黒い影

「いるの。私には分かるんだから」

 聞き慣れた、その愛しい声。

「気のせいだって」

 邪魔な、不細工な女が俺の愛しい人の前を陣取っている。
 おい、俺と替われよ。その場所は俺の場所だろ?

 広い広い部屋の中。ここに居着いてから随分経つ気がする。
 最初のきっかけは忘れもしない。あの出会いは運命だった。

 俺は記憶を探る。
 薄暗いアパートの廊下。俺は蛍光灯が青白く照らす彼女を見つけた。あまりに目映く、目が離せずにじっと見つめていた。そうしたら彼女がこちらを向き、一瞬だが目が合ったのだ。
 彼女は照れたのか、すぐに俺から視線をそらし、家の中に入ってしまった。
 俺は何も考えられなくなった。そして開かれた夏の窓から忍び込んだ。そうして、今ここにいる。

 甘いクッキーの香り。挽きたてのコーヒーの香り。それらが俺の鼻孔をくすぐる。
 女がボリボリと音を立ててクッキーをむさぼる。その口元から欠片が落ちる。ああ、見てられない。
 俺は醜いものを見たくてここにいる訳じゃない。

「ずっと視線を感じるの。絶対いる」
「何処にいるって言うのよ」
「近くよ、すごく近いところ」

 彼女は俺の視線を感じてくれてるのか。
 俺はほくそ笑んだ。
 出会いの瞬間から抱えている密やかな想い。いつか伝えたい、伝えてみせる、とこうやって毎日見つめている。

「嫌なこと言うわね。気持ち悪くなっちゃったじゃない」

 気持ち悪いのはお前の顔だ。俺の視界に入るんじゃねえ!
 口直しに愛しの彼女の顔を見つめる。
 その卵形の輪郭。白い肌。つややかな長い黒髪。黒めがちの大きな瞳、長い睫毛。すっと伸びた鼻梁。滑らかな唇。すべてが愛しい。
 胸が締め付けられ、大きく息をつく。気分が幾分ましになる。

 やがて彼女たちは出かけて行き、俺はこっそりと日の当たる場所へと這い出した。
 窮屈なのももう慣れた。
 ベッドと床の隙間。この場所が一番彼女を良く観察できる。多少埃っぽいのが玉に傷だが、まさかこんなところに潜んでいるとは思いもしないだろう。

 俺は彼女が残したコーヒーに近寄ると、そのカップの縁を舐める。そこには口紅の痕が少しだけ残っていた。舐めとるようにそこに口づけた。胸の中がジンと熱くなる。
 そして、冷たくなったコーヒーを少しだけ飲み込んだ。普段飲まないだけに刺激が強いが、彼女の唾液が混じったそれを見逃す事は出来なかった。
 一口で頭がクラクラした。常夏の味だ。台所でパッケージを見ると、案の定、ヤシの実の絵が入ったシールが貼付けてある。

 洗面所まで行くと、彼女が触れるタオル、歯ブラシ、石けん、くし、ドライヤー。すべてに触れる。特に歯ブラシは毛先一本一本を念入りに口に含む。ミントの香りに、甘い味が混じり胸が躍った。
 それから洗面所の隅にぽつんと置いてある、タンスの中の下着にも手をかけた。
 その中に顔を埋めると、なんだかいい匂いがして、堪らない気持ちになる。
 残念ながら洗濯していないものは置いていない。彼女は几帳面で、洗いものが出るとすぐに洗濯してしまうのだ。
 今日のように飲み残しのコーヒーなど、滅多にお目にかかれない。
 その点は、強引に彼女を外に連れ出したあの不細工に感謝するべきだろう。

 いろいろ堪能していると、にわかに外から足音が響く。
 ――帰って来たのか。
 俺はそそくさと元居た住処へと戻る。

 さて、今日の夕食は何だろうか。
 ゴミ箱の食べ残しをいただくのも良いが、彼女が見ていない間に、それらをつまみ食いするのもまたオツだった。そのスリルが堪らない。

「ほら、これで安心でしょ」
 不細工女も一緒だった。ぽんぽんとあやすように夕刊を手に持っている。
「ありがと、そうね、もっと早くそうすれば良かったのよね。でも知らなかったのよ、こんなのがあるなんて。このアパートじゃ使えないって思い込んでたわ」
「これだから、ずっと実家に居た人は」
「いつもは母がやってくれてたの」

 なんだか嫌な予感がした。
 全身から油がぬるぬると湧きだしてくる気がする。
 逃げないといけない気がした。
 しかし、今飛び出せば……あの不細工女にやられる。きっと。今気がついたが、あいつは、かなりの仕事人だ。夕刊を持つ手つきも、目つきも彼女とは違い鋭い。

 俺は追いつめられていた。
 あの女がやって来た時点で何かを察するべきだったのか。
 もう、……手遅れなのか。俺の想いは伝える前に消え去るのか。

 彼女は薬局の袋を手に持っていた。
 そこに白い手を差し入れると、赤い缶を取り出す。
 缶のパッケージには俺に似たヤツが描かれていた。
 ぴりぴりとそのパッケージの封を破る音がする。
 女がコップに水を汲む。
 彼女が部屋の中心に缶を置く。そして女がそれに水を――

 シュ

 モクモクと白い煙が上がった。
 煙が全身を包み込み、息が急激に苦しくなる。肌全体に膜が張った様で、呼吸が全く出来なかった。
 彼女と女は部屋の外へと出る。
 逃げ場を探す。
 混乱して頭が働かない。
 ――もう駄目だ。そう本能で悟った。
 こんなことなら……もっと早くその肌を拝んで、想いを果たしておけば良かった。

 せめて――
 力を振り絞って先ほど潜っていたタンスに忍び込む。

 この香り、死んでも忘れたくない。

 ここで死ぬことで、俺の想いが少しでも伝われば。
 そう思いながら、俺は静かに目を閉じた。

お読みいただきありがとうございました。ええと、歯ブラシや食器は使う前によく洗いましょう。作者にとってはヤツの存在がホラーです。

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