02

憧れのお兄様

 そよぐ春風が花びらを空に舞い上げる。うららかな午後の庭をルルディアは歩いていた。花嫁衣装の仮縫いを終えた後に、侍女を撒いてふらりと散歩へ繰り出したルルディアは、薔薇の木に囲まれたくぼみに腰を下ろす。使用人の部屋があり裏門が近いこの場所は、昼間は人が出払っていて、ひっそりしている。一人になりたい時にはちょうど良いのだ。

 どこからか馬のいななきが聞こえてくる。このところ来客が多いのは、国中にルルディアの縁談についての触れが出され、結婚の祝いの品が続々と届いているせいだ。自室に運び込まれる個人的な品もある。もしその中に彼の贈り物があったら、と考えた途端、ルルディアの眦から涙が溢れる。

「アルフォンス。助けて」

 密かに想い合っていた青年の名を呟く。それは、ラディウスを流れる大河シュプルングが翠珠海すいじゅかいに注ぐ場所、ブリュッケシュタットの若き領主、ザフィア伯爵だ。彼の領地は大海原を旅する交易船が次々に立ち寄る交通の要所であるだけでなく、街中にはラディウスが世界に誇る建造物がある。それは大きな石橋だ。

 大河シュプルングは流れが荒く、氾濫しては幾度と無く橋を流した。国を挙げての治水工事と石橋の建築という大政策を行ったのはルルディアの高祖父だ。橋はラディウスとイゼアを結んでいて、高額な通行料を取って厳重に管理をしている。その管理人とも言えるのがザフィア家で、国内で最も力を持つ貴族であった。しかも彼は黄金の髪と晴れた日の空のような美しい瞳を持つ美青年。ルルディアよりも五つ年上の憧れのお兄様であった。

 結婚相手はどこぞの王族になると思っていたルルディアは、最初は彼のことをただの臣下としか思っていなかった。だけど、二年前、レオナルトに無視されて落ち込んでいたルルディアは、まるで心の穴を埋めるかのように現れた麗しい青年に縋らずにはいられなかった。アルフォンスの優しさは当時のルルディアにとって救いだったのだ。

 その後、アルフォンスはたくさんの甘い愛の言葉でルルディアの心を溶かした。はっきりと約束はしていないけれども、将来ルルディアは彼と結婚したいと望んでいたし、彼も同じだと信じていた。だというのに、運命はどうしてこんなに残酷なのだろう。

(どうか神様。アルフォンスに会わせて)

 アルフォンスの瞳のように澄み切った空を見上げて、ルルディアは嘆いた。

 その時、鐘が三つ鳴り響く。同時に、裏門の傍に設えられた専用の小窓から、紙の束が投げ込まれ、小窓のすぐ下の箱に入った。サンダント=タクシスの定期便だ。

 サンダント=タクシスはここ十年で大きくなった手紙専門の配達屋だ。ブリュッケシュタットにある商家が営んでいて、安く早く確実を売りとしている。最初はラディウスとイゼアを中心に商売をしていたが、徐々に規模を膨らませて大陸内でも需要を伸ばしていた。今は重要書類でなければ、王侯貴族でさえも利用する。特に気軽な私信にはもってこいで、ルルディアも昔はよく利用していた。

 なんとなく目が離せないでいると、老門番がルルディアに気づいて目を吊り上げる。

「おや、こちらでしたか。姫様、駄目ですよ、皆が探していました」

「あ、あの、手紙が来てないかなって」

 言い訳するように言うと、門番は怖い顔をやめて穏やかに笑う。

「そういえば、以前は毎日のようにここで待っておられましたね。部屋までお届けしますと申しているのに、誰かに読まれたら嫌だとおっしゃって。誰も読みませんのに」

「……そうね。そんな事もあったわね」

 条件反射のように懐かしさがこみ上げる。だが、すぐに苦い思い出がそれを塗りつぶす。

(ああ、もう、やだ。なんで今さらこんなこと思い出すのよ。手紙を燃やした時に全部忘れたはずでしょ?)

 黙りこんでしまったルルディアの前で、門番は手紙の束を取り出すと、封書の宛名を検めはじめる。そして途中で手を止めると、おや、と眉を上げ「これをお待ちでしたか?」と一通の封書を手渡した。

 今までにサンダント=タクシスを使って手紙をくれる人間は一人しかいなかった。そして宛名はいつも「親愛なるルルへ」。同じように記された封筒を見て、一気に時が遡る。

(うそ、まさか)

 耳鳴りがした。裏返すが、差出人の名はない。ぶるぶる震える手で封を開く。中身を検めて差出人がわかったとたん、落胆を感じた自分にルルディアは驚いた。だがそれも一瞬のこと。手紙の内容を理解するとともに憂鬱は晴れていく。もしかしたら、神が願いを聞き入れてくれたのかもしれない。

 顔色をくるくる変えるルルディアを、「どうなさったのですか?」と門番は訝しむ。

「なんでもないの」と誤魔化すと、ルルディアは大慌てで自室へ向かって駆け出した。


 自室に戻ったルルディアは届けられていた結婚祝いの山の中から、一つの箱を取り出した。送り主はアルフォンス=ニクラウス=ザフィア。

 いつもどおり事前に中身は検められている。だが、まめに王宮へ足を運び、贈り物をしてくれていたアルフォンスは、使用人に信用されていたらしく、念入りに調べられた形跡はない。ルルディアは中の色とりどりの菓子を取り出し、侍女の目を盗んでこっそり底の紙を剥がす。二重底になった空間に、手のひらに収まるくらいの大きさの石が入っている。ハンカチで包むと、寝室へ移動する。窓際の椅子に腰掛けて目の高さに掲げる。窓から差し込む光を当てて観察すると、うっすらと斑模様の入った緑石だった。

 どこかで見たような? と首を傾げつつ、袖に隠していた手紙を読むと、既視感の原因がわかった。そこに書かれている効用に覚えがあったのだ。

 目を瞑ってアルフォンスの姿を思い浮かべると、低くつややかな声が蘇る。

『望みを叶えたいなら、贈り物をうまく使ってごらん。きっとうまくいく。君と私の望み通りに。私は君の隣を歩く未来を信じている』

 控えめだが確かな愛の言葉だった。

「そうよね。まだ諦めるのは早いわ」

 ルルディアは頬を染め、石を握りしめる。そして燭台を引き寄せると銀盆の上の手紙に火をつけた。読んだら燃やすようにと書かれていたためだ。

 赤々とした炎が踊るのを見つめながら、誰に言うとでもなく、ルルディアは呟いた。

「私、やってみる。政略結婚なんかしない。絶対、愛のある結婚生活を掴んでみせる!」