05

僕がキスしてあげようか

「うっわあ、黴臭い」

 レオナルトのポケットから顔を出したルルディアは顔をしかめる。

 ラディウス王宮敷地内の一角にある古ぼけた建物に二人――もとい一匹と一人はいた。そこは国内外のあらゆる蔵書を集めたラディウス王立図書館だった。天窓の光は高くそびえ立つ本棚に遮られて床まで届かない。足元さえ見えず、燭台の光が揺れるだけの暗い空間だ。

 触れれば朽ちそうな背表紙を、まるで愛しい少女にするかのように、レオナルトは優しく触れた。そして、まるで愛を囁くかのように熱のこもった声を出した。

「素晴らしいよね。僕が姫だったら、君の兄上と結婚してこの国に嫁ぎたかった。そうしたら、この膨大な蔵書にいつでも触れることができるのに」

「あ、あなた何言ってるの……」

 兄の隣に女装したレオナルト。ついでに過激な妃まで想像して、ルルディアはおぞましさに震えた。お構いなしにレオナルトは綺麗な長い指で二冊を引き出すと、ルルディアと一緒に机の上に置く。そして椅子に腰掛けて、胸元から取り出した布で銀縁の眼鏡を拭いた。

 向こうが透けて見えそうな、光を溶かした流水に似た銀髪。それが灰色の瞳に深い影を落としている。すっと通った鼻梁は横顔だと形の良さが際立った。唇はきりりと引き締められていて利発さがにじみ出ている。意外にまつげが長くて、鋭さばかりが目立つ切れ長の目は、伏せるとずいぶん色っぽい――

(あ!)

 ルルディアは見とれかけていることに気がついて、思わず顔をしかめた。

(ああ、もう、無駄な美貌だわ、本当に! 神様はどうしてこんな男に、美しさまで与えたの。もしときめいてしまったらどうしてくれるの――)

 などと考えていたらレオナルトが顔を上げ、目が合う。

「み、見とれてなんかないからっ!」

 思わず言い訳をしたが、レオナルトは「……ところで」と、表情一つ変えず、まるで聞こえなかったかのように華麗に無視した。

(無視!? 無視するの今の!)

 せめてそこはなんでもいいからツッコミを入れろ! と動揺と屈辱のあまりパクパクと口を動かすルルディアに、本を突き出して、とある頁を指さす。

「ここを」

 ルルディアはふくれっ面のまま開かれた頁を覗きこんだ。レオナルトの指先を追いながら音読する。

「『カエルの王子様はお姫様に疎まれ、壁に投げつけられて潰れたあとに、元の麗しい人間の姿を取り戻しました』」

 思わず眉――といっても今は存在しないがその辺り――を寄せるルルディアに、レオナルトはすかさずもう一冊の本を突き出した。

「それと、こっちも読んで」

「『カエルの王子様はお姫様のキスで、元の麗しい人間の姿を取り戻しました』って、これ、もしかして呪いの解除方法!?」

「他の方法がないかと念のために調べに来たけれど、やっぱりこれだけしかなさそうだな。方法は憎しみか愛かの二つだ。君は姫を探し、壁にぶつけてもらうか、姫の愛を勝ち取って、キスをしてもらえばいいみたいだけど――どっちがいい?」

 真面目な顔で問われてルルディアは怯んだ。

「どっちも嫌よ! それ絶対無理――! 潰れた後って下手したら死んでるんじゃないの!? あともう一個の方も、同性との恋愛とか難関すぎるし、まず姫はカエルにキスはしてくれない! 私だったら絶対しない!」

 頭を抱えて悶えるルルディアに、レオナルトはしばし沈黙した後、やや困惑したように言った。

「冗談が通じないのか? 文脈から言っても、姫っていうのは異性――この場合は多分、愛する異性に置き換えていいと思うけど」

 世界で一番冗談の通じなさそうな人間に言われて、ルルディアは思わず顔を机に突っ伏した。

「あのね! 人が、人生かかってる時に軽く冗談なんか言わないで!」

「ああ、すまない。人生がかかっているとは思えなくて」

 ルルディアは絶句した。

(この状態で人生かかってないって、どれだけのんきに見えるわけ!)

 頭の血管が一、二本切れるのではないかと思ったルルディアだが、はたと先ほどのレオナルトの言葉を反芻して我に返る。

「……愛する、異性?」

 頭に思い浮かぶのは当然のことながらアルフォンスだ。体を桃色に染めるルルディアに、一瞬の沈黙の後、レオナルトは言った。

「僕がキスしてあげようか」

 あまりに普通に言われたのでルルディアは反応が遅れた。キスの意味さえ理解できなくなった。じわじわと理解して、頭に血が上る。

「――誰があなたなんかと!」

 またからかわれたとカッとなったルルディアはいきり立つ。冗談だよと返されるのを待ち構えたが、レオナルトは眼鏡の奥の目を細めてため息を吐いただけだった。

「――ところで、その石だけど。見たところ、ノイ・エーラの初期型に似ている」

 急に話を変えられて、ルルディアは目を白黒させた。

「え、なに? 初期型?」

「昔、イゼアの魔術師が石に禁厭まじないを込めて売っていたんだ。僕はそれを改良してノイ・エーラを完成させた。でも今は製造を規制しているから、そう簡単には手に入らないはずだ。一体どこで手に入れたんだい?」

「ええと」思わずポロッとアルフォンスの名を出しそうになったが、すんでのところでルルディアは思いとどまった。

「……贈り物に混じっていたの」

 ここで名を出せば、レオナルトに危害を加えようとしたことで罪に問われる。とっさにアルフォンスをかばおうと誤魔化すが、

「送り主は僕達の結婚をよく思っていない者か。おおかた、ブリュッケシュタットのザフィア卿ってところか」

 レオナルトは一発で言い当てた。

「ど、どうしてそう思うの!?」

 ルルディアは目を丸くする。

「逆にどうしてわからないと思えるのかが不思議だよ。イゼアとラディウスの結びつきを嫌がる人間は他にもたくさんいるけれど、あの都市の人間にとって君は切り札だ」

「結びつき? 切り札?」

 ルルディアはいまいちピンと来なくて首を傾げた。レオナルトは「本当に勉強不足だな。いくら末娘でもそれはいただけない」と呆れながらも、説明をくれた。

「ラディウス王家との繋がりが欲しい人間なんて星の数ほどいるって意味だ。姉姫達の婚姻でラディウスが安泰となったあとなら、君は臣下と結婚するかもしれない。権威のおこぼれに預かりたい――そう思う人間は多いし、つまり、王家との繋がりが欲しい人間にとって君は切り札だ。そしてブリュッケシュタットはその筆頭だっていうこと。あの街が都市国家としての独立を目指しているというのは、ずいぶん前から噂されているし」

「まさかそれでアルフォンスが政略結婚したがってるって言いたいの? 恋愛感情じゃなくて?」

 レオナルトは当たり前だろうと頷いた。『君にラディウス王女という身分以外に魅力があるとでも?』とでも言いたそうだと思った。それはルルディアの劣等感を盛大に煽る。

「何も知らないくせに、アルフォンスを悪く言わないでよ!」

 噴火するルルディアにも、レオナルトは「何も知らないのはどっちかな」と全く取り合わない。しかも、ルルディアが更に頬をふくらませるとレオナルトは「それ、針でつつくと破裂しそう」と興味深そうに頬を観察しだした。

 窓をちらりと見ると、膨らませた頬は皮膚が薄く伸びて今にも割れそうだ。レオナルトが真顔でペンの先を見つめている。彼ならぶすっとやりかねない気がして、ぞっとしたルルディアは慌てて頬に含んだ空気を追い出した。

 深呼吸をする。怒りで乱れた息を整える。

(落ち着いて。まともに相手をしちゃ駄目。ほら、こういう時はアルフォンスのことを思い出すのよ!)

 とたん、あることを密かに想像してルルディアは体を赤く染めた。

(そうだわ。アルフォンスのキスで呪いが解けたらどれだけ素敵かしら)

 ぶつけられるという悲劇はひとまず頭の隅に追いやった。

(呪いを解くのはやっぱり愛の力じゃないとね!)

 ロマンティックな想像に俄然、気力を取り戻したルルディアは「私、彼に呪いを解いてもらうわ」と宣言する。

「じゃあ、早速行こうか」

 ルルディアはびっくりして顔を上げた。

「あなたも来るの?」

 すると、レオナルトは当然、と眼鏡の奥の灰の瞳を刃のように尖らせた。

「危うく被害者になりかけたんだし、文句の一つくらい言わせてもらうし、場合によっては制裁させてもらうよ」

「せ、制裁!? 彼は関係ないって言ったでしょ。駄目。絶対着いて来ないでよ!」

「じゃあ、君はどうやってブリュッケシュタットに行く? カエルの姿じゃあ馬車にも乗れない。大体御者にその姿をどう説明するつもり? 大人しく僕の力を借りておいた方がいいと思うけど」

 即座に切り返されてルルディアは項垂れる。今は彼を利用するしか手はなさそうだった。