だが、ユウキのこしらえた鍵は、日に日に強化を求められる。
 翌日はここに来て一番の暑さだった。といっても周囲は木陰ばかりのため東京の夏ほどの蒸し暑さはなく、薄着で過ごせば過ごしやすい一日になるはずだった。
 クリスがドレスを解体して作ったという布を二枚もらうと、肩と脇の部分を適当に縫い合わせて、頭からすっぽり被る貫頭衣を作った。暑さを凌ぐために、ユウキはそれをさっそく着て作業をしていた。
 だが結果としてはユウキは、森での生活をなめていたことになる。

「か、ゆ、いーーーーー」

 指先ほどの大きな藪蚊の群れは、肌をむき出しにした獲物を、ここぞとばかりに集中的に狙ってきたのだ。
 むし暑さと虫、どちらを我慢するか。ユウキが選んだのは暑さを我慢することだった。だが、さすがにセーラー服(しかもウール100%の冬服だ)で真夏を過ごす――しかも生きるためにやらないといけない日々の仕事は膨大で、一日もサボれないのだから――のは辛いことであった。
 汗だくで木苺を摘んでいたユウキは、ふと後ろに人の気配を感じて振り返ると、やっぱり汗だくのクリスが右手に布、それから左手に何かの葉っぱを握って立っていた。

「この暑い日になんつう格好してんだよ。死ぬぞ」

 クリスはユウキに布の塊を渡してきた。広げてみると、それはユウキが作ったのと同じような貫頭衣。ただし、袖も長く、丈も長い。ヒザ下まであるワンピースみたいなものだった。風通しが良く、涼しそうな造りだ。

「これに着替えて、で、この草を身につけておくといいから」

 シダのような植物を受け取ったとたん、ハーブのような香りがした。

「さっき見つけた。ハッカの一種だよ。虫が嫌がる匂いがするんだ」

 誇らしげなクリスだったが、ユウキは同時に彼の腕に残る傷跡が目に入ってしまった。せめてと、毎日無理やり洗っているけれど、まだかさぶたにはなっていない。

「――って、そんな知識があるんなら、先に自分の傷の薬草を探そうよ!」

 思わずそう言って手を伸ばすと、クリスはムッと顔をしかめた。

「そこは黙って『ありがとう』だろ」
「いや、でも、あなたのほうが怪我人なんだし。わたしは大丈夫だから」
「いいから」

 やれやれと苦笑いをすると、クリスは草を全部押し付けて魚を捕まえに戻る。

 そんな感じで、翌日も、その翌日も、クリスは相変わらずユウキをさり気なくいたわってくれた。
 これが本当に弟と同じ年の男の子のだろうかと驚くほどの男っぷりである。ユウキが「気を使わなくても大丈夫」と遠慮すると「ユウキの世界ではどうだか知らないけど、こっちでは女性を守るのは男の仕事で、当たり前のことなんだけど」と首を傾げる。女性を労ることが自然に身についているのだ。
 だが、優しくされればされるほど、ユウキの悩みは深くなる。自分が女の子であることを意識させられれば、心にかけた鍵はもろくも崩れそうになる。だが、それ以上にクリスの負担が気になった。
 女性を守るのが男の役目ならば、ユウキが居れば、クリスは自分を守れなくなるのだ。
 火の起こし方もこなれているし、魚の取り方も鮮やかだ。薬草の知識もある。小さな櫓の組み立てまでやってのける。クリスは大抵のことを一人でやってのける能力を持っていた。つまりあの時ユウキが彼を助けなくても、彼はきっと一人でなんとかした。しかも、今はもう、ユウキは彼の重荷にしかなっていないのではないかと思えるのだ。

(お風呂のこと一つでも、わたしがいなかったら、クリスは一人でお湯を使えたし、食べ物だって一人分を調達すればいいだけ……もう歩けるくらいに足が治ってしまったのだから、わたしは必要ない。今はわたしの都合だけでここにいる……)


 そんなことを考えては鬱屈しだした朝。それは、ユウキがこの世界に迷い込んでから五日目の朝の事だった。

 ユウキが気にしたからなのだろうけれど、クリスは以前から小屋に置いてあった椅子で、さり気なくバリケードのようなものを作っていた。二脚を隙間を開けて置き、その間に余った布をかけて目隠しを作っていたのだ。些細な事だけれど、随分安心できていた。
 椅子の向こうを覗き込むと、クリスはまだ起きていなかった。彼は常にユウキより先に起きていたから少し気になる。疲れているのかと思って、気にせずに寝かせていたけれども、昼になっても起きてこないクリスに、さすがにユウキは異変を感じた。
 小屋の中に広がる静けさに恐ろしくなったユウキは、思い切って毛布の塊に向かって声をかける。

「クリス? どうかした?」

 返事がない。
 怖くなって毛布をめくると、クリスが苦しそうに目を閉じていた。

「ちょ――っと、何!? すごい熱!」

 顔色は色が見えないためわからないけれど、額に触れると明らかに熱がある。風邪だろうか。それとも傷から菌が入ったのだろうか。どっちもありうる。どうしようとユウキはパニックに陥る。

(薬草を取ってくる?)

 考えたけれど当然、知識がない。

(じゃあ、人里に降りないと)

 だが、山歩きなどしたことがないユウキが森をさまよっても、自分が遭難するだけだと思った。

(どうしよう――どうしよう!)

 泣きたくなりながら、クリスの手を握る。想像していたよりも大きなその手は熱くて、ユウキの不安を盛大に煽った。
 しばらく手を握ったまま震えていたユウキだったけれど、このままこうしていても何の解決にもならないと腹をくくった。

(落ち着いて。大丈夫、精一杯頭を使って考えれば、大丈夫)

「やっぱり、行こう」

 覚悟を決めて立ち上がる。

(ペットボトルはまだ大事にとってある。食料も焼き栗を弁道箱に詰めて。そうだ。川沿いを降りていけばきっと人里に出るし、ナイフで印をつけながら行けば戻ってこれる……ほら、ヘンゼルとグレーテルでも戻れたんだから)

 手を離し、立ち上がろうとしたユウキだったけれど、クリスがユウキの手を離さなかった。

「ゆう、き? どこに行く?」

 いつの間にか起きていたらしい彼にホッとするけれど、その顔は気だるげで、やはり安心は全くできないと思う。

「大丈夫。ちょっと里で薬を貰ってくるだけだから」
「行く、な――ここにいろ。約束、だろ。共同戦線張っただろ。ここが見つかったら終わりだ。俺は――まだここでの暮らしをやめたくない」

 彼はユウキの腕を引き寄せる。熱っぽい、焦点の合わない目に至近距離で見つめられ、胸がすさまじい音をたてた。だが彼は直ぐに目を閉じてぐったりと崩れ落ちる。

「――クリス!?」

 色がないのは充分理解していたのに、蒼白・・な顔にぎょっとした。なぜか彼の唇の色が、なくなっていたのだ。

(え、え、え――!??? こ、これってものすごくヤバイ状況なんじゃあ)

 一度着いた色がなくなる。それはグリムの言った致命的エラーを思わせる。
 ユウキはぞっとした。

(万が一ここでクリスが)

 それ以上考えたくないのに、頭は最悪の想像を生み出した。

病気・・で白雪姫が死んだとなると、間違いなく致命的なエラーじゃない……?)

「クリス! クリス――死なないで!」

 ユウキが恐ろしさでわなないた時だった。

「あーあ、カッコつけて無理し過ぎちゃいましたかねえ」

 斜め後ろ降ってきた声に、ユウキは飛び上がった。
 そろそろと後ろを見やると、そこには一人の青年がいた。
 目鼻立ちはくっきりとしていて、俳優のよう。切れ長の目は涼しげで、口元はどこか甘い。現代であればイケメンだと十人が十人騒ぐと思える容貌だ。だけど顔は紙のように白く、瞳も、短く刈り上げられた髪の色も淡いグレーで、ほぼモノクロだった。唇だけに僅かに色が着色されているのはクリスで慣れたとはいえ、異様だった。

(え、あ、あれ?)

 色のついた唇を注視して、クリスに目を戻そうとすると、青年が一歩足を動かした。隙のない動きに見えて、ユウキは身構える。
 紺色の軍服に包まれた体躯はユウキよりも、クリスよりも大きく、筋骨隆々としていて鍛え上げられている。水泳選手に似た逆三角形体格の彼は、身をかがめて入り口から入ってくる。小屋が一気に狭くなった気がした。

「あ、あなた……だれですか――あ、お城の人!?」

 ユウキはクリスを背にかばう。彼が命を狙われているということを思い出したのだ。色が消えた理由は病気じゃなく、暗殺かもしれない。だとすると、全く気が抜けない。
 一本持たされていたナイフを身構える。けれど手が震えてしまってまともに持っていられない。両手を叱咤してギラリと光る刃先を胸の前に構える。

「親衛隊のルーカスと申します。お嬢さん、そんな物騒なものしまいなさいよ」

 体格の割に物腰の柔らかい男だった。だが、騙されてはいけないとユウキはナイフを構え直す。

「あなた、何しにここまで来たの!?」
「そりゃ、クリスティン様を連れ戻しに」
「どうしてここがわかったの」
「そりゃ、行動パターンも思考パターンも頭に入ってますし。万が一にも王太子が亡くなったら首が飛びます。親衛隊も大変なんですよ」
「お、王太子?」

 日本人には馴染みのない言葉だけど、皇太子と同じような意味だろうか――と考えた途端、理解する。今の今まで考えもしなかったけれど、王子様というものはいずれ王様になるのだ。現代で「王子様」という言葉は、案外軽く使われてしまうからだろうか。例えば白馬の王子様という言葉から、一時期爆発的に流行った○○王子という命名に至るまで。
 だから、王という言葉に、軽かったイメージが、一気に重みを増した。

(え、でも――だとしたら母親だとしても、命を狙っていいの? 反逆に当たらない?)

 ユウキは必死で考えるけれど、世界についての知識も歴史認識も何もないため分からない。

「で、でも、母親に命を狙われてるって言ってたけど……それは本当なの」

 男は一瞬目を細めたあと、ニッコリと笑い、そこ笑うところなの!? とユウキは頭に血が上る。

「まあ、そうですよ。以前からちょくちょくやりあっていらっしゃいましたけど、今回はかなり激しかったですからね。両者ともに堪忍袋の緒が切れて、王妃陛下は刃物を持ち出しましてね、王子殿下は命からがら逃げてこられたというわけです」

 それは大スキャンダルではないかとユウキは眉をひそめた。

「って、王様は何をしてるの」

 急激に怒りが湧いてくる。そうだ。白雪姫のお話でも、王様はひたすら無能だった。娘を新しい妻から守ることができなかった上に、探すことすらしなかった。愛した妻の忘れ形見だというのに。

「あの方は妻も息子もどちらも大事で、それ以上にご自分が一番大事だから、口を出せないのですよ」
「でも、命がかかってるのに?」
「本当ですねえ」

 同情した目つきで軽く言うと、ルーカスは屈みこむ。そして、ユウキの持つナイフを皮の手袋を付けた手で素早く掴んだ。

(わ!)

 慌てたユウキがナイフを取り戻そうとするけれど、優美な仕草の割に、力は強い。ガッツリと握られていて全く緩まない。

「そういうわけで、私が殿下のお命をいただくことはありませんから、これはお納め下さいな」

 手首を軽くひねられ簡単にナイフを奪われる。

「ちょっと返して! まだ、信用出来ない!」

 叫ぶと、彼は意外にもすぐにナイフをユウキに返してくれる。

「え、これ――?」
「ないとお困りでしょうから返しますが、安全に使ってくださいよ。それで、ええと、ユウキ殿――でしたか」

 冷たい声で名前を呼ばれて顔を上げる。なんで名前を知っているのだろうと不可解に思うが、柔らかい笑みを浮かべていたはずの目が鋭く光り、ユウキは言葉を失った。その寒々しさに底知れぬものを感じる。

「あなたもここに迷いこまれたようですが……そろそろお家に帰らないと家の方が心配されていますよ?」
「……でも、クリスが」

 心配なのもあるけれど、ユウキは帰りたくても帰れない。事情を打ち明けてみようかとも思ったけれど、ルーカスという人がどんな人物かもわからないし、柔らかい表情に反してどことなく冷たい視線が気になって口が動かない。多分、彼は信じてくれない。いやクリス以外にこんな荒唐無稽な話を信じてくれる人などいない――そんな気がしてしょうが無いのだ。
 彼は黙りこんだユウキを優しく諭す。

「殿下に今までお付き合いくださいましてありがとうございます。ですが、もう殿下は帰らねば。慣れない野外生活で体力を消耗されていらっしゃる。このままではお命が危ない」
「でも」

 城に帰れば、別の意味で命の危機に去らられるのでは――反論しようとしたユウキをルーカスは遮る。

「とにかく診察させていただきます。問答は後でいい」

 そして有無を言わせずユウキを押しやると、クリスの傍にかがみこんだ。
 長い指で朦朧としているクリスの身体を確かめていく。下瞼を見て、喉を見て。腹を触り、傷を見る。触診は妙に手馴れている。

「あなた、医者なの?」
「医術の心得は武人ならある程度は持っているものですよ。戦場で生き残るためにもね」

 紛争が身近にあることにひやりとする。平和な世界に慣れすぎているとユウキは実感した。

「大丈夫です。きちんと手当をしてある。傷に化膿は見られないし、ただの風邪でしょう。ここは朝と夜は冷えますからね。しかもなんですか。この毛布は。ペラペラでしょう」

 ユウキははっとする。

「あと、クリスは、わたしにお湯を譲ってくれて」
「――それはまた珍しいこともあるものだ」

 にこやかに指を離すと、ルーカスは持っていたかばんから水薬を取り出した。
 そして頭の下に腕を通すと軽々とクリスを起こす。

「……る、ルーカス?」

 薄く目を開けたクリスは、ルーカスを検めるなり目を見開いた。そしてルーカスの腕を振り払おうとする。

「離、せ――俺は帰らないからな!」

 だけどルーカスの屈強そうな腕は全く緩まない。罵倒にもかまわず薬の瓶を強引にクリスの口につける。

「殿下。とにかくこれをお飲み下さい」
「いや、だ」

 頑として拒む姿勢のクリスにも、ルーカスは余裕だった。

「おやおや、じゃあ、口移しなんてどうです」

 大きな手でがっちりと頬を掴まれて、クリスは目を剥いた。ルーカスは本気らしく、水薬を煽り、口に含んだあと艶っぽく笑った。
 傍から見ていたユウキは青ざめる。その絵は多分クリスの性別を知らなければ凄まじく美麗だっただろうけれど、ユウキは不運なことにどちらも男性だと知っている。展開を万が一目にすれば悪夢を見そうだ。
 ユウキは叫ぶ。

「クリス! 薬を飲んで。その人、殺そうとはしてないんでしょ!」

 もし命を狙うのなら、眠っている間にナイフでぶすりとやってしまえばいいのだ。それをしないのだから、飲んでも大丈夫だと思えた。
 口に含んだのは安心させるための毒味かもしれない。と思いつくと、この人にクリスとユウキが二人で抗っても、絶対かなわない気がした。それは多分体格や力だけではない。彼は身体だけでなく中身も老成した大人――しかも今のやり取り一つでもおそらく曲者だとわかる。とても敵う相手ではない。
 付き合いの長そうなクリスもそれは理解しているのだろう。不本意そうに瓶に残った水薬を口にすると苦そうに顔をしかめた。

 *

 クリスの熱は、翌朝にはあっさりと下がった。彼は時に脅され、時になだめられつつ、ルーカスが持ち込んだ食料を食べ、そしてペラペラではない毛布を無理矢理に着せられた。どうやら森に逃げるのが三回目というのは本当らしい。さながらレスキュー隊のよう。救助に必要なものが揃っている。
 だが、クリスはルーカスに脅されることが多かったためか、常にふくれっ面だった。
 ユウキは回復するクリスを見て、ほっと胸をなでおろす。
 安心すると同時に、ふと、強烈な違和感が胸を占領した。

(え――? え!?)

 必死だったからだろうか。それとも暗かったから今まで気が付かなかったのだろうか。
 朝の光の差し込む部屋で見ると、クリスの唇は色を取り戻していた。だがユウキが驚いたのはそのせいではない。肌に、わずかだが色が着いているのだ。驚いてルーカスを見ると、彼の肌はクリスよりもはっきり色づいている。ルーカスは、雪のように白いクリスの肌よりは健康的に焼けていた。

(また欠損が修復されている? え――、いつから?)

 クリスが色白だったから気づかなかったのかもしれない。以前最初に唇に色が着いたあと、慌ただしくて深く考えなかった案件が再び浮上するのがわかった。
 前回はわからずじまい。だが、今度の原因はなんだろうと考えるまでもない。
 ここ数日に大きな事件はなかったはず。ならば、原因はルーカスだ。彼が来たから、色が増えたに決まっている。
 色が増える――欠損が修復されたということは、エピソードが完結に近づいたということだ。彼がやった何かで、話が進んだということ。

(それはなに? この人は――一体、何の役割を持っている?)

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