外では蝉が鳴いている。
 あたしは座敷の畳の上に仰向けに転がって庭を眺めていた。畳はひんやりとしていて、頬をくっつけるととても気持ちよかった。
 庭の雑草が夏の花の間から覗く。この間、お母さんがせっせと抜いていたと言うのに、一雨来たあとには、また元通り。すごい生命力だ。
 強い日差しを遮るようにベランダには洗濯物が干されている。バスタオルが微かな風にも形を変えないくらいにぱりぱりに乾いていた。
 そのタオルに一匹蝉がくっついている。蝉のくせにそいつは黙ってる。ほら、鳴きなよ。もう残り少ない命なんだから。
 そんな風に思ってみたりするけれど、あたしは、実のところ虫が嫌いだ。
 とくに、幼虫とか、柔らかい虫が嫌い。踏んだらべちゃって潰れて、本体と違う色の汁が出て、原型が分からないくらいに変形してしまう。グロテスクでとっても嫌い。

 でも、いつから嫌いになったのかな。
 小さい頃は蝉やカブトムシ、クワガタに、バッタにとんぼ、ちょうちょに蟻。『ご』のつくもともと大嫌いな虫や毛虫以外は平気で触っていた気がする。

 あたしは記憶を探る。どこか重苦しい扉を開けて、出てくるのを嫌がる記憶を引きずり出す。
 そうだ、あれは、小学生の頃。
 クラスでアゲハチョウとモンシロチョウの幼虫を飼った時の事。
 その頃までは、なんとなく気持ち悪いな、くらいにしか思っていなかったけれど、『あの事件』のあと、あたしは強烈に虫が嫌いになったのだ。

 プラスチックの透明なケースの中に、アオムシが数匹居た。成長日記をつけるために、連れて来られた彼ら。あたし達はそれらをじっくり観察した。
 モンシロチョウの幼虫はただのっぺりとした緑色をしていた。あたしの親指くらいのそれは、成虫よりも随分大きかった。
 アゲハチョウの幼虫は側面にアゲハチョウ独特のあの丸くて黄色い模様が小さく入っていた。モンシロチョウの幼虫より歪な形をしていて、割り箸なんかでつつくと、赤くて臭い角を出して威嚇して来た。その臭いったら。友達がふざけて触って、しばらく臭いがとれなくって大変だった。
 アオムシ達はケースの中を自由に這い回って、緑色のメッシュの蓋の部分にも張り付いたりしていた。よく落ちないものだと感心したり、いたずら心を出して、ちょっとそのお腹をつついてみたり。
 気持ち悪いなりに、あたしは、彼らが蝶になるのを楽しみに待っていた。

 でも、ある日を境に、アオムシ達はぴくりとも動かなくなってしまった。
 先生に聞いたら、先生は「蜂に卵を産みつけられちゃったみたいだ」と悲しそうに言った。意味が分からずにさらに聞くと、先生は、蜂の幼虫がアオムシのお腹の中で彼らを栄養源に育つというような事を教えてくれた。

 その晩夢を見た。
 アオムシ達のお腹で蜂達が産まれて、徐々にその体を喰い、そしてついにはその皮を突き破って羽ばたきだす夢。アオムシは人のような声で悲鳴を上げ、助けを呼ぶ。あまりにリアルで、あたしはその晩久しぶりに夢の中で泣いた。その世界から抜け出したくて、夢を割くようにして飛び起きた。怖くて眠れなくて、残りの夜はお母さんと一緒に寝た。
 次の日学校に行くと、アオムシ達は処分されていた。ケースも見当たらず、何事も無かったかのように教室の後ろの棚は空になっていた。アオムシ達は羽化する事無く、何のために飼われたのかも分からないまま、居なくなってしまった。

 ……ああ、やっぱりそれが原因なのかも。
 あたしは思い出して、気分が悪くなる。いくら原因が分かろうと、嫌いなものを好きには変えられないみたいだった。
 うつ伏せになると、べっとりと畳に張り付く。畳は随分温くなってしまっていた。
 しばらく鬱々とそうしていたけれど、ふと顔をあげる。目の前には相変わらずタオルと一匹の蝉。

 ……蝉くらいなら多分平気よね。
 何を思ったのか自分でもよく分からない。
 その小さなトラウマを消し去りたかったのかもしれない。

 あたしは立ち上がった。そしてカラカラと音を立てて窓を開けると、ぱりぱりのバスタオルに近づく。
 ほうら、きっと大丈夫なはず。

 あたしは蝉に手を伸ばした。

 ぐにゃり

 なぜか蝉は柔らかかった。
 一瞬で真っ白になる視界の中、手のひらくらいの大きさの茶色い『蛾』が、ぶわり、と空に羽ばたいた。

お読みいただきありがとうございました。

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