君の棘までもが愛おしい

 

 翌日は見事な晴天に恵まれた。
 季節は晩夏。まだ熱風の吹き荒れるエラセドだが、この日はまるで今日の日を待っていたかのように秋めいた風が流れ込んでいる。重く暑苦しい衣装に辟易しかけていたシェリアも着飾った自分を喜べるくらいの余裕があった。
 慌ただしかったカルダーノへの旅で疲れはしていたものの、やはり礼装は気持ちがしゃんとする。たとえ、一人で壁の花になっていたとしても、だ。
 もしもヨルゴスとあのまま婚約をしていたならば、今日はいいお披露目の機会となっただろう。だが、彼は律儀に王妃に破棄を伝えたそうだ。
 婚約破棄には少しがっかりしたが、彼のくれる本物の約束を待つのも悪くない。今日はメイサの友人の一人という割合気楽な立場で――しかしそれにしてはやけに大げさな衣装を着ているが――披露宴を楽しんでいた。
 宮殿の大広間で行われていた宴もたけなわ が過ぎ、ジョイアを始め、外国からの賓客に囲まれていた主役二人の席付近もやっと人垣が薄くなり始めていた。
 メイサに祝福の言葉をかけたくてうずうずはしていたけれど、ある二人の人物がそれを阻んでいる。
「――今しか話は出来ないと思うよ」
 躊躇っているシェリアの背中に声をかけたのはヨルゴスだった。髪と同じ色の銀糸の刺繍が入った濃紺の衣装だ。シェリアは深紅のマントを翻し賓客の間を忙しく歩いている彼をずっと目で追っていた。美形は礼装すると破壊力が増す。その視界に自分だけしか入っていないと思うと、さらに。シェリアはすぐに緩みそうになる頬に力を入れる。
「でも、邪魔になるわ、きっと」
「君から聞いた話と実際の彼らは随分違うよ。……なんていうか、可愛い人達だと思ったけれど」
 ヨルゴスの目線の先の二人はこちらに背を向けて王太子夫妻と話し込んでいる。髪と同じ色の漆黒の衣装を纏った人物は、背の中程まである長い髪にも関わらず、もう男にしか見えない。ヨルゴスと同じくらいの背丈のせいなのだろうか。それともいつの間にかしっかりした体つきのせいなのか。
 隣に立つもう一人は淡い色の金髪を頭頂で華やかに纏めている。紗の入った淡い緑色の涼しげなドレスを身に纏う女。久々に見るが、相変わらず少女のような瑞々しい印象があった。宮に流れる噂のように、魔性で皇太子を誑かしたようにも、子供を三人産んだようにも見えない。
 未だ影で悪女と呼ばれているが、実際は違うのだというのは、メイサが好意を持っていることだけで十分分かる。だが、やはり長年の確執はそう簡単に溶けるものでもないらしい。まず、シェリアはスピカのことは噂話と、数回交わした会話でしか知らないのだ。
「見かけと違うのよ。皇太子殿下は見かけだけ・・は素晴らしいけれど腹の中では何を考えてるか分からない。何より妃に翻弄されて尻に敷かれてるのがだだ漏れだし、妃殿下は……ああ見えて頑固で図太くて厚かましいの。――今は猫をかぶってるのよ」
「ってことは、スピカ妃は誰かさん・・・・みたいなんだな」
 あいつの妹だし……つまりは同族嫌悪かな――と呟くヨルゴスにシェリアは「なんですって!?」と噛み付く。メイサにもそんなことを言われて激高した覚えがある。
「ぐだぐだ言っていないで、とにかく行くよ」
 少々強引に手を引かれ、シェリアは周りの賓客の目を気にする。ヨルゴスの纏う赤いマントは王宮内ではとても目立つのだ。
 主役の席は周囲より一段高い位置に据えられていた。辿り着くと、ジョイアからやって来た国賓二人――シリウス皇太子とその妃スピカがこちらを振り返った。
(……相変わらずですこと)
 王太子とメイサだけでも卒倒する者が出そうな迫力だったが、それに乗じるものがあった。一応耐性があったため倒れることは無かったが、しばらく溜息以外口から出て来なかった。
 皇太子の、女と見紛うような壮絶に美しい顔は変わっていない。変わったとすれば、その眼差しから色香と言う名の毒が薄らいだことだろうか。
 彼はおやと眉を上げ、にこりと笑顔で攻撃・・を仕掛けた。昔は不機嫌な顔で牽制をしてきたが、笑顔の方がよほど心臓に悪かった。どこかで武器になると学んだのかもしれない。
 一方スピカを見ると明らかな警戒の色を浮かべている。風が吹けば散りそうに儚い外見なのに、緑色の瞳は相変わらず苛烈な光をたたえている。皇太子のためならば戦いを厭わない顔。目だけは王太子によく似ている――そう思った。
「久しぶりだね」
 皇太子が口を開き、スピカが口元に笑みを浮かべる。シェリアも同じく笑みを浮かべて挨拶を返した。
「お久しぶりでございます。シリウス殿下、スピカ妃殿下ともにご機嫌麗しくお過ごしのようです。ジョイアの民として心よりお喜び申し上げますわ」
 定型文を読み上げただけの挨拶を口にすると、シェリアは話を切り上げようとする。三者の間には話題が無い。というよりも、シェリアには触れられたくない話題ばかりだったのだ。父母の犯した罪のこと、そして自身のやったスピカへの嫌がらせのこと。
 メイサが心配そうに見つめているのが分かったが、シェリアは気づかない振りをする。祝いの席だ。もめ事など起こしたくない。それは皇太子もスピカも同じだろうと思った。
 しかし、皇太子はなぜかシェリアを引き止めた。
「アウストラリスは住みやすいかな」
「ええ」
 不可解な顔をしていたと思う。皇太子はそれに気づいたのか、少し困った顔になる。
「実は、君がこちらに残っている理由を、聞きたいんだ。ルティ――いや、王太子殿下から、君のここでの地位は女官・・だと聞いた。それはジョイア貴族の娘としての遊学なのかな。それとも、なにか別の目的があってのことなのだろうか?」
「……」
 シェリアは思わずちらりとヨルゴスを見る。確かに王太子の妃候補として国から送り出された身。王太子の結婚の儀に出席していること自体が異色に映るのだと思い出す。
「長らくの不在で、母君が心配されているそうだ。故郷で良い縁談もあると聞いたし、ジョイアに帰るいい機会なのではないかと思うのだけれど、どうかな?」
 縁談――その言葉でシェリアは体を固くした。多額の借金は消えていない。母からその話が出るということは、金貸しからの圧力でもあったのか。シェリアが国外へ逃げて借金を踏み倒すつもりとでも思っているのかもしれない。
 今日だけは忘れようと思っていた問題が、次々と頭の中に湧いて来る。
 レサトの罪がどの程度の重さになるのかも分からないし、婚約を破棄したことでヨルゴスに累が及ぶかもしれない。そしてその場合、自身の身の振り方はどうするのか。すでにシェリアはヨルゴスが王子であろうが無かろうが関係なかったけれど、シェリアにも借金を抱えた家がある。ヨルゴスは問題が全て解決すればプロポーズをしてくれると言ったけれど、もし彼の方が良くとも、シェリアの方に受けるわけにいかない事情があった。
 顔を曇らせるシェリアの前で、皇太子がヨルゴスを見つめる。
「彼女の雇い主はヨルゴス殿下、あなただとお聞きしました」
「……その通りですよ」
 ヨルゴスは頷くと、なぜか王太子の方を見て肩を落とす。
 シェリアも釣られて目をやると、王太子は不機嫌な顔だったが、隣のメイサが酷く嬉しそうに微笑んでいる。なにかを待っているような顔だった。
 不可解に思いつつも、メイサと王太子、順に目が合って、祝いの言葉も言っていないことに気が付いたシェリアは口を開いた。
「本日は、おめでとうございます。今日は、いつもに増してすごく綺麗……」
 ようやく近くで見ることができた。体に添った美しく赤い衣装。布地は少ないはずなのだけれど、全く窮屈そうに見えない。均整のとれた体が咲き誇る花に埋もれているように見えた。一種の美術品だ。密かに心配していた淫猥さを感じさせるものは微塵も無く、それどころか神々しささえ感じた。見事に似合っている。
 隣の王太子も婚礼の衣装を身に付けている。一目見ればこの宴の主役と分かる、金糸で彩られた深い赤の衣装だった。髪の色がより鮮やかに見える。これも凄まじく似合っていた。
 ふと気が付くと五人の美形に一斉に見つめられていた。目がチカチカする。
(なに、このキラキラした人達)
 感動の場面になるはずだったのに、そんな場違いなことを考えていると、
「ありがとう、でもそれより――」
 メイサは自身のことなどどうでもいいのか、あっさりと話を元に戻した。
「私、今日、あなたが殿下の隣に立って現れると期待していたのに、違うのだもの。この際はっきりさせるいい機会だと思うのよ」
「全く何をやってるんだ。せっかく気を利かせて馬車まで用意して先に帰ったっていうのに、何もしてないって……二十六にもなって、どれだけ純情なんだ」
 隣で王太子がうんざりと前髪をかき上げ、シェリアはむっとする。どうして王太子はそんな風に決めつけるのだろうか。
(何もしてないわけじゃないわよ)
 帰りの馬車の中、ヨルゴスはシェリアに手を出した。あの激しさを思い出すとどうしても頬が染まってしまうので、すぐに心の奥底に仕舞い込んで蓋をする。
「だからどうした。お前と一緒にするな。僕は手順を踏んでいるだけだ」
 しかしヨルゴスは否定しない。珍しく真っ赤になって、王太子に悪態をつく。
「やせ我慢か? 先走って婚約しようとしたくせに何を今さら」
「…………うるさい」
 痛いところを突かれたのか、ヨルゴスはぐっと詰まった。王太子は追い討ちをかける。
「母上が目を光らせている。お前らが妨害するんじゃないかと。昨日になって婚約解消とか言い出すんだからな。馬鹿か。時と場合と相手を考えろ」
 次々に飛び出す暴言に、とうとうシェリアが爆竹のように爆ぜる。
「さっきから聞いてたら、何を言いたい放題…………! あのねぇ、殿下には殿下のお考えがあって……!」
「シェリア! 駄目だよ。皆が見てる」
 ヨルゴスに優しく諭され、周囲の目に気が付いてはっとする。これだけの人物が集って目を引かないわけが無い。気が付けば広間にいるほとんどの人間がこちらに注目していた。
 王太子はにやりと笑うと飄々と続ける。
「疑いはさっさと晴らしておいた方がいいんじゃないか? それに――さっさと纏まってもらわないと、ジョイアとの話が進まない」
 ふと見ると、皇太子もやけに期待した目でこちらを見ている。
「会談?」
 そんな予定があるのかとヨルゴスを見上げると、彼も不思議そうに王太子を見つめている。
「この面子を見ていたら話し合いたいことができた」
 王太子は周りを気にしたのか、目を細めて声をひそめる。とたん、気を利かせたのかどこからか音楽が流れ出し、広間の人間は主役たちから目を逸らして各々食事を再開したり、踊り始めたりした。
「ヨルゴス、それからシェリア。"金を稼ぐ"と言っていただろう? その点は俺たちも利害が一致する。この国の北部に富を運びたい。今ジョイアと少しずつ進めている政策で流れは作れている。だがシリウスこいつの郷オリオーヌから得られる水、食料だけではどうしても足りないものがある」
 傍にいた皇太子の頭を軽く小突きながら王太子はヨルゴスに挑むように言った。
 シェリアはすぐに思い当たる。オリオーヌにあってケーンにあるもの。それはプラキドゥス河――ミアー湖に流れ込む大きな河――だ。大河の対岸にはティフォン国がある。
「今の交易の拠点はオルバースだ。だがオルバースを始めジョイア南の沿岸部は未だ食えないじじいばかりが牛耳ってる。だから俺たちは今新しい交易の拠点が欲しいんだ。ケーンも巻き込みたい。――ヨルゴス。何のために俺が母上から庇ったと思ってる? のんびりしてないで早く王子としての仕事をしろ。俺の力になれ!」
 王太子の突きつけた命令が何を意味するのか、シェリアにはすぐに分かる。泣きそうになりながらメイサを見ると、彼女はニコニコしながら「ルティは――もちろん私もね、今から忙しくなるから、信頼出来る人に傍にいて欲しいのよ」と二人の背中を押すように付け加えた。
 もの言いたげな笑顔に囲まれる中、ヨルゴスだけが不満顔をしている。
「…………ああ、誤解されるような舞台を作ってくれるなよ。"政略結婚"しろって言ってるわけ? せっかく地道に落とそうと思ってたのに」
「いつになるか分からないものを待ってられるか。お前たちに必要なのは、あとはきっかけだけだろう」
 そこで皇太子も口を挟む。
「きっかけがなんであれ、結果は同じですよ。僕たちも一応政略結婚ですけど、一緒にいられれば理由は何でも良かったんです」
 彼がくすりと笑って「君もそうだろう?」と見つめると、スピカが瞬く間に頬を染める。
 ジョイア皇太子夫妻の年中行事に、一気に空気が甘ったるく変わる。疲れを感じたシェリアが深いため息をつくと、同時に王太子がげんなりとした息を吐いた。この件に関しての理解者は、もしかしたら王太子だけなのかもしれない。メイサは――とちらりと見ると、呆れたような顔はしているが、慣れているのかこのくらいでは動じていないようだった。
「噂には聞いていたけれど……うん、見てるだけでむず痒いな――特に皇太子殿下は」
 初めて見たのだろう。ヨルゴスも彼らのところ構わずの溺愛ぶりに驚きつつ、「まぁ、でも一理ある」と軽い調子で頷いた。
「でも、さすがに今度こそ二人きりで――――ルティリクス、メイサ。それから皇太子殿下、妃殿下。少しシェリアを借ります」
「早くしろよ」
「お前……今日くらい仕事のことを忘れろよ。そのうち捨てられるよ」
 ヨルゴスは仕返しとばかりに言い残すとシェリアの手を引いて広間から出た。


 *


 連れ出されたのは王の塔北側に隣接した小さな庭園だった。
 日陰になったその小さな緑地では涼風がそよいでいる。人影は無いが、どこか人の気配がするような気もして、シェリアは落ち着き無く辺りを見回した。
 強引に引かれた手は気温の高さも手伝って汗ばんでいる。渇いた風に晒そうと隙間を空けようとも、すぐにヨルゴスが隙間を埋めてしまう。嬉しくもあるけれど、恥ずかしくもあった。
 中央にある四阿あずまやに辿り着くと、ヨルゴスはシェリアに椅子を勧めた。自分も隣に腰掛け、しばらく黙って庭を眺めた。
 四阿の周りには花が植えられていて、蜂が咲き誇る花に群がっている。このように渇いた土地でもこうして丁寧に心を尽くして育てれば美しい花が咲くのだ。
(人も、同じかもしれないわね)
 穏やかな気持ちで、ひび割れていた自分の心に想いを馳せていると、ヨルゴスがようやく口を開いた。
「外堀を埋められる――ってこういうことなんだろうけど」
「ええ」
「ルティリクスにもだけれど、シリウス殿下にも嵌められたな」
「え?」
 そういえばヨルゴスがうんざりした顔をしたのは、皇太子がシェリアの家の事情を持ち出した時だったと思い出す。
「彼が言う良縁って、君を側妃にするって話じゃないのかな。ケーンを自由に通りたいって言うのならば、それが一番手っ取り早い。匂わせておいて、ルティリクスが餌を出した」
「まさか。見たでしょう、シリウス殿下のスピカ妃殿下をご覧になる目」
 鼻で笑うと、ヨルゴスはあっさり頷いた。
「まぁ、すぐに違うって分かったけれど、一応妃殿下に分からない程度には含むものはあったんじゃないかな。……彼でなくても、本当は君に縁談はいくらでもあるんだろう」
「あり得ない。私、十九だし、借金もある……それに」
 シェリアが首を振ると短くなった髪がほつれて肩に落ちる。以前ならこの程度で髪が崩れることも無かった。そう思うと少しだけ惨めな気分が湧いて来る。
 ヨルゴスは首を振った。
「さっきの話を聞いて思ったよ。ケーンから引き出せるものは君達一家が拵えた借金よりもっと大きい。それに気づき始めた人間がいる――皇太子殿下はそう言われたかったんじゃないかな」
「それもあり得ないわ」
 あの馬鹿皇子を過大評価し過ぎだと、シェリアはおかしくなる。思わず呆れると、ヨルゴスは肩をすくめる。
「君が『彼は腹が読めない』って言ったんじゃなかったかな? ま、ルティリクスと対等以上にやり合ってることを考えるだけでも、それは十分脅威に感じるけれどね。あの二人が手を取ったのならば……王妃以上に敵には回せないかな」
「そうかしら」
 ヨルゴスがそう言うからにはそうなのだろうか。なんだか納得いかない気分でシェリアは首を傾げた。
 というより、なぜヨルゴスは肝心な話を置いておいて、皇太子の話などしているのだろうか。
(もしかして、照れてるのかしら?)
 じっと見つめるシェリアに、含むものを感じたのかヨルゴスはコホンと咳をすると姿勢を正した。
「というわけで、間抜けにもまんまと嵌められたんだけど……君と一緒にいられる完璧な理由があることが正直に言うと僕は嬉しい」
 ヨルゴスはシェリアの手を取って、両手で包み込む。
「――ずっと傍にいて欲しい」
 真面目な顔だった。敵が王妃から皇太子と王太子に替わっただけなんじゃないかとは思ったけれど、形はどうあれ、真摯な言葉をもらってシェリアは満足して頷く。
「ま、してやられたのは悔しいけれど、しょうがないわよね。じゃあ……戻りましょう」
 話は終わった。ならば急いで戻らなければ、話し合わなければいけないことはたくさんありそうだ。シェリアは立ち上がりかけた。
 ――だが、ヨルゴスは座ったまま相変わらず真剣な目でシェリアを見つめている。
「それだけ?」
「え?」
「返事は?」
「へんじ?」
 今したじゃない……ときょとんとすると、ヨルゴスはもう一度繰り返した。
「プロポーズの返事だよ。僕は君の気持ちを一度も聞いていない」
「そんな、分かり切ったこと……」
 シェリアが渋ると、ヨルゴスはにこりと笑う。しかし――目が笑っていない。
「君さ。あの皇太子殿下にも自分から結婚を迫って、ルティリクスにも求婚して、なのに僕には『しょうがない』なわけ?」
 "例の顔"にすっと背筋が冷えて、慌てて言う。
「そ、そんなつもりじゃなくって――だって殿下は」
「ヨルゴスと呼んでくれ」
「え、でも」
「メイサもルティリクスをルティと呼んでるし、スピカ妃もシリウスと呼んでいると聞いた。僕だって名で呼ばれたい。第一ここに『殿下』が何人いると思ってる? 紛らわしい」
「よ、ヨルゴ、スは、そういうの望むように思えなくて、ええと」
 いや、違うだろう。シェリアが言うのが苦手なだけ。自覚して口ごもると、
「言い訳より他に言うことがあるんじゃないかな?」
「ごめん、なさい」
 すっと目が細められ、シェリアは冷や汗をかいた。どうも、シェリアはこの顔にだけは弱い。怖い。
「違うよ。分かっているだろう?」
「………………す、す――ええと、こんな無理に言わせて嬉しい?」
 しかしどうしても素直になれないシェリアに、ヨルゴスはやれやれと肩をすくめた。
「もちろん結構空しいよ。でもいつか心から言ってもらうつもりだからいい。あぁ、どうせなら、『あ』で始まる言葉の方が嬉しいけど」
 ウジウジしている間に要求が跳ね上がり、シェリアはぎょっとする。
「な、でも、殿下――いえ、ヨルゴスだってそこまでは言ってな――」
「僕は君を愛してる」
 速攻で返って来た言葉にさすがにシェリアは観念した。
「…………わ、私も、あ、愛してる……――こ、これでいいでしょ、――っ!?」
 直後シェリアはヨルゴスの腕に抱きしめられ、庭園には沈黙が落ちた。甘く見下ろされてシェリアは目を瞑る。頬に暖かい息づかいを感じ、胸が大きな音を立てる。
 しかし、突如としてガサガサと言う葉擦れの音に庭の静けさが破られる。
(風? 誰も居なかったわ、よね……?)
 薄目を開けて横目で確認しようとしたその時、シェリアの目に飛び込んで来たのは見事な赤髪をした、異常に可愛らしい子供だった。幼いのに正装をしているところを見ると、式に招待されたどこぞの貴族の子供か。
 垣根から飛び出した幼児は、目をまん丸にしてシェリアたちを指差した。
「あー、"ちゅう"だ!」
「!!!!」
「る、ルキアさまっ!!!!」
「ちゅー、してるね。シューマ。とうた、かあた、おんなじ、ね」
「た、大変失礼いたしまし――――あ、」
 垣根から続けて飛び出して来た女が青い顔をあげ、シェリアは見知った顔への遭遇に言葉を失う。相手の方も目を見開いて、シェリアの顔、そして髪――抱擁された際に解けてしまったのだ――を見つめている。
「シェリア……さま?」
 地味な顔立ちの女だったけれど、確かに見覚えがあった。確か、この女はスピカの傍付きの侍女でシュルマと言ったか。
(……ということは、この子供は……)
「シリウス殿下のお子の――ルキア皇子殿下でございますか?」
 シェリアに突き飛ばされて尻餅をついていたヨルゴスが、ちょうど目線のあった幼子に物腰柔らかに尋ねるが、幼子はキラキラした目でシェリアを見つめている。
「も、申し訳ありません。式の邪魔になってはと皇太子殿下と妃殿下からお預かりしておりましたが、退屈されて控え室を飛び出してしまわれまして――」
 シュルマが説明を始めるが、シェリアが気になるのは幼い皇子がヨルゴスを完全に無視してシェリアに見入っていることだった。
「あ、あの」
 なんなのこの子。戸惑って侍女を見つめると、
「……ルキア様は、あの、若い女性が大好きで、特に綺麗な方が……あ、もちろん母上さまが一番お好きなのですが」と言い難そうに答えた。
「なにそれ」
 思わずこぼすシェリアの隣で、ヨルゴスは微笑んだ。目の笑っていない"例の顔"でルキアに向かって丁寧に語りかけるのを見て、思わずぎょっとした。
「殿下――申し訳ありませんが、シェリアは私の婚約者なのです。渡すつもりはありません。ですから、目を付けられても無駄ですよ」
 ルキアはようやくヨルゴスに目をむけると、しぶしぶのように頷く。そうして興味を失ったとばかりに侍女の腕の中に飛び込んで「だっこ!」とせがんだ。確か、まだ二歳かそこらのはずなのに、まるで話を理解したかのような様子にシェリアは呆れる。そして、思わずジョイアの将来を案じてしまう。
(誰に似たのかしら……あれ。皇太子? スピカ? それとも……王太子?)
 恐縮しつつ退出する侍女の背が見えなくなると、シェリアはヨルゴスに胡乱な目を向けた。彼は小さな皇子よりももっと呆れる対象だったのだ。
「大人げないわね、子供相手に何を言っているの?」
「子供? でも大国ジョイアの皇位継承者だ。ああでも言っておかないと、君のことだから、金と権力に負けて心変わりしそうだろう」
 その言葉にシェリアは目を剥く。
「私って、……あなたに一体どういう風に見えてるわけ?」
 ヨルゴスは何を今さらと眉を上げるとさらりと言った。
「金と権力が大好きだと思ってるよ。だからこそ、君を手に入れるためには僕は王子でなければいけないし、金だって稼がなければいけない。君のためなら何でも手に入れられるように」
 言っていることに似合わず嬉しそうな顔に、シェリアは怯んだ。
「あの……それって、普通、全力で避けるべき女じゃない?」
 巷で魔性の女とか、傾国の女とか言われるような女性ではないだろうか。
「さあ? 僕は多分普通じゃないんだろう。まぁ、確かに、『あなたさえいてくれたらいい』とか可愛らしいことを言ってもらえたら、それは最高だと思うけれど、君が言うとあまりに似合わないしね。ああそうだ。君の髪も見つかったら買い戻すから」
 散々な言われように愕然としていたところ、視線を落として付け加えられた言葉にシェリアはさらに驚かされた。
「え?」
「気にしてるだろう。今日だって下ろしていなかった。せっかく綺麗な髪なのに」
 そう言うと、彼はほつれたシェリアの髪を完全に解き、指を通して愛しそうに撫でた。
(買い戻す?)
 優しい笑顔が急に気に障り始める。ついさっきまで最高に幸せだったはずなのに、これでは駄目だとシェリアは後悔し始めた。
 彼の指から髪を取り戻すと、シェリアはくるくると手早く纏め上げた。
「今日はドレスに合わせただけ。気になんかしてないわ。買い戻す必要なんて無い。前も言ったでしょ? もう私には必要ないの」
「でも……本当は切りたくなかったんだろう?」
 ヨルゴスはシェリアの気持ちを分かっていない。さっき言っていた『心から言ってもらう』――それはシェリアの言葉が届いていない証拠。
 彼が幸せをくれようとしているのは痛いほど分かる。だけど、彼女はそんな一方的なものが欲しいのではなかった。
「あれはね。途中までは正当な取引だったの。別に騙されて切ったわけでもなくて、カルダーノに早く着くために私は納得してたのよ」
「でも運賃で金貨一枚は不当だし。第一あの髪。あれは金貨五枚でも安いよ」
「少しでも早くあなたの家に辿り着ければ、別にいくらかかっても構わなかったわよ。金貨五枚? それ全額払ってもいいくらい」
 ヨルゴスは不可思議なものを見る目で見ている。
「なにか……宴で悪いものでも食べた? 金貨五枚って言ったら、結構な額だよ? 元々君が支払う必要の無い対価だし、もしも母への復讐のためだとしても多過ぎる」
 とたんシェリアの頭の血管がぶつりと切れる。
(ああ、もう、悔しい!)
 誤解されることには慣れていた。だけど、この誤解だけは我慢ならなかった。
 言うつもりも無かった本音がだだ漏れ始める。
「あなたのためなら全く惜しくなかったの。私、健気にも、もうジョイアにも帰れない――それどころかもう取り柄も無くなるし、誰にも嫁げないって覚悟を持って髪を切ったのよ? 戻って来たらあの時の私の想いが無駄になってしまうの! そっちの方がずっと貴重だし、勿体ないのよ!!」
「僕のため? メイサのためでも、母への復讐でもなく?」
「そうよ!」
 ヨルゴスが耳を疑っているのがシェリアには分かる。思わず自分で言ってしまったが、健気などという言葉が、自分に一番似合わない言葉だという自覚はある。が、――それにしても今しがた婚約した女に対して失礼すぎないか。下僕にでもなるつもりだったのだろうか。
(冗談じゃないわ)
 シェリアは足を開いてどっしりと構える。腰に左手を当てて、右手をゆっくり持ち上げる。
 そして、びしりとヨルゴスに人差し指を突きつけた。
「一度しか言わないわよ。よぉく聞いておいて。私、別にあなたが王子じゃなくたっていいわ。お金持ちじゃなくたっていい――『あなたさえいてくれればいい』のよ!」
 叫んだ瞬間、シェリアは再びヨルゴスの腕の中に痛いほどに抱きしめられていた。
 こみあげるものにぼろぼろと涙がこぼれていく。隠したいのに両腕が自由にならず、シェリアは俯いて隠そうとする。だが、ヨルゴスが彼女が俯くのを許さない。頬の涙をキスですくい、そのまま唇を塞いだ。
 角度を変えては深まる口づけの合間、息を継ぐ隙にシェリアはこぼす。
「私の方が、好きなんだから」
「そんなところまで負けず嫌いなのか? でも、そこは譲らないから」
「譲りなさいよ。負け犬、のくせに」
「もう負けないよ。――僕の方が、好きだ」
 いくつものキスの間、唇の上で囁かれる。
 遠くで「とうた、かあた、ちゅうだよ!」という叫び声、そして「しーっ」と諭す声、溜息や聞き慣れたクスクスという笑い声などが聞こえたけれど、今度はシェリアはヨルゴスを突き飛ばすことはしなかった。
 あまりにも幸せで――できなかったのだ。


《完》

2013.10.21


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