20 全部終わったら

 ひと駅で乗っただけなのに、街の雰囲気が大分変わっている。駅を出てもロータリーなどがなく、道は車が通れないほどに狭かった。ここはどこだろうと駅舎を振り返る。見ると大久保駅だった。
 はじめて降りる駅に戸惑いつつ細い道を歩く。飲み屋が立ち並ぶ街は、少しだけ福岡を思い出させる。けれど、人の多さが全く違う。じろじろと見られるのが嫌でうつむいて早歩きをした。スマホを取り出すと着信履歴が五件。すべて拓巳だった。怖くてたまらないけれど、とにかく広い道に出たくてわたしは地図アプリを立ち上げる。

「お姉さん、暇?」

 酔っぱらいの男の集団が声をかけてくる。助けて、と叫びだしたい気分で「いいえ」と首を振った。
 道を塞がれては敵わないと、わたしはなりふり構わず走りだす。地図を見ると、どうやら南口から出てしまったようだ。北口のほうは賑やかな大通りに面しているというのに。泣きたくなりながらも必死で走る。本当は駅に戻ればいいのかもしれないけれど、拓巳が追ってきている気がして、近づけない。すぐにでも駅から離れたい一心でわたしは逆方向へと走った。

 なんとか集団を撒いたわたしは、すでに汗だくだった。いい歳の女が息を荒げ、汗びっしょりでいるのは、さすがに目立つのか、不審そうな視線が突き刺さるのがわかる。わたしはとにかく一息つきたいのと隠れる場所がほしいので、入れそうな店を探した。
 最初に目に入った喫茶店にふらふらと入店すると、案内された椅子に沈み込んだ。
 震え続けていたスマホは、今はだんまりを決め込んでいる。電源を途中で切ったからだ。
 注文したコーヒーが運ばれてくる。震えながらそれを飲み干す。全く味がしない。ホットコーヒーなのに、体が全く温まらない。
 しばらく目をつぶる。自分で自分の手を握る。上原くんの温かさを思い出したかった。眼裏に浮かび上がるのは彼の顔。彼の面影に戦う力をもらいたかった。
 逃げてても、何も変わらないよね。
 わたしは大きく深呼吸をすると、震える手でスマホの電源を入れる。
 そして目を見開いた。
 拓巳と戦うために立ち上げたスマホの画面には、

『上原です。加奈子さん、今、どこにいる?』

 というメール通知が届いていたのだ。
 どうやってアドレスを知ったのだろうと考える。ルートは二つ。親が男性に簡単に番号を明かすわけがないし、美砂ちゃんには口止めした。となると、どちらかを説得したということになる。どちらも、信用を勝ち取るのは並大抵のことではないように思えた。
 それをやってのけたという意味を考えると、胸がぎゅっとなった。逸る心が通知をタップさせる。一人で戦うんでしょう! ともうひとりの自分が叫ぶけれど、心身ともに弱り切ったわたしは、すがらずにいられなかった。

『俺、東京に出てきてる。美砂ちゃんに全部聞いた。すぐに会いたい。どこにでも行くから』

 読んだとたんに、一気に力がみなぎってくるのがわかった。返事をしようとしかけて、手を止める。
 だめだ。わたし、まだ、拓巳と別れられてない。上原くんに迷惑かけてしまう。上原くんとは、まっさらな状態から始めたいと思って東京に戻ってきたというのに。
 ここで頼る訳にはいかない。やっぱり、一人で戦うしかない。たとえどんな犠牲を払っても。

『ごめんね、わたし、今は上原くんに会えない。全部終わったら、わたしから会いに行くから』

 それだけ返して、わたしは椅子から立ち上がる。
 すると、スマホが今度は着信を訴えた。
 出てはいけないとわたしは拒否をタップする。だけど、いくら拒絶しても上原くんは何度でも電話をかけてくる。諦めないと言われているようで、心が震える。涙を呑み込みながらわたしは必死で堪えた。


 *


 義妹に教えてもらった住所を頼りに、瑞生は加奈子のアパートへ向かっていた。
 仕事で東京に出てくることはあるが、こういった住宅街には全く縁がない。
 敷地内にびっしりと建てられた家屋を見ていると、息苦しさを感じた。電車の中でも、少し動けば隣の人間と普通に触れ合ってしまう。人を人と思わないようにしないと、ストレス過多で生きていけないだろう。長くいると感覚が麻痺するのも当然だ。五感が随分鈍ってしまっていた加奈子を思い出すと胸が痛んだ。
 アパートは古く、そして狭かった。ドアについていたチャイムを鳴らしてみるけれど、反応はない。裏手に回ってみると小さな川が流れている。川というより、用水路かと思うようなコンクリートで固められた水の流れだった。遊歩道からアパートを見上げるが、該当する部屋には明かりがついていない。時計を見ると二十一時だった。彼女はまだ職についていないはず。こんな時間に帰っていないというのは――不安が胸を蝕んだ。
 メールの『今は』『わたしから会いに行く』という言葉の意味するところがわからないほど鈍くはないつもりだった。
 彼女は、瑞生に頼らず、一人で現状を何とかするつもりなのだ。そして、身軽になってから、瑞生のところにやってくる――来てくれる。それはもう確信だった。
 喜びが弾けそうになる一方で、瑞生は彼女のその強さが怖いと思った。相手の男が逆上しないわけがない。もしその男の立場だったら――無理矢理にでも自分のもとに縫い止めようとするだろうと思えた。そういう男の執着をきっと彼女はわかっていない。
 スマホを取り出すと通話をタップする。これで何度目だろう。呼び出し音を一回、二回と数える度に焦燥が胸を焼いていく。
 呼び出し音はやがて留守電に切り替わる。直接話したい。そう願いながらも瑞生は彼女に語りかけた。

「加奈子さん。絶対に無茶はしないで欲しい。頼ってほしい。もし加奈子さんに何かあったら――」

 とその時、
 どんどんどん、とどこかで扉がけたたましい音で鳴るのが聞こえた。
 柵にもたれかかっていた瑞生は、身を起こすと足早にアパートの反対側へと回りこんだ。

「加奈子! 加奈子いるんだろう!? 出てこい。理由を説明しろよ!」

 外灯の下、青白い顔をした長身の男が、加奈子の部屋のドアを叩いている。ブランド物のスーツを着たイケメンだ。腕にはめられた時計が時折光を反射している。

(まさか、こいつが?)

 頭に血が上りかける。拳に力が入る。だが、よくよく考えると、殴られるのは自分のほうだと瑞生は思う。今の彼は間男でしかないのだ。黙って殴られて、それで済むのなら――そんな考えがよぎるが、迂闊に行動して取り返しのつかないことになってはいけないと思う。
 瑞生は歯を食いしばり、必死で自分を落ち着かせる。
 加奈子は、どうやらこの男との関係を精算しようとしている。万が一瑞生という存在が明るみに出れば、浮気をした彼女が一方的に悪者になってしまう。男は既に逆上しているようだし、火に油を注ぐようなものだと思った。
 悪いのは瑞生だ。頑なに拒む彼女を罠にかけたのは瑞生なのだ。
 彼女を傷つけずに、彼女を救いたいと瑞生は願う。そのためにはどうすればいいのか。瑞生はドアを叩き続ける男の背中を睨みながら必死で考えた。

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