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わたし、カエルだわ

 ルルディアが橋に辿り着いた時には橋脚の半分以上が水没していた。門番が「高潮だ」と青い顔で呟く。
 彼の言葉通り、白い水しぶきが橋脚に絶え間なくぶつかり続けている。見ると橋に設えられた旗が風で激しく踊っている。

「あれでは近づけない。もっと人を集めなければ」

 屋敷に戻りかける門番に向かってルルディアは叫んだ。

「冗談じゃないわ。今助けないとレオナルトが溺れちゃうじゃない!」

「しかし、私一人だけでは救助するのは難しいのです、ご理解ください! 人と道具を集めてすぐに戻りますから!」

 門番はそう言うと、踵を返した。ルルディアは思わず肩から飛び降りる。彼が気づかずに駆け出したのをいいことに、ルルディアは橋の欄干の上から身を乗り出し、荒れるシュプルングの様子をうかがった。

(酷い流れ)

 風が連れてきた水しぶきがルルディアの全身を濡らした。どうやら水深はかなりあるし流れも速そうだ。門番が怖じ気づくのも仕方がない。

(第三橋脚の牢――)

 手がかりを呟きながら、ルルディアが焦燥感に駆られた刹那、乳白色の微かな光が視界をちらついた。目を凝らす。

(あれは)

 ぼんやりとした小さな光の中に浮かぶそれが、レオナルトを示す特徴的な物体だと気づいたルルディアは、欄干の上から飛び降りていた。



(え――私、一体何してるの――!?)

 泳いだことなどないのに、今、ルルディアの体は川の上空に浮いていた。
 腹を打つのを避けて体を丸めると、体はとぽん、と小気味のいい音を立てて水の中に沈んだ。

(お、溺れる!)

 そう思ったすぐ後には、ふわんと水に体が押し上げられた。

(え、体がすごく軽い)

 しかも手足を適当に動かすと、驚くほどの勢いで前に進む。ルルディアはそこでようやく自分がカエルに変身していることを思い出した。

「そうだった。カエルだわ、私」

 急激に湧き上がる喜び。先ほどまで疎んでいた姿が、今はありがたくてしょうがない。こういうのを僥倖とでも言うのだろうか。

(これでレオナルトを助けに行ける!)

 ぐいぐいと水を蹴ってルルディアは泳ぐ。乳白色に光る〝眼鏡〟を目指して。

(お願い間に合って!)

 波に何度か流されながらも、水の中で息ができる、泳ぎに適した体は濁流に負けない。しかも運を味方につけたらしく、海から押し寄せる波は、シュプルングに流されそうになったルルディアを第三橋脚の方向へと押しやった。

「レオナルト! レオナルト!!」

 叫びながら必死で泳ぐと、やがて格子で出来た扉が見つかった。中に弱々しい光が灯っている。目を凝らすと光源はレオナルトの指輪のようだった。

「……ルル!?」

 水はレオナルトの頭を半分呑み込んでいた。彼は顎を上げて水を飲むのを必死で拒んでいる。あと少しで天井まで水が到達しそうだ。高い波が襲えば今にも溺れそうな状態に、ルルディアは蒼白になる。

「今開けるから!」

 だが、次の瞬間ルルディアは気がついた。

「あ、鍵! 鍵は!?」

 もしかして門番が持っていたかもと頭が真っ白になった。だが、

「どうしても外せないんだ」

 水を飲みそうになりながらレオナルトが言う。潜って探すとレオナルトの腰のあたりに重そうな閂状の鍵があった。指で動かそうとしたのか、中途半端に掛かっている。

「もう少し格子の目が広ければ手が出せるんだけど、それ以上は届かなくて、いくらやっても無理だった。牢なら当然だろうけど」

 そうしているうちに波がレオナルトに被った。彼が水を飲み、大きくむせる。荒い息、青い顔。そう長くは持たないのがありありとわかった。

「レオナルト、どうしよう」

「ルル。一度地上に上がって助けを呼んできてくれるかい」

 彼は息を整えるといつもどおりに冷静な顔をして言った。

「僕は大丈夫だから」

「大丈夫じゃないわよ。もうすぐ息ができなくなっちゃう」

「ここに居たら、君まで巻き込まれる。それは絶対嫌なんだ」

 熱のこもった言葉にルルディアは目を見張る。

「それは、私がラディウスの姫だから?」

「ちがうよ。君が君だからだ」

 レオナルトが真面目な顔で答えた。
 朴訥な言葉は、飾り気がない分素直にルルディアの心に染み込んだ。

「私のことなんて、どうでもいいって思ってたんじゃ……」

「何言ってる、そんなわけないだろう。僕が君を手に入れるためにどれだけ苦労したと思ってる。ノイ・エーラの開発だって、ラディウスの姫――君にプロポーズできるように、相手にしてもらえるように、国力を上げたかったからだろう」

 怒りの滲んだ声。そして言われた言葉にルルディアは驚愕を隠せない。

「でも、どうして、私? 私、馬鹿だし、身分以外になんの取り柄もないのに」

「……君は忘れてるみたいだけれど、僕にとって“あの一言”は衝撃だった」

「あの一言?」

「とにかく――君は助けを呼びに行ってくれ。もうここは危ない」

 ぷいと顔を背けて、彼はこんな時なのに眼鏡を押し上げる。その時、ルルディアは気づいた。光る指輪に照らされる目元が赤い。

(もしかして、これ、照れてるの?)

 レオナルトがルルディアと話す時に無愛想だったのは、単に照れていたのだろうか。

 愛おしさが急激に溢れ、胸を満たす。同時に体中に力がみなぎってくるのがわかった。

「私のことは心配いらない。私はカエルだもの。泳げるし、水の中で呼吸だってできる。あなたが言ったんじゃない」

 くすりと笑うとルルディアはもう一度水に潜る。小さな体は水流に巻き込まれそうになる。必死で泳ぎながら、格子にしがみついた。

 だが、いくら押しても閂はびくともしない。

(この姿じゃ力が足りないっ……どうしよう)

 思わず呻くと、まるでルルディアの嘆きが聞こえたかのように、水の上でレオナルトが必死で叫ぶのが聞こえた。

「ルル、上に行け――たのむ、君を失いたくない!」

「そんなの私だって同じよっ!」

 水中で叫んだ次の瞬間、とうとう水が天井まで到達した。

 レオナルトがもがく。彼の眼鏡が流されて沈んでいく。ルルディアは必死で閂を押すが、どうしても力が足りない。そうしているうちに、レオナルトの口から空気が大量に漏れ、彼がぐったりとする。
 ルルディアは小さな体を牢へ滑りこませると、必死の思いで彼に口付け、思い切り空気を送り込んだ。

(神様、今だけはこの姿に感謝するわ! レオナルト、ちょっと気持ち悪いかもしれないけど我慢して!)

『る、る』

 レオナルトがびくりと震え、目を開ける。そして、なにかをひらめいたかのように突如目を大きく見開いた。そして、格子の目からルルディアを牢の外へと押しやる。

(なに? まだ戻れって言うの!?)

 焦るルルディアがもう一度格子を内側へとくぐり抜けようとした次の瞬間だった。

 レオナルトが水の中でびっくりするくらい綺麗な笑みを浮かべた後、その灰色の目を伏せながら、格子越しにルルディアに口付けたのだ。

(え)

 体の中をビリビリとしたものが流れた。それは以前、カエルに変わった時に味わった感覚と同じだ。だが、以前は暗転した視界が今度はどんどん開けていく。眩しくて目を開けていられなくて、ルルディアはぎゅうっと目を瞑った。

 次に目を開けた時には、さっきまで巨人のように大きく見えていたレオナルトが見慣れた大きさに戻っていた。

(え、元に戻った!? ――って、息、くるしっ――)

 同時に息苦しさを感じ始める。慌てて格子を伝って閂に手を伸ばす。カエルの手では外れなかった鍵は、人の姿のルルディアのひと押しであっけなく外れた。

(レオナルト!)

 心のなかで叫ぶ。彼は水にゆらりと浮かび、半分意識を飛ばしかけていた。ルルディアは慌てて格子を大きく開く。再び彼に口づけ、身を絞るようにして空気を送り込むと、レオナルトは薄く目を開けた。

 二人は手を繋ぐと、残る体力を振り絞って水を蹴る。月の映る水面を目指して。