狂犬の手懐け方

 

「……ええと、こっちで本当に合ってるのかしら」
 家は貧乏だが、一応貴族の令嬢だ。シェリアは供も連れずに一人で出かけたことなどないことに気が付いた。持ち出したものはとりあえず水を一袋。ナンを一枚。あとは日よけと防寒を兼ねた厚手の毛布を一枚だった。この国にやって来た時に周囲の者が用意していたのを見ていたのだ。だが、カルダーノまでどの程度の距離か。そしてどの道を行けばいいのか。漠然と王都エラセドから南西ということしかわからない。
 しかも真夜中なのだ。星は読めるものの、この国の星の位置はジョイアとは異なっている。本当にこちらで正しいのか不安が残った。朝になって日が昇った時に仰天するかもしれない。
(困ったわ)
 走るのに疲れ、とぼとぼと歩きはじめる。次第に道は寂しくなり、そしてとうとう最後の民家を通り過ぎていた。まばらだった人通りは全く無くなり、エラセドを囲む城壁は後ろの砂の丘に隠れ、もう見えない。
 そもそもこの道は街道と呼べるのだろうか。ジョイアの整備された道とあまりに違う。砂が道を隠してしまっていて、脇の岩が辛うじて行き先を教えてくれるだけだった。
 先ほど馬に乗って脇を通り過ぎた男に助けを求めるべきだったか。できれば馬車を拾うつもりだったのだけれど、真夜中に行き来する商人はさほど多くない。待てども待てども次の旅人は現れず、老婆のなりのまま歩き続けている。
 足にできたまめはとうに潰れた。変装のための厚い化粧は汗で溶け、長い髪が巻き付けた布の中で蒸れている。夜だが昼間の熱がまだ足元から上って不快だった。完全に冷めてしまう前に日が昇るため、日の出と同時に夏日が身を焼くこととなるのだろう。喉は干上がりつつあったけれど、日中の暑さを思うと水も欲しいままには飲めない。シェリアは沸き上がる不安に溜息をつき、足を止めた。
(あーあ……)
 カッとなって飛び出したまではいいけれど、後が続かない。行き詰まってから自らの力不足を実感する。いつも通りだ。
 ジョイアでの計画の失敗も詰めの甘さから来ていた。頭の中では上手くいくのに、実行する力など自分にはないとやってみてわかる。できると信じている分だけ打ちのめされる。
(でも、負けないわ)
 シェリアは足元に落ちてしまっていた視線を、強引に美しい星空へと持ち上げると、再び歩き始める。
 何度転ぼうとも勝利を夢見て立ち上がってきた。勝敗など最後の最後までわからない。負けるまで、負けたとわかるまでは諦めない。どこに逆転の機会が落ちてるかわからないのだ。諦めなかった者が勝者なのだと信じている。今だってそうだ。
(ま、この場合の勝利が何かなんてわからないけれど、ね)
 こうして明確な勝利がわからないままに動くことなど初めてかもしれない。シェリアは、自分の変化を笑った。
 ひたすらに打算で生きて来たシェリアを変えたのはメイサだろうか。それともヨルゴスなのだろうか。シェリアの周りの大人たちは彼女に新しい行動理由を教えてくれたような気がした。
 今はただ、メイサが悲しむ顔を見たくないし、ヨルゴスが不幸になるのも嫌だった。それらを回避することが今の勝利だ。そう思えた。
(でも――どうしよう。時間がない)
 シェリアはぐるりと首を回す。曲がった腰を伸ばす。
 と、後ろからのろのろ進む荷馬車がやって来ているのを見つけて、シェリアは飛び上がりそうになった。
「おい」
 馬車が止まると同時に声がした。若い男の声に僅かに身が引き締まり、顔を布で隠す。
 これは危機か、それとも好機か。慎重に身を縮めるシェリアに、男は続けて声をかけた。
「婆さん、疲れてるんじゃねえか? 乗るかい?」
 婆さんという言葉と、労るような響きに警戒が多少緩む。シェリアは腰を曲げ直して、俯いたまま、嗄れた声を出した。
「カルダーノに行きたいんだがね。乗せてくれるのかい」
「悪いが、ただじゃあ乗せられねえんだ。なにか金目のものを持ってねえか」
 値踏みするような視線を感じてシェリアは肝を冷やす。アウストラリスでは盗賊が出たりするのだろうか。この男は違うと言えるだろうか。
「なんだい、案外ケチだね」
 シェリアは頭を働かせる。もし盗賊なら金品の有無を尋ねたりせず、問答無用で奪うに決まっている。相手は老婆なのだ。そっちの方が手っ取り早い。となると、これは契約だ。きっとそうだ。
「安いもんだろ。この先には、冥界の門っていう死者の住処があるし、その周辺では大狼オルトロスがうようよ出るんだぜ?」
「え、そうなの――かい?」
 不吉な地名とジョイアでは幻獣と呼ばれている獣の名に、思わず声が裏返りそうになると、男は「冗談だよ」とヘラリと笑った。
「実はエラセドで金を使い過ぎてよ。飼い葉代まで使っちまってさ。小金が要るんだよ」
 シェリアの不安を吹き飛ばすかのように男はからからと笑った。呆れつつも、対価を求められることで逆に少し安心した。メイサたちのおかげで親切にされることに慣れ始めてはいたけれども、上手い話には裏がある。染み付いた教訓はこれまでシェリアを助けてくれることが多かったのだ。
「残念だね。何も持っていないよ」
 しかし、金など持っていない。換金できるものを考えても思いつかない。マルガリタに着せて来た衣装ならば多少値がついただろうが、今着ている服など金にならないだろう。耳飾りくらいしてくれば良かったかと悔やんでいると、ふいに男が尋ねた。
「その髪は駄目か? 随分長そうだが」
「え」
 考えもつかなかった提案に驚いて見下ろすと、纏めていたはずの髪が一部解けて漏れ出していた。
「婆さんの髪でも売れるかね?」
 ごほごほと咳で誤摩化しながら髪を布の中に仕舞った。老婆の姿が偽りだとばれているのではと急激に動悸が激しくなる。
白髪しらがでもそれだけ長けりゃねぇ、売れるんじゃないか? 飼い葉代くらいにはなるだろうし、売れなかったららあとで請求するし。カルダーノに当てくらいあるんだろ?」
 白髪――男の誤解にシェリアはほっとする。そしてなるほどと頷いた。頼りない月光の中では確かに銀の艶は見えないだろう。
 安堵の中、シェリアは男の提案をじっと噛み締める。布の中で髪を撫でる。おそらくは自分の持つ中で唯一誇れるものだ。未練はあったが、今シェリアには歩く時間が惜しかった。
(これは好機よ。ついてるわ。髪なんて少しくらい短くなっても、また伸ばせばいいもの。きっと。安いものよ)
 髪をぐっと掴むとシェリアは了承した。
「こんなものでも売れるんだね。じゃあ頼むとするかね」
 時間を置くと躊躇いそうだった。気が変わらないうちに一思いにこの場で髪を切ろう。刃物を借りようとすると、男は断った。
「ここで変に切れば品が駄目になっちまうだろ。カルダーノに着いてから髪結いにやってもらうからよ。お代はその時でいい」
 もっともかと納得したシェリアは頷いて男の指示通りに荷台に乗り込んだ。

 *

 エラセドからカルダーノの間に伸びる街道は、昼と夜で異なる顔を持つ。
 日の当たる道を何の準備も無しに行けば乾きで死ぬ。しかし日が沈んだとたんに大狼と盗賊、闇商隊の巣となる。護衛を雇って夜道を行く真っ当な商隊に混じるのが正しい旅の方法だ。だが、道行く隊に尋ねてもそんな女はいなかったということだ。
 か弱い――何をもって弱いと言うかはひとまず置いておいて――若い女が一人で砂漠を行くとなると、悲惨な末路がどうしても視界を散らついた。
 シェリアは聡いし、きっと上手く変装もしているだろう。だが、いくら老婆の恰好をしていても、ふとした仕草まで真似られるわけがない。マルガリタのように布を被ってじっとしているならまだしも、若い娘には動きにも声にも張りがある。すぐにバレるに決まっている。そして若い女と知られれば――
 ヨルゴスは奥歯を噛み締め、ぎゅっと手綱を握り直す。闇雲に駆けてしまいたい衝動を無理矢理に押さえ込む。
「この国のことを何も知らないくせに、自分を過信して、無茶をして……いつまでもジョイアにいる感覚でいてもらっちゃ困るんだ」
 地平線が赤々と焼け始めていた。ヨルゴスは馬を進めながらも辺りの景色に目を凝らす。だが砂と岩以外に陰は見当たらない。
「この辺りの人買いは法をかいくぐるのもお手の物ですからね。小娘を騙すのなんか簡単ですよね……。いくらシェリア様が用心深くても、治安の良いジョイアにはその手の者がいないから存在さえ知らないでしょうし」
 隣に並ぶヴェネディクトがヨルゴスの心を抉るようなことを口にした。もう随分進んだというのにそれらしい人影は見つけられない。可能性は高い。
 エラセドの城下町やカルダーノなどの都市にある花街で働く女たちは、大抵が地方から売られてやってくる。貧困のひどい西部や北部の女が多いと報告を聞いた事はある。貧しさから納得してやって来る女と、無茶な契約をさせられて騙されるように連れて来られる女が半々だそうだ。国が取り締まりをやっているがなかなか追いつかない。このところの会議でも議題に上がり、対策の強化を訴えているところだった。
 そういった闇商人がシェリアに目を付ける可能性は極めて高い。品の良さ、そして異邦人っぽさは隠しようがないし、恰好のカモになるだろう。
 なにより彼女は黙っていれば・・・・・・・高級娼婦にもなれる素材を持っている。
「不吉なことを言うな」
 横目で睨むと、ヴェネディクトは申し訳ありませんと項垂れる。
「ですが大狼オルトロスに襲われているよりかはましです」
「大狼は今はそれほど多くないだろう?」
「いえ、街道を逸れるとまだ出るそうです。とにかく、商人は商品には手荒なことはしないはずですよ。シェリア様の器量ならば、きっと大事にされていると――」
 ヨルゴスは吐き捨てるように遮った。
「それは、彼女が本当に商品になるならの話だ。いくら器量が良くても、中身があれだったら」
 我慢強いはずのヨルゴスをも怒らせた数々の暴言。耳に蘇り視界が暗くなる。あれに堪えられる男などそうそういないに決まっている。怯えた彼女が吠えて、男を逆上させているのが鮮明に想像できてしまう。
「ああ、確かに……。変に口答えなどされていなければいいんですが」
 主人をなんとか励ますつもりだったのだろう。ヴェネディクトは、逆効果だったと気まずそうに口を噤んだ。
 無言で唇を噛み締めると血がにじむ。

2013.10.16

 

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