狂犬の手懐け方

 

 ザクリ、ザクリという音だけが耳にまだ残っている。頭の軽さとは裏腹に心は重かったが、シェリアは振り払うように大股で歩いていた。
 髪を切る時まで老婆の扮装をしているわけにはいかない。仕方なく頭から被っていたフードを取ったが、男はさほど驚いた様子を見せなかった。どうやらいつからか変装に気づいていたようだった。
(でもここまで来ればこっちのものよ)
 さすがに金を払わずにとんずらすれば余計な騒ぎに巻き込まれる可能性があった。
 名残惜しい気持ちもあったけれど、シェリアは『ひと思いにやってちょうだい』と髪を切り落としてもらったのだ。背丈よりも長いシェリアの髪に髪結い屋の主人も男も驚いていた。項まで切られる事を覚悟していたが、飼い葉の料金分なのか、背の中程までの長さに切りそろえてもらって今に至る。ちょうどメイサと同じくらい――アウストラリスの女性の標準的な長さらしい――になった。
 男の足音はまだ間近にあった。軽やかで疲れの欠片も感じない。一方小柄なシェリアの足幅では、いくら急いでもすぐに追いつかれてしまい、消耗し始めていた。
 男は騒ぎを恐れているのか、無理強いはしないがぴたりとまるで影のように付いて来る。その上、まるで恋人にするかの様に、何度も肩を抱こうとする。騒ぎが嫌なのはシェリアも同じだが、あまりのなれなれしさに頭に血が上るのを堪えられなかった。
(うっとうしいったら……!)
 シェリアは肩に乗った手を思い切りつねり、隣に並んだ足を思い切り踏みつけた。
「ぎゃぁ!! いてえ! 何すんだ」
「しっつこいのよ。お代は払ったはずよ。もうあなたは用済みなの。さようなら」
 シェリアが睨みつけると、男はにやついた顔を近づけた。
「いーや、代金が足りなかったんだよ」
 冗談じゃないとシェリアは憤慨する。
「はぁ!? さっき髪結い屋で見てたんだから。金貨一枚って、飼い葉を買うには十分でしょ。ふざけるのは顔だけにして」
 実は気にしていたのか、にやけていた男の顔が歪み、一気に赤らんだ。しまったと暴言を悔やみかけたが、今更遅い。
「なんだとー!? この女、下手に出てりゃいい気になりやがって」
 シェリアは男からうんざりと顔を逸らし大通りへと駆け出した。とにかく人通りの多い場所へ逃げたかった。そうして、目的地へ一刻も早く向かいたかったのだ。
 男はしつこく追って来る。シェリアは少し振り向くと言葉を吐き捨てる。
「私、急いでるのよ。訴えられたくなかったら、さっさと私の前から去ることね」
「はは。訴えられるのはお前の方だろう。馬車にただ乗りしたって言ってやるからな」
 シェリアは呆れて一度足を止める。
「だから、お代は払ったって何度言えばいいの」
「飼い葉一年分には足りないだろ?」
「一年分? エラセドからカルダーノまでに必要なだけじゃなくて?」
 後付けの条件に眉を寄せる。男はどうだとでも言いたげな自信に満ちた顔で頷いた。
「そうだ。量は言ってなかっただろうが。――それから、ほら、お前が吐いたせいで馬車が使い物にならなくなっちまったんだ。飼い葉に馬車一台、金貨一枚じゃ足りねえんだよ。金貨もう一枚払ってもらおうじゃないか」
「ふざけないで。ジョイアでも馬車の運賃でそんなぼったくりはいないわ。呆れた。無法地帯なの? アウストラリスここは」
 馬鹿馬鹿しいとシェリアは言い捨てる。とたん、夏の朝日に温まりかけていた辺りの空気がすっと冷めた気がした。
「ジョイア? あぁ……お前ジョイアの女か」
「な、なによ」
 男の顔が真顔になり、そして醜悪に歪んだ。あの近衛隊のニコラスがジョイアと口に出した時に見せた表情に似ていて、尋問時と同じく背筋が冷えるのがわかる。
「じゃあ、余計に行かせるわけにはいかねぇな――来いよ!」
「ちょっと離して!」
 二の腕を掴まれ、再び人通りのない裏通りに引きずりこまれながら必死で抵抗する。
「どうする気よ! 金貨もう一枚って言っても、もう売れるもの何も持ってないわよ!」
「いーや、あるじゃねえか。残りは体で払ってもらう。そのつもりで髪を残してやったんだよ。ほら、綺麗な顔をせいぜい有効活用させてもらおうか。なあに心配するな。二、三日でたんまり稼げるからよ」
 男はだらしなく緩んだ顔をシェリアに近づける。埃で薄汚れた顔。無精髭の先と生暖かい息が頬にかかり、思い切り顔を背けた。
「臭いのよ! 離しなさいよ!」
「さっきからうるせえな。その要らない口、塞いでやろうか!?」
 ヨルゴスにされたことを思い出し、とっさにシェリアは両手で口を押さえたが、男は両脇が無防備になったシェリアを地面に押し倒す。
「ちょっ――」
 地面に顔を半分埋めて砂を噛んだ。じゃりという食感に顔をしかめた直後、男の息が首筋にかかり、シェリアの全身に鳥肌がたった。
「離れなさいよっ!」
 助けてと叫びたかった。だが結構な大声で騒いでいるにもかかわらず、誰も駆けつけない。この街ではこんなことが日常茶飯事なのだと知る。
 それに今さら誰に助けを求めるつもりなのだろう。ここにシェリアがいることは誰も知らない。
(どうしよう。どうしたら――)
 シェリアは必死で逃げる方法を考えた。力がないからと諦めたくない。こんな男に触れられたくない。
 男の手に噛み付くと頬を打たれた。非力な自分が悔しくて涙が出そうになる。
 だが、歯を食いしばって堪えた。泣けば男を喜ばせる気がしてできなかったのだ。
「ジョイアの女はこんな時でも泣かないのかよ、可愛げのねぇ……忌々しいんだよ!」
 再び男の手が空を舞い、二発目の平手を覚悟してシェリアはぎゅっと目を閉じた。
(……あれ?)
 しかし、いつまでたっても頬に衝撃はやって来ない。代わりに空から声が降った。
「忌々しいのは――――お前だよ」
 ドカッという鈍い音が響いた直後、覆い被さっていた体が浮いた。光が射して眩しさに目を細める。逆光だが、そして髪は朝日に赤く染まっていたが……シェリアはもう間違えなかった。
「殿下……!」
「……なんだか紛らわしいなぁ、その呼び方」
 どっちとでもとれるからな、名で呼ばせるようにしておけば良かったかな……と不満げにぼやくヨルゴスは、髪をかきあげるとシェリアを地面から引き起こし、腕の中に優しく囲った。震えが止まらないシェリアを労るような、触れるか触れないかの距離だ。もう心配要らない――そんな声が聞こえた気がして、シェリアが顔を上げかけると、耳障りな声が割入った。
「ってぇ――んだぁ? 邪魔する気かよ! 未払いの金を払ってもらうまでは、こいつは俺の物だぜ! 横取りする気なら金払えよ!」
 男が殴られた腹を抑えて呻いている。
「違うでしょ。カルダーノまでの運賃で金貨一枚を払ったのよ。ぼったくってるのこの男」
 シェリアは震える声でヨルゴスに自身の正当性を訴えた。
「運賃で金貨一枚? 確かにぼったくりだな」
 頷いたヨルゴスはシェリアを抱いたまま、殺意の籠った視線を男に投げたが、男も引かずに自分が正義だと訴える。
「そいつが嘘を吐いてるんだよ。こっちは飼い葉一年分と馬車代で、金貨二枚を踏み倒されたんだ。だからその分稼いでもらうんだよ。ほら、ここに契約書もある」
「なにそれ!?」
 男が突き出した紙はでっち上げと思われる契約書だった。シェリアは既に勝手な名前を付けられているようで、別名で署名がされていた。確認したヨルゴスは眉を上げると、微かに笑った。
 ヨルゴスは一歩前に進み、建物の影から出た。日の光が彼の鋼色の髪を研ぎ、マントが舞い上がる風に靡く。朝日に裏地の禁色が浮かび上がったとたん男は目が泳ぎ「まさか」と顔を青くした。
「ふぅん。稼いでもらうね。――ヴェネディクト、どうやら彼は人買いの現行犯じゃないかな。事情をよく聞いてやってくれ。彼の雇い主の話も聞いた方がいい。うん、簡単に吐くとは思えないけれど、女性に手をあげるようなヤツだ。多少手荒なことをしても構わないから」
 ヨルゴスは花が咲いたように艶やかな笑みを浮かべた。だが眼光は真冬の嵐の様に冷たく鋭い。表情との差異にシェリアは彼の怒りが尋常でないことを感じ取る。傍で見ているだけならば飛び抜けて魅惑的な顔だった。シェリアは状況も忘れて見とれかけた。
 だがヨルゴスの言葉と表情に凍り付いていた男は、我に返るなり狂ったように二人に立ち向かって来た。ヨルゴスはシェリアを背に庇うが、彼の右手はまだ剣の柄さえも握っていない。確か彼はこういった荒事が得意ではないはず――気づいたシェリアが悲鳴を上げかけたそのとき、彼はくすりと笑うとシェリアごと体をかわす。そして勢い余って地面に顔を突っ込んだ男に向かって、右手に握りしめていた瓶の中身をぶちまけた。
(え、あの瓶って)
 このところシェリアが調合していた例の薬だ。とたん男が「痛ぇ!」と絶叫して、派手にくしゃみをし始めた。
「護身用に開発してたんだけど、まだ人では試した事なかったんだ。いい実験台が見つかって良かった。うん、どうやら使い方次第では有用かな」
 のんびりとヨルゴスは男の様子を観察したあと、ヴェネディクトに連れて行けと命じる。男は縄をかけられるが、悪態をつく余裕もなく、くしゃみと咳を連発しながら連行されていった。
 男が捕縛され連れ去られた後も、シェリアは呆然と成り行きを見守っていた。しかし、ふとヨルゴスの視線が自分に下りて来るのを感じて、思わず首を縮める。
(お、お願いだから、さっきの顔でこっち見ないでね!)
 しかしシェリアの願いは聞き遂げられない。
「どうして君は無茶ばかりするんだろうね。女性の一人旅なんてアウストラリスでは自殺行為だ」
 恐る恐る見上げると、以前も見たことのある顔が見下ろしていた。表情は穏やかなのに目だけが凄まじい怒りを湛えている。確か彼女が王太子の部屋に乗り込んだ時に彼はこんな顔をしていたとシェリアは思い出した。
「ど、どうして、って――どうしてはこっちの台詞よ。どうしてここにいるの。どうして助けてくれるの。私がどうなろうとあなたには関係ないはずよ。だって私、あなたのことさんざん悪く言って、えっと、腰抜けとか……」
「腰抜けね。他にも臆病者とか負け犬とか、穀潰しってのもあったかな」
「…………ご、穀潰し?」
(そんなこと言ったかしら……言ったかも)
 その辺に関しては全く自分に自信がなかった。シェリアは気まずくて項垂れる。だが、そこが相変わらずヨルゴスの腕の中だと気が付いて急に胸がひどい音を立て出した。
「もしかしたら、汚名を全部返上すれば、君は僕を一覧表リストに加えてくれるのかなって、そう思ってた」
一覧表リスト?」
 何のことだろうと問うけれど、彼は答えずににこりと笑った。
「だから、穀潰しにはならないようにルティリクスの力になろうと思っているし、メイサにもプロポーズの返事を聞いて負け犬を返上したし、腰抜けはそうだな、今から返上しようかな」
「え?」
 顔を上げると、ヨルゴスのいつにない真剣な顔があって、シェリアは面食らった。
「――好きだ」
「は?」
 唐突過ぎて意味がわからなかった。何か聞き間違えたのかと思って、シェリアは尋ねた。
「え、何が?」
 するとヨルゴスはひどく疲れた顔をした。そして、僕はこの言葉を何度言えばいいのかな――ぼやいた後、
「だから、僕は、君が好きだ」
 苛立った声で紡がれるのは、あまりにそぐわない言葉。
「え、……なんで? どこが?」
 全く理由がわからず、シェリアは戸惑った。というか夢だろう、これは。男に押し倒された時に頭を打ったのかもしれない。気を失って、都合の良い夢を見ているのだとシェリアは自分の頬をつねろうとして――先ほど殴られた頬がびりりと痺れた。
(ゆ、夢じゃない……わけ?)
「なんでって……、どこがって、ええと……」
 ヨルゴスはシェリアの投げかけた問いに困ったように首を傾げていた。嫌な予感が膨らんだシェリアは慌てて答えを遮った。
「あぁ、わかった。気を使ってくれてるのね。突然婚約なんて言い出して、私が怒ったから。いいのよ。困ってるのでしょう? それなら、お互いを利用してこの危機を乗り越えればそれでいいの。そうして上手く王妃を騙せたら――そのときは、婚約を、は、破棄すれば」
 動揺を見せないようにと早口で言ったが、最後の最後で力尽きた。本心が口から漏れる言葉を全力で阻んだのだ。
 本当は破棄なんかして欲しくない。でも、愛がないのなら破棄して欲しい――愛して欲しい。
 口に出せない望みが胸を刺し、声が上ずった。視界が歪んだのを感じてシェリアは俯いた。
 ヨルゴスは長い息を吐いた後、静かに告げた。
「どうも拗れてるなぁ。一度婚約は破棄した方が良さそうだ。王妃については、他の方法を考えることにするよ」
 ガツンと何かに殴られたような気がした。先ほど頬を張られた衝撃よりも大きかった。
「…………ああ、そう。よかった。本当は迷惑だったの。――清々するわ」
 思考力はないに等しかった。習性で口から飛び出す強がりとは裏腹に、目からは涙が溢れ続けた。
 ああ、これが失恋というものなのだと、あまりの辛さに消えてなくなりたいとシェリアは願った。
「それ、本心?」
 シェリアは下を向いたまま反射のように答えた。
「そうよ」
「――じゃあ、どうして君は泣いてる?」
「泣いてなんかないもの。目に砂が入ったのよ」
 シェリアが頬を拭うと、やはり打たれた肌が悲鳴を上げる。
「泣いてるよ……本当に意地っ張りだな」
 ヨルゴスはシェリアの髪の中に手を差し込むと、そっと髪を引いて彼女を上向かせた。そして頬に優しく口付ける。そのままついでのように唇にもキスを落とすと、真っ赤になって絶句するシェリアに向かってやれやれというように溜息をついた。
「君はやっぱり口を開かなければ素直で可愛いな。ずっと口を塞いでおこうかな。……ま、吠えてるのもまた別の可愛さがあるけれど」
 なんですって――と思ったけれど、唇に残った感触と『可愛い』という言葉に混乱して、いつもみたいに反抗できない。たった今、婚約の破棄を告げた唇がどうして自分に触れ、どうしてそんな言葉を吐くのかシェリアには全くわからない。
「ど、どうしてこんなことするの。婚約は、破棄したんでしょう!?」
 ヨルゴスは真面目な顔で頷いた。
「だって、君はあの婚約がある限り好きだと言っても信じてくれなくて、僕が君を利用してると思うみたいだし。それに、確かにどさくさで申し訳ない気もしてたし……だから問題が全部解決してから、改めて誤解のないようにきちんと申し込むよ」
「申し込むって――」
 さすがに意味がわからないほど馬鹿じゃないけれど、信じられなくて。確認したくて見上げると、再び唇に柔らかい感触が落ちて来た。
 待ちきれないように深まる口づけにシェリアは一瞬体を固まらせたけれど、今度は勿体なくて噛み付いたりなどできなかった。
 彼が離れてシェリアはぼうっと目を開ける。熱を含んだ瞳にすぐ近くで真っ直ぐに見つめられて、堪らず再び目を伏せる。
「君は僕が近づくと怯えるよね。どうしたら君の震えが止まるかなってずっと考えてた」
 ほら、もう震えてない――彼はくすりと笑って、一層腕に力を込め、シェリアの耳元で囁いた。
「もっと早くこうすれば良かったんだ」
 日溜まりのように暖かい笑顔に、シェリアの灰色の目が再び涙に溶けた。

2013.10.18

 

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