけれど、代わりに痛みのせいでものが考えられなくなる。
 部屋の隅では心配そうな母とタクヤが見守っている。
 やつれた母の顔を見て、ふと、ユウキの頭には疑問が浮かんだ。母がこういう顔をしている時はたいてい校了前など、仕事が最高潮にハードなときだからだ。

(あれ……お母さん、お仕事休んでくれてる?)

 だが、ユウキはその事実自体に驚いているわけではないようだった。普通の親ならば、娘が怪我をしたら付き添うに決まっている。だけど、ユウキの母は仕事が命で、こんな時でも仕事をしているはずなのだ。しかし、今、ユウキは母がここにいることが当たり前だと思えている。それが不可解で仕方がない。気持ちだけが時を跳んだかのようだった。
 ユウキはすぐに、二人の影に隠れるようにして立っているスーツの二人組に気を取られる。鋭い目がユウキの様子を窺っている。心を覗き込まれるようで、怖くなり目をそらす。

(あの人達……なにをしてるんだろ……あ、タクヤがなにか言ってたような……)

 一瞬で恐怖が浮かび上がった。だが、そんな感情さえも薬のせいで次々に霧散してしまう。


 *


 一週間ほど経つと意識が大分はっきりした。傷が回復し、鎮痛剤の種類が変わったからだ。おかげで夢と現が切り離されたようなスッキリとした気分だった。

「カガミ、ユウキさん」

 低い声が病室内に響き、来るべきときがとうとう来たか、とユウキは身構え、目をギュッと閉じる。
 ずっと視界の端に入っていた、病室には不釣り合いなダークスーツ。その不吉な黒い色が、淡い色をしたユウキの視界と意識を常にじわじわと蝕んでいたのだ。
 覚悟して目を開くと、ユウキの予想に反し、穏やかな表情の二人組がこちらを覗き込んでいた。
 細面で、眼鏡を掛けた落ち着いた優しい感じのおじさんが一人と、がっしりとした体育会系の青年が一人。こちらは少し顔が怖い。
 上司と部下といった感じで、ユウキはたまに見ていた刑事ドラマを思い出す。そしてタクヤが言っていた言葉も思い出す。刺された、とタクヤは言っていた。つまり、ユウキは事件に巻き込まれている。

「事情、聴取っていうやつですか?」

 乾いた喉に声が貼り付く。脇にいた母がベッドを操作してユウキの半身を起こしてくれる。水を飲むと、声がようやく潤いを取り戻す。
 上司と思われる眼鏡の男性が「うん」と頷いた。

「三浦、という者です。そして、後ろのが山田。もう気づいてるみたいだけど、僕たちは警察官だよ」
「……」

 そういえばタクヤが警察だと言っていた。改めて聞くとショックな響きだった。今までの人生で警察にお世話になるようなことがなかったから。

「ちょっとだけお話を聞かせてくれるかな」

 三浦さんが目配せをすると、母が心配そうな顔で部屋を出て行く。
 何の話だろうと不安になると、すぐに済むからと諭される。
 病室は、点滴の雫が落ちる音が聞こえるのではないかと思うほどしんとしている。
 やがて三浦さんが静かに切り出した。

「怪我をした時のことをね、教えてほしいんだ」

 ユウキは首を横に振った。それは何度も母や弟や、真山先生に聞かれた。だが、記憶がぼやけてまるで思い出せなかった。気がついたら、既に怪我をしていたのだ。痛みはあるけれども、自分の身に降り掛かったことに思えない。本当に他人事のようだった。

「何も、覚えてないんです」
「何も? 一人で家にいたことは?」

 山田さんが苛立ったような声を上げ、ユウキが体をこわばらせると、三浦さんが「優しく、君顔が怖いんだから」と注意する。

「……」

 ユウキは首を横に振る。必死で思い出そうとするけれど、やはり記憶がすっぽりと抜け落ちている気がする。大きな空白があることだけが、なんとなくわかった。

「真山先生から、記憶に混濁があるとは聞いているんだ。君、いつまでは覚えてるのかな。こうして倒れる前は何をしていたの?」

 穏やかに尋ねられて焦りが和らいだ。ユウキは落ち着いて一番新しい記憶を引きずり出そうとする。
 幸い、その質問は真山先生にもされていたため、すぐに答えることが出来た。

「ええと、図書館に、いました。母の本を寄贈しに」

 本に押しつぶされそうな家を守るための毎月の恒例行事だ。それがどうしてこんなことになっているか全くわからないけれど。

「図書館に寄贈? ……この病院の近くの?」
「この病院の近くって……じゃあ、ここはまやま病院ですか?」
「うーん……そこからしか、覚えてないのか」

 三浦さんは難しい顔をした。

「君は少し前――そうだな、半月くらい前に図書館で倒れて、この病院に一週間入院しているんだけれど、それは覚えていない?」
「え? 倒れた? 今回より前に?」

 全く記憶にないし、意味がわからなかった。動揺するユウキは髪の中に手を入れて髪を引っ張る。

(どうして?)

 自分の中の重要なパーツが失われている。自分が自分でないみたいだった。
 ユウキの記憶を刺激しようとしているのか、三浦さんが続ける。

「そして、退院して、家に戻ったところで怪我をした。弟さんが発見して、お母さんが救急車を呼んだんだ」
「救急車……」

 頭の中にサイレンが響いた気がしたけれど、それが自分とはつながらない。ぐらん、と視界が歪んだ気がして、ユウキは両手で顔を覆う。すると山田さんが口を挟んだ。

「君はお家の中に一人でいたみたいだけど、家には鍵がかかっていて、誰も入れないはずだったんだよ。だからおれは、君が誰かをかばっているんじゃないかって、思ってるんだけどな」
「鍵? かばう?」

 それはどういう意味だろうと考えようとするけれど、混乱のせいで頭が働かない。

「山田くん、君は黙ってて。焦ると逆効果だと何度言ったら……」

 三浦さんが厳しく遮る。だが山田さんは口を尖らせる。

「だってそれしか答えはないでしょうが。背中の傷ですよ、自分じゃあんな傷は付けられない――それに、き」
「山田くん」

 三浦さんが山田さんの腕を捻り上げる。

「だまりなさい。その緩い口で身を滅ぼしたいのですか」
「…………」

 山田さんはむうっと口を尖らせつつも、黙り込んだ。そして三浦さんはユウキの顔をじっと見つめたあと、

「君はどうやら、本当に何も知らないみたいだ」

 困った顔でつぶやくと、三浦さんは山田さんの手首を離して、立ち上がる。

「今日のところは、ひとまず帰ります。また何か思い出したら、ここに電話をしてくれるかな」

 名刺を差し出されて受け取ると、山田さんも不機嫌そうな顔で自分の名刺を手渡し、同時に囁いた。

「三浦さんと違って、おれは君を守りたい。君を刺した犯人を捕まえたいんだよ」

 《刺した》、《犯人》、という激しい言葉に胸が跳ねた。
 そして、先程の意味ありげな言葉が絡み合う。
 ユウキは、一人で家にいて、背中を刺された。そして家には鍵がかかっていたのだ。
 つまり、誰かがユウキを刺した。そしてその犯人は身近にいると、彼らは考えている。
 ああ、それでこの人達がここに張り付いているのかと、ようやく事の重大さが理解できたユウキは呆然とする。

(わたし、刺されたの? ……誰に・・?)

 警察は母と弟を疑っているのかもしれない。だけど、それはありえない、とユウキは確信していた。
 仲が良い親子ではなかったと思う。けれど、なぜだか、そう思えるのだ。

 これはとても重要なことだと、もう一人のユウキが訴えてくる。家族が疑われているのだ、重要に決まっている。だけど、思い出せ。思い出せと、お腹の中で熱がうねるような感覚があった。
 それは恐怖というよりは、焦燥に近かった。
 爆音を立てるかのようなひどい動悸に胸を押さえる。

(あれ……わたし、こんな風にこの間苦しくなったことがあったような……)

 思い出そうとすると頭のなかでサイレンが鳴る。頭が痛かった。堪えられないほどに。
 吐き気までしてきたユウキが、右手を胸に、左手で髪の毛を握りしめると、慌てた三浦さんが部屋の外に出て人を呼ぶ。母が部屋に飛び込んで、廊下からは、看護師さんが走る音、そして三浦さんが山田さんを叱る声が聞こえていた。

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