「さ、すがに、今度は、死ぬかと思った……」

 隣でエミーリエがゼイゼイと息を上げている。先に力尽きかけ、最後は崖上に引き上げてもらったクリスは、既に口をきく気力がない。息をするのが精一杯。それに、塩水を何度か飲んだせいで、喉が干からびている。
 倒れ込むと、雑草の隙間から青い海と白い波が見えた。荒れていなくてよかったと強運に感謝する。
 それでも、とクリスは言うことをきかない足を擦る。何度足が攣っただろうか。一度溺れたこともあり、船旅の前には随分訓練した。だが浮きがあれど、岸まで泳ぐとなると話は別。自分だけで精一杯どころか、助けてもらう始末ではユウキを探すことなどとうてい無理な話であった。

(ユ、ウキ――)

 無力感に、目の前の草を掴むと握りしめる。

 暗い海の中で一瞬見えた人影は、渦に巻き込まれてすぐに見失ってしまった。
 もしかしたら身体ごと戻ったのだろうか。だとすると、もうこちらの世界と彼女を結ぶものは何もないのかもしれない。
 そんなことを考えると足が動かなくなった。海の底に自分も引きずり込まれていくような心地がした。
 だがその度に、

『おまえ……! ついてこいって言ったくせに、ここで諦めたら許さないからな! あいつを助けるつもりなら、まずおまえが生き残れ!』

 と叱咤して岸まで意識を保たせたのがエミーリエだった。彼女がいなければ、クリスは今度こそ海の藻屑になっていただろう。
 それにしてもすごい体力だった。潮の動きを読み切って岸までたどり着いてしまったのだから。
 よくよく思い返すと、ユウキが言っていた気がする。
 前に溺れたクリスを助けたのが彼女だと。
 それが本当だとして、寝室に忍び込んだ手際の良さなどを考えても、普通の娘とは到底思えない。攫われてきたと言っていたけれど、それは嘘だろう。誰か・・に送り込まれたと考えるのが妥当だと思った。そして何らかの理由・・・・・・でその役割から逃れられない。
 クリスはエミーリエを観察する。
 顔は怒った猫のようだとクリスは思う。今更だが、ユウキと間違えたことがあるのが嘘みたいだった。そう思ったとたん、

「……あれ、その髪の色」

 クリスは目を瞬かせた。

「あー……とうとう取れちまったか。さすがにあれだけ水に浸かれば染料が溶けちまうか」

 エミーリエは自分の髪の毛を一房掴むと、色を確認して顔をしかめた。髪の色が明るく変わっていたのだ。黒かった髪が茶色に変わると、印象が全く違う。元来の快活そうな雰囲気が増していて、似合っていた。同時に似合わないと思えるものが新たに出てきた。
 勝手につけた彼女の名前。エミーリエなんて優しげな名前は、今の彼女には全く似合わなかった。

「君が普通の女性だとは思えないんだけど……一体何者だ?」
「アタシ? 今、聞いちまうのかい?」

 エミーリエが目を丸くする。

「……言えないのか? 名前も?」

 すると、エミーリエは肩をすくめて、クリスの反応を伺うようにニヤリと笑った。

「ま、名前くらいいいか。あんたならそのくらいの情報には、もうたどり着いてそうだし。なによりアタシ、エミーリエってがらじゃないしね。――ロシェル・・・・、だよ」
「なるほど、ね」

 ロシェルというのが本名かどうかわからないが、カタラクタでよくつけられる名のはずだった。できればもっと詳しく聞きたいところだ。しかし、今はそれだけ聞けば充分だとクリスは一旦会話を打ち切った。とにかく水を飲みたかったのだ。

「――ここは」

 クリスはロシェルから目をそらすと周りを見渡した。
 目の前には鬱蒼とした深い森。見上げれば雪を頂いた高い山。雪解け水が期待できそうでほっとする。
 続けて、クリスは位置を確認しようと背後に目線を移す。
 崖の下は砂浜もない海で、岩ばかりが目立つ。船をつけることはできない場所のようだ。険しい地形を見るに、パンタシアとリーベルタースの国境付近だと思って良い気がした。
 リーベルタースからパンタシアまでは船で五日。船上にいたのは丸一日だから、パンタシア領にはまだ入っていないと思われた。それに、地面にカシやクヌギなどの実が大量に落ちている。これらは暖かい場所で育つ広葉樹だ。こういった樹木が群生する場所はパンタシアにはないはずだ。
 いくつか食べられそうな実を見つけるが、喜びより落胆が大きい。

リーベルタース・・・・・・・みたいだな、まだ」

 クリスがつぶやくと、事の深刻さを同時に悟ったのかロシェルは顔をこわばらせて頷いた。

「ってことは逃げないとまずいね」
「早急にパンタシアへ戻らないと」

 クリスが生きていると困る人間の顔を思い浮かべる。クリスの考えが正しければ、すぐに追っ手がかかるだろう。命の危機は全く去っていなかった。
 ロシェルが苛立ったように舌打ちした。

「でももう船はないよ」
「つまり、カタラクタを通るルート――陸路を行くしかないということだろ」

 直線距離では航路より随分短い陸路だが、高低差はひどく、道は限られて、その上に獣も野盗もいる。そしていつも守ってくれるルーカスたち親衛隊は今、傍に居ない。探してくれているだろうけれど、追っ手とどちらが早く追いつくだろうか。考えると、どうしても心細さが胸を覆う。

(おれは、おれたちは、生き抜けるか?)

 だが、ロシェルがふいに空を見た。

「カタラクタはあっちだ」

 一瞬で方角を把握した彼女に目を丸くすると、彼女はニッと笑いながらナイフを一本差し出した。そして自らは短剣を手にしている。

「アタシはこれで十分。心細いだろうから、そっちを貸しておくよ」

 どうやら、クリスはこれ以上彼女のお荷物にならないように努力すべきらしい。
 その頼もしさは、クリスをひどく安堵させる。不甲斐ないなと自嘲しながら、足を一歩進めようとしたクリスだったが、ふと眉をひそめて立ち止まる。
 山の前には、深い森が広がっている。ここを抜けて、カタラクタへ向かう。急いでも国境まで五日はかかると思えた。
 だが、クリスの足を止めたのは、道のりの険しさではなかった。
 そこはまるでシュトライテンの森――ユウキと初めて出会った森のようだったのだ。
 得体の知れない不安が胸を覆っていく。
 ここに入ればきっと思い出さずにはいられない。ユウキと出会い、一緒に過ごした日々のこと。そして無理矢理にリンゴを食べさせてあちらの世界に帰したことを。
 そんなかけがえのない思い出が、上書きされるのが怖くて仕方がなかった。
 自分が相当に参っている自覚があった。それでも後ろは海と崖だ。そしてここにいればいずれ追っ手の手にかかり、命を失ってしまうだろう。命を失えば、ユウキに再会することもかなわない。
 ロシェルが足を踏み出し、クリスに「行くんだろ?」と笑いかける。クリスは一歩足を踏み出す。細いくせに背中が大きく見えて頼もしい。そして、その姿は、エミーリエであった彼女よりも随分と好ましい。
 胸の奥でひどい警鐘が鳴っていることに気がついたクリスは、再び足を止め、ギュッと目を瞑る。

(それでも、おれは、今死ぬわけにはいかないんだ――ユウキ、おまえを見つけるまでは)

 そして眼裏に焼き付いた笑顔で、心に固く鍵をかけると、深い森に足を踏み出した。

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