11 僕を選んでくれるなら

「結構、深刻な事情だったわよね」

 蜜蝋に灯した火が揺れる。いつの間にか雨が降っているらしい。グラオザムでは恵みの雨なのかもしれないが、窓の外の闇はひどく重たく、気分が鬱々とした。沈んだ声でビアンカはエリアスに話しかける。

「ああ。面倒だ」

 窓際にいた彼は、ビアンカの声に振り返った。その髪の色も目の色も、闇に染まって深みを増している。

「面倒とか言わないの。力になってあげるべきよ」
「力になる? 巻き込まれて迷惑してるのに、自分から関わる気? お人好しにもほどがある」

 巻き込まれた――そうエリアスは言うが、城を眠らせた人間はどう考えてもアーマイゼの人間だ。となると被害者の顔はできない。グラオザムとヴェシャイランの問題に、アーマイゼは確実に絡んでいる。そしておそらくその中心にいるのは……。

「ジルはどこにいるのかしら」
「ジルは……」
「生きているかしら」

 エリアスに言わせずに自ら発言すると、胸が抉られたような痛みを持った。
 胸が傷んだことで、ビアンカは心の底からホッとしていた。
 もしジルがいなかったら、エリアスはビアンカのものになるかもしれない――そんな背徳的な喜びの方が大きかったら、ビアンカは自分が許せないだろう。

 ビアンカはずっとジルの生死について考え続けていた。城が眠りから覚めた理由は、魔法の鍵を探しあげて解除するか、それか、魔法をかけた人間が死ぬかだからだ。

「生きているに決まってる」

 エリアスは非難を込めた口調で言う。ビアンカは首を横に振って小さく笑った。

「生きている可能性は高いわ。だって、わたしがこの姿のままってことは、魔法をかけた人間は生きてるってことだから」

 ビアンカはそこで大きく深呼吸をした。

「……ずっと、そうじゃないって思いこもうとしていたけれど、もう無理ね。城を眠らせたのは、わたしじゃない。わたしはそんな事願わないし、実際、今、魔法をかけていない。つまり、魔法をかけたのはジルしか居ないの。代々の女王に隠し子がいたとか、そういう特殊な事情でもない限りは」

 母様に限っては考えられないけれど。付け加えると、

「そうだろうな。光の騎士も僕しか残っていないってことは、そういう事だと思う」

 苦々しげにエリアスは言う。
 光の騎士は、普通、王家の姫と対になって生まれる。そして姫の傍で彼女を守り続ける、一蓮托生の存在だ。母にも騎士がいたが、母が亡くなると同時に、騎士は力を失った。もし他に女王の血を引く姫がいるのならば、同時に力を持つ騎士が残っているはずなのだ。
 なにより、王家がルキアルの加護を蔑ろにすれば、王家の権威は衰える。だからこそ血統はしっかり管理されているはず。

「だけどね、わたし、ジルがどうしてこんな事をしたのか、わからないの」
「ビアンカがジルの事でわからないと言うなんて、珍しいな」

 ビアンカは息を吐くと、服の中に仕舞っていた首飾りを取り出してじっと見つめた。真珠の連なった輪に、夕焼けを閉じ込めたような石が付いている。ジルと交換した宿命の石フェタリテート
 本当は双子の妹の魂胆はもうわかっていた。ただ、エリアスには言いたくなかった。妹の陰口を言う自分を想像すると死にたくなる。そのときの自分はどれだけ醜い顔をしているだろう。

(そんなことあるわけない。だってエリアスもわたしと一緒に眠っていた。完全に奪うつもりなら彼は眠らせなかったはず。だから違うに決まってる)

 嫌な想像を振り切ろうと、ビアンカは就寝の準備を始める。
 部屋の暖炉の火で温めていたミルクを口に含むと、ほのかな甘さが睡魔を誘った。
 ビアンカはベッドに潜り込む。柔らかい枕に顔を伏せる。

(ああ、お日様の匂い。気持ちいい。さっさと寝て、また明日…………ん?)

 ふと違和感を感じて頭を勢いよく持ち上げた。ベッドに入った彼女を見ても、エリアスが退出しようとしないのだ。

「な、なんでまだここにいるの。隣にあなたの分も部屋を借りているでしょ」

 落ち着かなくて胸に毛布を抱きしめつつ尋ねると、エリアスはなんでもない事のように言った。

「今夜はここにいる。シリルが同じ屋根の下にいるのなら、ビアンカを一人にするのは危険だ。あいつは変態だし、それに、妙な従者と同室とか冗談じゃない」

 エリアスはぶつぶつ言いながら上着を脱ぎ、寝台の端に腰掛け、ブーツを脱ごうとしている。自分が小さいからだろうか。薄い衣に包まれた伸びやかな肢体が妙に大きく見えて、ビアンカは思わず壁際に逃げる。

「エリアス」
「なに?」
「ええとね、見た目のせいで忘れてるかもしれないけれど、一応わたし十七なのよ? 妙齢の男女が一緒の部屋で寝るのはいろいろ問題があると思うの」
「今は十二にしか見えない。何の心配をしてるのか知らないけど、無用だよ」
「で、でも……ベッドが一つしか無いわ」
「床に寝るつもりだから」
「でも」

 渋るビアンカに、エリアスは大きくため息を吐く。

「ビアンカ。僕はあの男と違って幼女には興味ない。だから我が儘言うな」

 ばっさりと切り捨てられ、真面目に諭されて、ビアンカは思わず混乱する。一聴する限りもっともな苦情だと思ったが、これは我が儘なのだろうか。むしろオスカーと一緒が嫌と言う彼の方がよっぽどだろう。
 ムカムカと腹を立てたビアンカは反撃を開始した。

「わかった。でも床で寝るのは駄目。ベッドで寝て。ここ、底冷えするわ。風邪を引かれたらいざという時に困るもの」

 そう言うとエリアスは僅かに怯む。

「でも、狭い」
「私が子供・・だから、十分広いわよ」

 興味ないんでしょう? と睨む。
 それでもエリアスは岩のように動かない。
 とそのとき、鼠が床を走り抜け、エリアスが眉を寄せた。

「鼠に鼻を齧られてもいいの?」

 ビアンカが笑いを噛み締めながらだめ押しをすると、エリアスは上着を脱いで、渋々ベッドの端に潜り込む。
 胸元に隠していた短剣を枕元に置くのは、幼い頃からの彼の習性だ。それこそ二人が十くらいのときは、ジルと三人で、まるで姉弟のように眠っていた。

「なんだか、懐かしいわね」

 狭い寝台の中に潜り込むエリアスの手が、ビアンカの手に触れた。彼は熱い湯でも触れたかのように手を跳ねさせると、身じろぎして、ビアンカに背を向けた。

「そんなに離れると落ちるわよ」

 なんだからしくなくて笑うと、エリアスはびっくりするようなことを言った。

「万が一、間違えたら困るから」
「なにを間違うの」

 まさか、ジルとだろうか。あのあと寝所を共にしたのだと思い当たったとたん、ビアンカは頭に血が上るのがわかった。

「ねえ、まさか、ジルともうそこまで進んでるの!?」

 エリアスは凄まじく長い溜息をついた後、投げやりに答えた。

「馬鹿馬鹿しい。ビアンカには関係ないだろ。お子様はさっさと寝ろよ」

 その話はしたくないとでも言うような態度。はぐらかされた――そう思ったビアンカは、口を挟むまいと決めていたこともすっかり忘れ去っていた。

「そんなの――ひどい」

 ビアンカがこぼすのと同時に、エリアスの纏う雰囲気が急激に尖った。

「ひどい? ひどいのはどっちだよ。君はシリルと婚約しておいて、僕は恋の一つも出来ないって?」

 大きな背中が怒っているのを見て取ると、ビアンカはびくりと震えた。

「でも、口約束だもの。断るつもりだし、シリルだって本気じゃないわ」
「断っても、君は裁定者の姫だ。いずれ結婚相手を見つけなければならないだろ。昔から決まっていた事じゃないか」

 背を向けられたまま、責めるように言われる。彼がここまで怒るのははじめてかもしれなかった。彼がついに離れて行くかもと思ったとたん、恐怖がビアンカの全身を覆った。

「しょうがないじゃない。わたしは大陸の平穏のために婿をとらならなければならない。母様に命がけで使命を託されたんだもの」
「それがわかってるなら、僕を傍に置こうとするな。僕を解放しろよ」

 エリアスはひどく苦しそうだった。もう君の傍には居たくない――心からの叫びが聞こえた気がした。 
 ビアンカは怯えながら尋ねる。

「エリアスはわたしが嫌いなの?」

 エリアスは答えない。

「やっぱり、ジルが裁定者だったらと思ってる? あの子の騎士になりたかったと思ってるの?」

 しばし沈黙が落ちた。
 エリアスは怒りを鎮めたかに見えた。だが、違った。彼は静かに、でもしっかりと怒っていた。
 やがて彼はビアンカの問いに答える代わりに言った。

「心配しなくても、僕は、一生君のものだ。……一生、君の下僕であり続けるし、それ以外の生き方は許されない」
「どうしてそんなことを言うの」

 卑屈な響きに、泣きそうになりながら、ビアンカは背中を見つめる。

「ビアンカから言いだしたんじゃないか。ひどいって。だからひどいのは君だって言ってる。君は昔言っただろ。『わたしは光周四国の王子様の誰かと結婚するの』そして『エリアスもずっとわたしの傍に居て』って。どれだけ欲張りなんだよ」

 確かに言った。だけど、そう言った時にはビアンカは幼過ぎて、欲張りだとは思わなかった。単に一生二人の関係が変わらずに続いて行くと信じていたのだ。
 裁定者は世界のバランスを取るという定めからは逃れられない。他国から婿を取らなければならない。そこまでは納得していたし、父が持ち出した縁談も裁定者の義務として呑むつもりだった。

 だけど――結果として、ビアンカは何もわかっていなかった。
 あれは十三歳の誕生日の事だ。父が持ってきた縁談をビアンカが吟味していると、父は続けて言い出したのだ。

『ビアンカが結婚するとなると、エリアスにも嫁を探さないといかんな』
『え?』

 ビアンカは父の言葉に耳を疑った。そして一緒に話を聞いていたジルが『じゃあ、わたしがなる! そうしたらずっと三人一緒で居られるじゃない?』と無邪気に手を挙げ、ビアンカの衝撃に追い討ちをかけた。
 聞けば、代々の習わしでは、姫の騎士は姫の結婚に際して、別の人間と家庭を持つそうで、母も母の騎士も例に倣った。
 一番近しい異性がある日突然、別の人間のものとなってしまうことを、幼いビアンカはとても納得できなかった。

(エリアスは、わたしのもの。誰にも、ジルにだって、いえ、ジルだからこそ渡せない)

 今までどれだけのものを妹に取られたかなど、もう数えきれなかった。空色のワンピースと靴。運命の石シックザールの首飾り。姉だからとずっと我慢してきたけれど――

(これ以上は、渡せない。エリアスだけは渡したくない!)

 取り乱したビアンカは、エリアスに縋り付いた。

『そんなの嫌。エリアス。ずっと、一生わたしの傍に居てくれるんでしょう? わたしだけのために生きてくれるのでしょう!?』

 ビアンカが起こした拒絶反応は、彼に対しての独占欲からのものだった。
 それが恋だと知ったのはもう少しあとだが、その時、エリアスは冷たくビアンカを突き放した。

『君は、どうしてそんな残酷なことを言えるんだ? 僕はそんなの嫌だよ』

 皆の前でビアンカは盛大に振られ、恥をかかされた。裏切りとも感じたビアンカは、周囲の諫言にも耳をかさず、怒りにまかせて命じた。

『だめよ。あなたは一生わたしの傍に居なさい。わたしを守りなさい。離れるなんて許さない』
『それは裁定者の姫としての命令?』

 ビアンカは顎を上げ、頭一つ背の高い彼に迫力負けしまいと居丈高に振る舞った。

『そうよ』

 昏い目をした彼は、黙って頷いた。


 母が死んだ時に歪み始めた三角形は、もう衝撃に耐えることができなくなり、砕け散った。
 ビアンカはエリアスの支配者になり、下僕となった彼はビアンカの前で笑わなくなった。
 ジルはビアンカのやり方を非難し、幼い宣言どおり、エリアスを手に入れようと画策し始めた。
 ビアンカとジルは互いの間にある溝を埋めるのを放棄し、自分の権利を主張し、譲ることを忘れ、戦い始めてしまったのだ。

(昔に、ああなる前に戻りたい。皆で一緒に笑っていたいのに)

 思い出すと、今にも弱音が漏れそうだった。
 必死で押し込めていたものが、胸の底から次から次へ溢れてくる。もしかしたら、最初にこうやって泣いた時に戻ってしまったのかもしれない。かんしゃくを起こして、感情を押し込めていた箱の蓋が壊れたようになっていた。
 鼻がつんとして、目に涙が浮かぶ。それが悔しくてよけいにぼろぼろと涙が溢れた。
 悔し紛れにエリアスの背中にしがみつき、シャツで顔を拭くと、彼は飛び上がるようにして振り返り、ビアンカの泣き顔を見てぎょっとする。

「なんで泣くんだ」
「だって、エリアスが酷いこと言うから」
「泣くなよ。君らしくない。僕を『一生傍に居なさい』って命令で縛って傲慢に笑ってみせるのが君だろう」

 好きな人からのあんまりな評価にビアンカは打ち拉がれる。そうならねば失恋から立ち直れなかったなど、この朴念仁は考えもしないのだろう。

「わたしらしいって何。わたしは泣く事もできないの。わたしだって普通の女の子みたいに泣きたい時くらいある」

 ぐちゃぐちゃの顔で訴える。今度は胸にしがみつくと、エリアスはひどく動揺した。

「悪かった。でも、君が自分で言っている事だろ。『裁定者は弱みを見せちゃいけない』って。『世界の終わりに繋がる』って」

「そんなの、言い聞かせていただけに決まってるじゃない。そうじゃないと強くなんてなれない」

 気を抜けば普通の少女に戻ってしまう。強くなるためのまじないだ。

「止まらない。悔しい。きっと幼女の呪いのせい。本物の子供みたい」

 きっとこんな風に涙が出るのはそのせいだ。
 エリアスはしばし黙っていたが、やがて真剣な声色でビアンカに囁いた。

「ビアンカ。じゃあ僕と逃げる? 世界なんか知った事じゃないし、元々君一人が世界を背負うなんて馬鹿げてる。君がそう決めるのなら……僕を選んでくれるなら、僕は地の果てまで付いて行く。約束するよ」

 飴のように甘い言葉に、ビアンカの涙は瞬く間に止まった。だがそれも一瞬の事。その言葉に含まれた意味に気づいたのだ。
 彼はビアンカを残酷だと言うけれど、人の事は言えないくらいに残酷な選択を迫ると思った。
 世界とエリアス。どちらかを選べと。

「酷い。ずるいわ。エリアス。わたしができないってわかっててそう言うのね」
「僕は、酷いし、ずるいよ」

 エリアスはビアンカをじっと見つめた。黒い瞳がビアンカの迷いを見透かすようだった。

「エリアスと逃げたい。だけど、やっぱりできない。逃げたって後悔するだけよ。わたしは、わたしを裁定者に相応しいと選んでくれた母様を裏切れない。母様の遺志を無駄にはできない。それに均衡の崩れた世界で、自分だけが幸せになれるなんて思えない」

 エリアスは闇に溶けそうな瞳で、ビアンカをじっと見つめ続けていたが、やがて何かを諦めるように深く息を吐いた。

「君はそう言うと思ってた。それでこそ僕の好きな・・・・・ビアンカだ」
「…………ずるい。そんなこと言われても、わたし、全然嬉しくない」

 やっと欲しかった言葉をもらったはずなのに。恋を選ぶような女は嫌いだと暗に言わたようで、酷い男だと改めて思う。ビアンカが再び涙をこぼすと、エリアスが腹をくくったように言った。

「泣けばいいよ。僕の前でなら、好きなだけ。君は外では泣き顔なんて見せられないんだから」
「ええ。泣くわ。いっぱい泣いて、また明日になったら元のビアンカに戻るわよ」

 ビアンカがそう言って、勢い良く彼の胸に顔を埋めると、エリアスはビアンカの背をそっと撫でる。まるで赤子をあやすような手つき。色気のない、ただただ愛おしむような手つき。それが嬉しくて、とても哀しい。

(眠ったら、いつもの自分に戻るわよ。裁定者の姫に戻る。戻りたくないけど、戻るしかないの……戻れなかったらどうしよう)

 自分に言い聞かせているうちに睡魔がビアンカを襲い、彼女は暖かい眠りに落ちて行く。
 夢の中では、エリアスがビアンカに微笑んでいる。あまりにも幸せで心地よくて、このまま眠り続けて目覚めなければいいのにと思えた。
 そんな彼女にはエリアスの押し殺したようなため息と、小さな呟きは耳に届かない。

「君が、子供の姿で、ほんとうによかった」