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わたし、あなたとは結婚しません

 ルルディアはぶるりと身を震わせた。レオナルトが去った後の部屋はなんだかすごく寒々しく感じたのだ。

「僕の好きなルル? どういう意味よ。私を好きだったことなんか、一度もないくせに」

 出会いからして最悪だったし、文通でも色気のある話など皆無。最後にはその手紙も無視された。
 仮にもし好意があったとしても、それはもう過去のこと。レオナルトはルルディアを見限った。ルルディアの頼んだとおりに。

(願ったり叶ったりじゃない)

 ルルディアは用意されていた小さな毛布に体を包む。暖かさでぽっかり開いた心の穴を埋めようとしたけれど、うまく行かなかった。
 そのまま眠りにつこうとしたが、駄目だった。明日の朝は早いというのに、どんどん目が冴えてしまった。

「こういう時は散歩よね。ちょうど月も綺麗」

 諦めてルルディアは毛布から抜け出すと、テーブルの上から飛び降りる。床のじゅうたんに着地すると扉の下の指二本ほどの隙間をくぐる。なぜかしゃがみこんでしくしく泣いている兵の横をすり抜け、廊下へ飛び出した。

「えーと、確か立派な中庭があるはず。どっちかしら」

 ずいぶん広い屋敷だった。ぺとんぺとんと大理石の床を根気強く跳ねるが、このままだと中庭に辿り着くまでに夜が明けてしまう。疲れたルルディアは、ちょうど通りかかった侍女の服の裾にしがみつく。そうして服の色に体の色が馴染む頃にはルルディアは中央の広場に達していた。広場からは右翼と左翼を結ぶ廊下が伸びていて、それに中庭と正門を結んだ廊下が交わっていた。

 ルルディアは侍女の服から飛び降りると、中庭方向へと曲がる。だが、門の方が騒がしいのが気になって後ろを振り向く。騒ぎにつられて正門前の噴水までたどり着いた時、ルルディアの耳に飛び込んだのは、侍従と女性が言い争う声だった。驚いて見上げると、門の向こう側で飛び抜けた美女が目を釣り上げていた。

「いいかげんにしろ、コルネリア。今日これで何度目だ。何度来ても解雇は覆らん。念書も書かせたはずだろう」

 コルネリアと呼ばれた女性は侍従のつれない言葉に食い下がる。

「だって納得行かないもの。これを見なさいよ。仕事募集って書いてあるじゃない。結婚するからってクビにされたのに、結局新しい子を雇うっていうの? 許せない。婚約者にあいつの女性遍歴全部バラしてやるから!」

(な、なに? 今のどういうこと?)

 女性遍歴という言葉に、レオナルトの言葉の意味がじわじわと頭に染みこんでいく。同時に恋情に曇っていた目がわずかに晴れる。

(まさかよね。そんなわけないわよね?)

 呆然とするルルディアの頭の上で言葉が刃となって互いを斬り合っている。盛大な喧嘩が頭上で繰り広げられはじめる。

「あんまりしつこと消されるぞ。お前くらいのべっぴんなら新しい男もすぐ見つかる。悪いことは言わないから、手切れ金で満足しておけよ」

「冗談やめて。あんなはした金、一月でなくなるわよ!」

「はした金だと? 俺達の一年分の給金だぞ!? ふざけんな」

「ふざけてないわよ。アルフォンスは、ラディウスの姫を騙して都市国家を興す気なのよ。となれば、彼は王だわ。つまりこれ、未来の側妃候補を募ってるんでしょう? 長年支えてきた私を差し置いて、冗談じゃないわ」

 コルネリアが丸めた紙を門番に投げつける。それは風に舞い上がり、やがてルルディアの足元に届く。前足で皺を伸ばすと、ザフィア家で侍女の大量募集が行われることが書かれている。アルフォンスの身の回りの世話をすると書かれているが、いかんせん、人数が多すぎるし、条件がおかしい。未婚で歳は十五歳から十八までの美人限定。そして報酬が一般的な侍女の仕事の二倍以上で、月に百ルドと高額。ルルディアの侍女でさえそんなに貰っていないはずだ。とても普通の仕事とは思えない。コルネリアの言葉が真実としか思えなくなった。

(私、なんて馬鹿なの……簡単に騙されて)

 心の拠り所をすべて無くし、絶望で打ちひしがれるルルディアだったが、ふと彼女に助言をくれたレオナルトのことを思い出して顔を上げた。

(もしかして、レオナルトは私の事本気で心配してくれてた? なのに演技してるとか……馬鹿にされても、呆れられてもしょうがないわ)

 ルルディアは急激にレオナルトを追いかけたくなる。

(とにかく、一言、謝らないと)

 ぐっと腹に力を入れる。そして人の足の間をくぐりぬけて門の外へ出た。小さなカエルに誰も目は留めない。脱出が成功した――と思った時だった。

「どちらにお出かけでしょう?」

 聞き慣れた声に顔を上げると、てっきり中にいると思っていたアルフォンスが門の外に立っている。ルルディアは目を見張った。
 金色の髪は黒いフードで覆われている。しなやかな体躯は黒いマントに包まれ、まるで闇に紛れて悪事を働いてきたかのような出で立ちだった。その上全身びしょ濡れだ。怪しい事この上ない。

「ど、どうなさったのです、その格好は」

 しゃべるカエルの登場にどよめきが起こる。アルフォンスはにっこりと辺りを見回すと、目だけで周囲を黙らせる。フードを払い、流れるような仕草でルルディアを黒い手袋をした手のひらに掬い上げる。だが、華麗な仕草に伴ったのは嗅ぎ慣れない潮の匂いだった。

「どうなさった、は私の台詞ですよ」

 迫力のある笑顔に圧され、ルルディアは一旦口をつぐむ。だが、彼の肩越しにコルネリアと目が合った。彼女はカエルのルルディアを意味ありげに見つめている。ルルディアが何者か、既に知っているような目だった。

「そこの女性は、あなたが私を騙して、都市国家をつくるつもりとか言ってたわ」

「さあ。何か勘違いをしているのでしょう」

 アルフォンスはルルディアの視界を遮ると、屋敷に入ろうとする。だが後ろからコルネリアの悲鳴のような声が上がった。

「アルフォンス! 馬鹿な真似はもうやめて!」

「気にせずに行きましょう」

 柔らかく微笑まれる。だが、アルフォンスの表情が一瞬研いだ刃のように尖るのを、目の覚めたルルディアは見逃せなかった。

「行きません。彼女のこと、きちんと説明してください!」

「私の愛する女性はあなただけですよ」

 頬を優しくなでられる。妙な不快さを感じたルルディアは、その正体を知り、じっと彼の手にはめられた手袋を見つめた。レオナルトはいつだって素手でルルディアに触れたが、アルフォンスはハンカチか手袋越しにしかルルディアに触れない。礼を尽くそうとしているのだろうと捉えていたが、もし違ったら?

「ねえ」

 思いついたひらめきは確信に変わろうとしていた。ルルディアはアルフォンスに手を伸ばす。

「あなた、本当に私にキスできるの?」

 じっと見つめると、アルフォンスの顔が初めてはっきりと引きつった。

「もちろんですよ」

 余裕の返事。だが声は裏返っている。後ろからコルネリアの声がかぶさった。

「出来ないわよ。彼、カエルが大嫌いだもの。昔、魔法でカエルに变化したトラウマで、今でも触ったらぶつぶつが出て失神するの」

「え、それってまさか」ルルディアが過去のカエル事件を思い浮かべて顔を引きつらせる前で「余計なことを言うな!」とアルフォンスは怒鳴った。泡を食った彼の態度はコルネリアの言葉を肯定しているようにしか思えない。

「もしかして」

 ルルディアは黄金の目をぎろりと輝かせた。

「あなた、私の呪いを解く気はなかったんじゃないの? 私が王女でさえあれば構わないって思っているのは、レオナルトではなくてあなたなんじゃないの!?」

 ルルディアは手袋と袖の僅かな隙間に手を差し伸べ、触れた。

 次の瞬間、アルフォンスの肌に湿疹がぶわりと浮き出た。彼は「触るな!」と怒鳴ってルルディアをあっさり手から振り払い、そのまま喉をかきむしりながら白目をむいて後ろに倒れこむ。周囲の人間が慌てて医師を呼びに行き、その間、扇いだり、水に浸した布を頭に乗せたり、応急処置が施され始める。

 地面に落とされ、踏まれそうになったルルディアは慌てて噴水の縁に避難した。そして人心地ついたところで、大きく息を吐く。

「呆れた! これじゃあ、愛のあるキスなんて絶対無理じゃない!」

 そうぼやいたその時だった。

 大風が門扉を揺らした。カンカンカンと甲高い音が川の方から聞こえてきて、ふらふらのアルフォンス以外の皆が一斉にそちらを振り向く。あまりの物々しさにルルディアも目を細めた。

「なにあれ」

 するとちょうど横にいた門番が言った。

「今日は満月なのですよ」

 カエルの姿にも臆せずに反応する彼は、どうやらずいぶん肝が据わっている。

「満月だとあんなふうに鳴らすの? あれ警鐘よね?」

 門番は何を今更当たり前のこと聞くのかとでも言いそうな顔をする。

「満潮です。橋の橋脚が水に呑まれるので、大潮の時などは念のため通行を禁止するのですよ――って、ああ! アルフォンス様、ご無理はいけません!」

 ここまで這ってきたのか、アルフォンスが必死の形相で噴水の縁に掴まって起き上がろうとしていた。

「満月……だと?」

「はい。綺麗な月ですよ」

 門番がのんきに空を指差すのと、雲が晴れて月が顔を出すのは同時だった。月光に照らされたアルフォンスの顔は白いのを通り越して真っ青だった。

「とにかく、どうか横になられてください」

 門番の言うことも耳に届かない様子で、アルフォンスは叫んだ。

「レオナルト殿下が、危ない!」

 今度はルルディアが取り乱す番だった。

「どういうこと!?」

「少しの間だからと、橋の橋脚にある牢に閉じ込めてきたのです」

「あなた、ラディウスとイゼアの間に戦を起こすつもり!? イゼアの王子にそんな狼藉――」

 だが、ルルディアはふと気になった。

(あれ? でももし私じゃなくてレオナルトがカエルになっていたらそれこそ戦じゃない?)

 今更思い当たってそう首を傾げると、アルフォンスが必死の形相で言った。

「わかっています。わかっているからこそ、波風を立てたくなかった。だからあなたをカエルにすれば、レオナルト殿下の方から破談にされるに決まっていると――」

「なんですって!?」

「あ」

 ついポロリと漏らしたという様子だった。

「なに? つまり、最初から私をカエルにするつもりだったってこと? レオナルトじゃなくって!?」

「ちがうんだっ……」

 アルフォンスが言いよどむと、コルネリアがにんまりと笑って口を挟む。

「イゼアの王子が魔法で身を守るのは有名な話だし、わざと失敗させてカエルになった姫を引き取って、ラディウス王家に恩を売るつもりだった。しかも姫に計画を実行させたら、王子が怒って溝が出来るだろうし、自分は罪を問われない。大枚叩いても手に入るのが苦手なカエルへの変身魔法しかなかったのは痛かったけれど、背に腹は代えられない――ってそんなところかしら?」

「うるさい、コニー! わかったような口をきくな」

「コルネリアよ。そっちこそ勝手に追いだしたくせに馴れ馴れしく呼ばないで」

 見ていると、喧嘩するほど仲がいい、そんな言葉が頭に浮かんだ。二人の関係の深さが察せられて、ルルディアは眉間に――今は眉はないけれど――皺を寄せる。コルネリアは眼光を緩ませるとアルフォンスを愛おしげに見つめた。

「ずっと一緒にいたんだもの。あなたのことならなんでもわかってるわよ。ブリュッケシュタットを独立させたかったってこともね。そのためにどうしてもラディウス王家に取り入りたかった。せっかく落ちかけてたお姫様を今更かっさらわれるのが我慢ならなかったのはわかるけれど、こんな馬鹿な真似……私が居たら絶対させなかったのに」

 アルフォンスはぐっと詰まる。どうやらコルネリアには頭が上がらないらしい。そういう関係の女性がいたくせに求婚するのは、ルルディアにとっても、コルネリアにとっても許しがたい裏切りだ。腹を立てたルルディアは、瀕死のアルフォンスへの恋情を、力いっぱい踏み潰してとどめを刺す。

「私、あなたとは結婚しません。――とにかく、レオナルトはどこなの!」

 アルフォンスはまだ言い訳をしたそうにしたが、結局は警鐘に追い立てられて諦めた。「第三橋脚の牢へ!」と先ほどの門番を捕まえてレオナルト救出を命じている。

 物々しい音が全身に響き、ルルディアは嫌な予感に身を震わせた。

「満潮はいつ!?」

 ルルディアの問に、門番は「あと一刻ほど。月が中天に登る時刻です」と深刻な顔で答えた。

「連れて行きなさい!」

 ルルディアは門番の肩に飛び乗ると、走りだす彼に振り切られまいとしっかり服の布を掴んだ。