憎らしい口を塞ぐ方法

 

 

いつしか季節は春を通り過ぎようとしていた。
 ジョイアほど花が咲く事のないこの地では、空の色と風の香りで季節の移り変わりを楽しむらしい。淡い空の色は次第に力をつけはじめ、同時に焔色の太陽は輝きを増す。
 中庭に植えられた木々も淡い若葉を猛々しい深い緑に塗り替え、衣替えをしていた。畑のルベルもいつの間にか青く幼い実をつけ、一日に何度も渇きを訴える。額にかいた汗が瞬く間に空に運ばれるのと同じで、大地の水もすぐに風に攫われるのだ。厳しい夏はもうそこまでやって来ていた。
「とうとう十日後に婚約だってさ。さっきルティリクスが皆に報告していた」
 朝儀を終えて戻ったヨルゴスは、いつものように穏やかな顔で言った。
 誰と、と聞くまでもない。シェリアはぐっと手に力を入れた。
(とうとう、なのね)
 黙り込むシェリアに向かって、彼は面白そうに言う。
「切羽詰まったね。どうする気なのかな? それとももうとっくに諦めていたのかな。この頃はメイサと随分仲が良いじゃないか」
 相変わらずヨルゴスは痛いところを衝いて来る。
「まだ期間があるもの。婚約なんていくらでも破棄できるわ。あなたが良い例でしょ」
 シェリアがやり返しても、ヨルゴスは「まあそうだけど」と、大して痛手を受けた様子もない。
「自然消滅なんて終わり方で、あなた本当に良いの? 情けない」
「僕は君と違って平和主義だからね」
 遠慮なく放ったせいか、罵詈雑言は尽きた感がある。何を言っても彼はもう挑発に乗る事がない。『負け犬が聞いて呆れるわ』と言ったときに彼が見せた冷たい笑顔は、もう見る事はできなかった。
 実はシェリアは少々物足りない。あの凄みの効いた顔は、後々思い出すとひどく色気があったような気がしたのだ。
 飄々としているヨルゴスの意外な一面。それは鋭く激しくて、正直に言うと結構そそられる。逆にあれがないから彼は退屈な男に見えるのではないかと、つい余計な世話を焼きたくなるのだ。
 あの顔はきっと王太子にも劣らない。ならばメイサだって傾くかもしれないではないか。
 シェリアの思惑を余所に、ヨルゴスはにっこり笑うと、突然切り出した。
「そういえば、約束は覚えてるよね?」
「――ええ、覚えてるわ」
 頬を張られたような衝撃があったけれど、とっさに答えることができた。約束とはつまり、王太子に振られたらジョイアに帰るということ。
「期待を裏切って悪いけれど、ちゃんと策は用意してるの」
 気丈に続けるものの、国に帰ればシェリアには後はない。ここでしがみつかないと"分相応な結婚"が待っている。嫌な想像にこめかみから脂汗が滲み出る。
「本当かなぁ? 今のところ完敗って感じなのに?」
「失礼な――本当に策はあるんだから!」
 僅かに声が上ずった。そこをヨルゴスは見逃さず、呆れたように言う。
「意地張らずに、国に帰ればいいのに。どうしてそこまでルティリクスにこだわる? 結構な良縁だってたくさんあるんだろうしさ。こんなところであくせく働くなんて、本当は向いてないんだろう」
 できるならばとっくにやっている。喉元まで出かかった言葉をシェリアは無理矢理に飲み込んだ。弱音など吐くものか。散々馬鹿にしたこの男の前でなど、絶対に。
「性には合ってるわよ。わかってるでしょ、もう計算だって間違えない。調合だって一人でできるわ。助手として不足はないはずよ」
「そうかな。まぁそうかもしれないけれど」
 ヨルゴスはふとシェリアの手に視線を定めた。さりげなく手を後ろに隠すとヨルゴスは椅子から立ち上がってシェリアに近づいた。
「君の性には合ってても、君の体には荷が大きいんじゃないかな――そうだろう?」
 いきなり手首を掴まれて、シェリアは思わず振り払おうとする。だけど、ヨルゴスの力は意外に強い。手を持ち上げられて、目の前に掲げられる。
「人よりも肌が弱いんだろう」
「このくらい、平気よ」
 口で言っても無駄だった。シェリアの真っ赤に腫れ上がった手は彼女の強がりをあっという間に否定する。
「……思ってたよりひどいな。どうして言わない。手帳をくれって頼めるのに、薬は頼めないってどういう理屈だよ」
 不可思議そうにヨルゴスが隣室に向かって声をかけると、ヴェネディクトが小箱を持って現れた。
「軟膏を塗っておいた方が良い」
 ヨルゴスは小箱から茶色の器を出すと蓋を開ける。獣脂の独特の香りにシェリアは顔を歪めた。
「持ってるし、ちゃんと塗ってるわ」
 強がったけれど、数日前に軟膏が切れて、ジョイアから取り寄せてくれているところだった。数日塗っていない。薬の調合に使う油を塗って誤摩化していたけれど、手はどんどん乾燥し、ついにはひび割れ、そして割れた肌が膿んで腫れ上がった。
 確かに頼めば良かった。なくなった手帳は頼めたのだから。あんな風に薬も気軽に頼めば良かったのだ。なぜできなかったのだろうと自らに問う。答えはすぐに出る。――きっと弱みを見せたくなかったからだ。
「薬はジョイアから持ってきたものだろう? だったらアウストラリスでは効き目も弱いよ。湿度が違うんだ。それに君が扱ってる薬草の中には手を荒らす物もある。薬効が高いものじゃないときっと効かない。僕の作った薬はきっと良く効くから塗っておいた方が良い。綺麗な手が台無しになったらまずいだろう」
 ヨルゴスは白い軟膏を指にとると、シェリアの手の甲に乗せ、丁寧に伸ばした。ただの手当と思おうとするけれど、頬がどうしても熱くなる。異性に触れられる事、こんな風に優しくされる事に全く慣れてないのだ。
「これには亜鉛の粒子が入ってるんだけれど、皮膚の保護にすごくいいんだ。副作用もないし、色もあまり目立たない。匂いもそれほど強くないしね。――あぁ、そうか。もしかしたら、食べ物のせいもあるか。体が慣れてないところに水仕事だから、余計にひどくなったのかも」
 大きな手が手首を固定し、長い指がシェリアの手の甲で、手のひらで、ゆるゆると動く。動きにつられるように胸が高鳴り、頬が染まる。まるで医師のように淡々と説明するヨルゴスに比べると、自分の取り乱し方が恥ずかしかった。彼の視線がシェリアの手だけに注がれているのが救いかもしれない。今顔を見られたら羞恥で死にそうだと思った。
「わかったから――とにかく離して。自分で塗れるし!」
「意地を張るなよ。辛いときは、周りに甘えればいいんだ」
 意地を張るな――繰り返された彼の言葉がシェリアの胸の奥の柔らかい部分にじわりと染み込み、鼻の奥がつんと痛んだ。慌てて項垂れ、髪で顔を隠す。
(出て行けって言ったくせに――どうして)
 ふと沸き上がった想いに、シェリアは自分がさっきのヨルゴスの言葉に傷ついている事に気が付いた。ここのところ、ずっと彼は優しかったし、シェリアは夢を見てしまっていた。例えば、ヨルゴスがずっとここにいていいと言ってくれるかもなどという、都合の良い夢を。だけど、やっぱりシェリアはここでも厄介者で、爪弾きにされる存在でしかない。期限付きだから、預かってもらえている。今だって、きっとかりそめの優しさだ。
「痛い。離して」
「まさか……泣いてるの?」
 驚いたような声にカッとなる。
「――泣くわけないでしょ!」
 シェリアは叫ぶと強引に手を振り切って部屋を飛び出した。
 と、そこでメイサと蜂合わせる。いつものように昼食に誘いにやって来たのだ。最悪のタイミングにシェリアは思わず舌打ちしそうになる。
「どうしたの? 泣いてるの?」
「――なんでもないわ。目にゴミが入っただけよ」
 シェリアは毅然と顔を上げてにっこり微笑んだ。頬には涙の筋があったかもしれないけれど、なかった事にするくらいに明るく振る舞う。憐れみなど要らない。必死だった。
「え、でも」
「ご婚約、決まったそうね。おめでとうございます」
 シェリアは遮る。そして努めて普通に聞こえるように声を整えた。
 メイサは先に切り出されて戸惑った顔をしたが、すぐに微笑む。
「あ、ありがとう――ああ、ヨルゴス殿下からお聞きしたのね」
「ええ。忙しくなりそうね」
「そう、そうなの。……ええとね、今日はこれからカルダーノに行く事になってしまって、お昼はもう食べてしまったの。ごめんなさいね」
 突然の申し出にシェリアは瞠目する。
「カルダーノって?」
「ヨルゴス殿下のご生家のある土地よ」
 なんでそんなところに? 不思議に思うシェリアを見て、メイサは事情を説明した。
「ええと、衣装の生地を選びにね。城に色々持ってきてもらっているのだけれど、なかなかいいものが決まらなくて。あの街に腕のいい職人がたくさん集まっているのだけれど、王妃様が行って見てきた方が手っ取り早いとおっしゃるものだから」
「ふうん」
「王妃様が工房をご覧になりたいというのもあるのだけれどね、視察も兼ねて。だからご一緒することになったの」
 はにかんだ笑顔。幸せそうなメイサの顔を見て、そして比べて惨めな自分を思い描いて――妬ましさからどす黒い考えが沸き上がる。
 数日前にメイサを嫌えないと悩んだ。だけど――嫌えないからなんだというのだろう? シェリアの目的は一体なんだったのか?
 "最終目的"を思い出す。彼女に近づいたのはあくまでシェリアを警戒する王太子に近づくため。ごちゃごちゃと回り道をしている間に忘れかけていた。もうメイサには十分近づいた。そして彼女自身には付け入る隙はないことは十分にわかった。ならば、シェリアのとるべき道は一つ。もう最後の手段しか残されていない。都合の良い事に恋敵の油断を誘える位置に辿り着いた。実行は可能だろう。
 メイサに嫌われても、本懐を遂げた後ならば何の問題もない。
(それに、そうだわ――彼女を嫌えないのは、嫌われていないから)
 嫌われれば、メイサもきっとシェリアに嫌な部分を見せて来るに決まっている。局面は一変するだろう。
 もう彼女と仲良くなることで得たかったものは得ている。機はいつの間にか熟していたのだ。
 シェリアは未練に引きずられそうになるのを必死でごまかす。それ以上の考えを打ち切る。
(そうよ、今、メイサはなんと言った?)
 思いついた考えを組み立てながら、シェリアはさりげなく問う。
「王妃様とお出かけ? 王太子殿下は?」
「会議があるから城に残るわ」
「……そう」
 そのとき塔の入り口からメイサを呼ぶ声がする。
「じゃあごめんなさい、急がないといけなくて。あ、お風呂は好きなだけ使ってちょうだいね」
 メイサは早口で言い置くと軽やかに身を翻す。
 美しい後ろ姿をじっと見送った後、シェリアはある覚悟を胸に大きく息を吸込んだ。

2013.9.14

 

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