負け犬が聞いて呆れる

 

 数日後。よく晴れて、淡い水色の空が綺麗な午後――といっても、春のアウストラリスは乾季に入るため、殆ど雨が降らないのだが――シェリアの目の前には、髪を束ねて薄汚れた前掛けをつけたメイサがいた。
 そしてシェリアも今日は同じような前掛け――しかし汚れてはいない新しいものをつけている。やってきたメイサが「汚れてもいい服など持っていないかもしれないと思って」と贈ってくれたのだ。
 濃い灰色の厚手の布でできたそれは、まるでシェリアにあわせて作ったかのように色も形もぴったりだった。しかも端には刺繍まで入っている。こんな作業着にだ。
(まさか、作ってくれたとか? ……そんなわけないわよね?)
 穿って見つめるけれど、メイサは特に恩を売りたいわけではないらしい。あっさりと実験の説明に入った。シェリアは首を傾げながらも、要領よく進められる引継ぎに集中した。
「……それでね、この薬液は、蒸気を吸うと毒だから。絶対窓を開けて作業してね。ここで殿下がその作業をされる事はあまりないとは思うけれど、念のため」
「ええ」
「あと注意して欲しいのが、右の端の瓶。強い酸だから、浴びたら爛れるわ。必ず手袋をして、少量ずつを硝子の管で移して使ってね。もし皮膚に付いたらすぐに水で流して、お医者様を呼んで。ああ、それから、水は貴重だけれどここではケチらないで。毎朝汲み直した方がいいわね。力仕事はヴェネディクトか殿下が手伝ってくださると思うわ」
 シェリアは頷きながら手帳に手順を書き込んでいく。
「じゃあ、実験については大体終わり。次は薬の調合の方ね」
 メイサは足取りも軽く中庭に飛び出して行く。追いながらシェリアは小さく息を吐いた。
 ヨルゴスの実験の手伝いと言っていたが、作業はあまりにも多岐に渡る。予定では、調合の引継ぎの後にさらに計算の引継ぎがあるらしい。今日中に終わるかどうか怪しいと思った。
(これ、私にできるかしら……)
 覗きこんだ手元の手帳は真新しく手に馴染まない。見ていると、どうしてももやもやとした不安が沸き上がる。――最近まで使っていたものは結局見つからなかったのだ。
 書いている内容が内容だけに探してくれとも言い出せないし。具体的な名前などは書いていなくとも、読む人間が読めば、作戦が全て明るみに出てしまう。
(ま、実現不可能な物ばかりだったけれどね……)
 妄想でしか有り得ないあの内容で咎を受ける事はないだろうが、なんというか自分の愚かさを公表しているようで恥ずかしいと思った。もっとできの良い物を書いていれば良かっただろうが、その場合シェリアは必死で探すことになっただろう。勿体ないし、万が一にも誰かに先を越されて、自分の辿り着くはずの場所を奪われては敵わないから。
 そんなわけで、シェリアは手帳の行方については考える事を諦めた。万が一持ち主と特定されても、しらを切るつもりだ。……しらを切らざるを得ない、とも言う。
 新しいものを探すのも面倒で『余ってる手帳とかない?』とヨルゴスに頼んだら、大量の使い古しをヴェネディクトが持ってきた。道具にこだわりがありすぎて、少しでも難があると使わなくなるらしい。シェリアは呆れるが、有難く手帳とペンを頂戴する事にした。
 上質な筆記具は使いやすかった。今までの手帳は手帳というよりはむしろ粗末な紙の束だったし、ペンだって父親に貰った使い古しだった。滑らかな紙の上をたっぷりインクを含ませたペンがすいと走る。快いし、字も上手くなった気がする。これほどに違うとは思わず、シェリアは心の中で驚嘆していた。
 手帳を庭のテーブル――これはこの間の茶会から出しっぱなしになっている――に置くと、シェリアは腕を捲りながらメイサの後に続いた。

「庭仕事もやっていらしたの?」
「ええ。これは試しに薬草の種をまいたら芽が出ちゃって。趣味も兼ねてずっと世話をさせてもらってたわ」
 メイサは屈託のない笑顔を向ける。手には既に細い草がいくつか握られていた。
「たまにでいいから、こうして手入れができると有り難いけれど。でも、私の立場じゃ、ここに来る理由がないから」
 そこで言葉を切ると、メイサは少し寂しそうな顔をした。
「余計な手間を増やしちゃまずいものね。だからいっそもう全部抜いた方がいいと思っていて。枯れて取り除くのも大変でしょうし、今日は片付けてしまうつもりで来たのよ」
 シェリアは気付く。メイサは、ヨルゴスとの時間を本当に大事にしていたのだと。それが彼女にとっては恋ではなかっただけで。
 ルベルだったか。白い花のついた茎にメイサは手をかけた。ヨルゴスとの関係を全て清算してしまうつもりに見えて、シェリアは胸がひどく痛んだ。
 ヨルゴスの苦しげな顔が瞼の裏に鮮やかに蘇った。――彼は、きっと望んでいない。たとえ叶わぬ恋であっても、彼はそんな風に避けられれば傷つく。あれはそういうプライドの高い男だ。
「……可哀相じゃない」
「え? 可哀相?」
 メイサに問われてはっとした。何か妙な感情に台詞を言わされた気がしたのだ。
(可哀相? 可哀相って――誰が?)
 考えるまでもない。慌てて胸の中の像を上書きすべく、本来の目的を頭の中から呼び出した。シェリアは、今、メイサと近づこうとしているのだ。そこにヨルゴスは関係ない。
(あ、ああ、そうよ。絶好の機会じゃない。引継ぎを延ばして、そしてメイサに近づけばいい。それだけじゃない――この庭に彼女が来るのは、都合のいい事ばかり)
「可哀相っていうのは、ルベルのことよ。こんなにきれいに咲いてるし、それにほら、お茶になるんでしょう?」
 言い訳するように言ったあと、シェリアはこほんと咳払いをして提案する。
「大した世話はできないけれど、枯れない程度には、私でも何とかできると思う」
「え? 本当? でも土いじりは結構手が荒れるわよ?」
 シェリアは、そこで春の花を意識して、誘うように優しく笑った。
「心配なら、ここにお茶を飲みに来ればいいわ。ついでに庭の手入れをすればいいでしょう。――会いに来るのは、私であって、ヨルゴス殿下ではない。それなら、別に城の人の目を気にする事もないし、王太子殿下にも言い訳ができるじゃない」
 メイサはしばし目を丸くしてシェリアを見つめていた。澄み切った瞳にじっと見つめられて、シェリアの顔が気まずさに赤らむまで、彼女はずっとシェリアから目を逸らさなかった。
 やがて、魅惑的な赤い唇からしっとりと言葉が落ちる。
「……ありがとう。すごく素敵な提案。嬉しいわ」
 メイサは今まで見た中で一番の笑顔を浮かべていた。真っ直ぐに向けられた全面の信頼に、そして心のこもった感謝の言葉に胸が震え――シェリアは驚愕した。
(あ、なに、これ)
 じわりと胸が温かくなった。こんな感覚は初めてで、ひどく動揺する。
 言葉を失うシェリアに向かって、メイサは続ける。
「私、ヨルゴス殿下とルティ――いえ、王太子殿下の架け橋になれればってずっと思っていたの。ほら、どちらも有能だけれど、周りを頼らないで一人で何でもやってしまう人でしょう。協力し合えばどれだけ国がよくなるかわからない。私の事で二人がぎくしゃくしてしまうのは好ましくないってずっと思っていて……どうすればいいのかって悩んでいたの」
 そこでメイサは顔を赤くする。そして蚊の鳴くような小さな声で語り始めた。
「この間あなたが言ったように、殿下は私の事を大事に思って下さっていた。――家族になっていいというくらいには、好きでいて下さったと思う。私、馬鹿だってよく言われるけれど、さすがに好意があるかどうかくらいはわかるのよ。だけど、私はルティを選ばざるを得ない。私には、彼が。彼には、私が必要だから」
 王太子の名を口に出した時、メイサは急に毅然と顔を上げた。今までおどおどと話していたのが嘘みたいだった。まるで宣戦布告のようにも思え、シェリアは自分の計画が見透かされているのではと、笑顔を保つのに必死になる。
(ああ……やっぱり読めないわ、この女)
 これが計算だったら、いくらシェリアでも太刀打ちできないだろう。
 どういうつもりで今の言葉を言ったのか――シェリアが真意を測りかねていると、メイサはふっと表情を和らげる。
「この間のあなたの言葉、すごく心がこもっていたじゃない。――私、あれから色んな事を考えさせられたわ。ヨルゴス殿下の事もだけれど……あなたの事も。例えばね、私がルティを愛しいと思うくらい、あなたも、ヨルゴス殿下を想っているのかしら、とか」
「ち――」
 違う――とシェリアは思わず口に出しかけて慌てて口をつぐむ。違わない――そういう設定になっている事を辛うじて思い出したのだ。誤摩化すように俯くと、メイサはくすくすと笑った。
「あら、照れてるの?」
「ち、違うわ!」
 シェリアはだんだん混乱してきた。これは確実にメイサのペースに巻き込まれている。取り込もうとしているのに、取り込まれそうになっている。
(地が出そうだわ……)
 いつもは見極めてから小出しにしているというのに、この女の前では思わず本来の自分が飛び出す。何気ない言動に翻弄され続けている。
 やっぱりシェリアは、自分の想い通りにならないこの女がひどく苦手だった。


2013.9.7

 

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