14 グラディナスの楽園

 ビアンカは目の前に広がった光景に見とれた。僅かな光が注ぎ、天上から落ちる滝が光の柱となって輝いている。辺り一面に生したふわふわの絨毯のような苔の上では、霧を呑み込んで膨らんだ水滴が、宝玉の山を作り上げていく。

「ここ……グラディナスの楽園?」

 ビアンカは思わず呟いた。天に浮かぶ神の国には、そういった場所があると神話では言われている。

「やあ、驚いた」

 めまぐるしい環境の変化について行けず呆然としていた一行が、聞き慣れない声に顔を向けると、奥の椅子には壮年の男が一人座っていた。やせこけて、古い意匠の服を着ているため老人にも見えた。だが、面影にひどい既視感を感じたビアンカは目をしばたたかせた。

「壁の向こうが騒がしいと思ったら、お客さんだったか。人に会うのは何年ぶりだろうね」

 穏やかに言うと、男は立ち尽くすビアンカたちに古ぼけた椅子を勧めた。
 椅子? この洞穴と椅子が結びつかず、ビアンカは混乱しつつ、尋ねる。

「あなたは、どなたなのですか」

 尋ねずにはいられなかった。固まったまま口を開けずににいるシリルの代わりに問わねばならぬと思ったのだ。

「さあ。永らく呼んでくれる人がいなかったからね。忘れてしまったよ」

「あなたは……」

 シリルが掠れた声で問う。

「ベンジャミン=ハルトムート=グラオザム、でしょう」

 男は眉をぴくりと上げた。

「どこかで聞いたことのある名だね」
「あなたの名だ――父上」

 ベンジャミン、と呼ばれた男は、一瞬顔を強ばらせたが、すぐに首を横に振る。

「何かの間違いだろう。私には息子などいないよ」
「あなたが失踪したときに、母の――あなたの妻のお腹に俺は居たんです」
「私には妻などいない」
「ツェツィーリエ=エーベルヴァイン=ヴェシャイラン・・・・・・・。聞き覚えはあるでしょう」

 思い出させてやるとでも言うように、シリルはあえて水国での名を叫んだ。怒りを含んだシリルの問いかけに、男は顔を強ばらせた。
 それでも頑に首を横に振る男を見て、シリルがいきり立つ。

「……覚えてないのかよ! 母上は、死ぬ直前まで、あんたを待ち続けてた!!」
「ツェツィーリエ……懐かしい名だ。一瞬たりとも忘れた事など無い。だが……妻などと、もう呼べるはずが無い」
「どうして」

 男は口を噤み、しばし沈黙が広がる。滝から落ちる水音だけが響き渡り、細かい飛沫がビアンカたちを霧雨のように濡らしていた。
 ビアンカの銀の前髪から雫が滴る頃、やがて、男は口を開いた。

「今は何年なんだろう。一応数えていたけれど、日光が差さない日もあったり、数えるのが億劫だった事もあったから、正確に知りたい」

 男の視線の先には石の壁。そこには幾重にも彫り刻まれた線があった。シリルが投げやりに答える。

「帝国暦二十年……いや、神暦で言うと2735年ですよ」

「じゃあ、あれはもう二十五年前の事になるのか。あの頃はまだ、都に花が舞い続けていたと思う。ヴェシャイランの水色の花が。水しぶきのようで、見ているだけで、渇いた心が潤って行くようだった。だが、それはつかの間の平和だったようだな」

 小さな声には、何か覚悟のようなものが滲み出ていた。
 じっと見つめる三人の前で、男はとうとう名乗った。

「あの日、私――ベンジャミンの兄であり、当時の王太子マティアスがアーマイゼの裁定者の姫君に求婚するまでの夢物語だ」
「ビアンカね?」

 ビアンカの正体には気づかない様子で、ベンジャミンはそうだと頷いた。

「ビアンカ王女は公明正大な方でね。当時力をつけはじめていたグラオザムからの縁談には絶対頷かなかったんだ。だけど兄は諦めなかった。あの人はグラオザムとヴェシャイランの統合が大陸を良くすると信じて疑わなかったから。だから、まず、私とツェツィーリエの結婚を進めて、水の国を安心させ、魂胆を隠したまま再びビアンカ王女に求婚した。それでも、彼女は誤摩化されなかった。再度の申し込みにも決して応えなかった」

 過去を詳らかにするベンジャミンの言葉が、靄のかかった記憶を鮮やかにしていく。

「だが、マティアスも諦めなかった。ビアンカ姫には双子の妹姫、ジル姫がいた。彼女は王女でありながらも、光の騎士を持たないから近づき易かった。そこに彼は目を付けた。ビアンカ姫の攻略をやめて、ジル姫を騙し、縁談を持ちかけたんだよ。そして、兄を信じたジル姫は、強大な魔法を使ったんだ」
「それが、城を眠らせた呪いなのね」

 ビアンカのため息のような声にベンジャミンは頷いた。

「アーマイゼは裁定者の姫君と光の騎士もろともに眠りに落ちた。グラオザムは眠ったアーマイゼを易々と通り抜け、ヴェシャイランをあっという間に制圧してしまった。その後、私はどうしても都合良く眠った城に納得がいかなくてね。アーマイゼを訪ね、薔薇屋敷ローズハウスに潜んでいたジル姫を見つけた。そして真相を知ったんだ」
「潜んでいた? 縁談を受けたのでしょう? ジルはグラオザムについて行かなかったの?」
「『後悔している』、ジル姫は、そう言っていた。多くは語らなかったから想像でしかないが、おそらく、アーマイゼが占領されてみて、兄に騙されたとわかったのだろう」

 申し訳なさそうにベンジャミンは俯く。
 想像していたよりも事実は随分痛々しかった。だが、偽りの愛の言葉に乗せられるというジルが、どうしてもビアンカのよく知るジルと重ならない。違和感がビアンカに続けて問わせた。

「それで、ジルはどうなったの」
「グラオザムへと連れ帰ったところで、私はここに捕らえられたから、それ以降は知らない」
「捕らえられたって、王子なのに? あなたは、どうしてこんなところに幽閉されたの?」

 ベンジャミンは静かに答えた。

「私が、グラオザムの不正を大陸法の協議にかけようとしたからだよ。兄はそんなことは許さなかった」
「ああ……」

 ビアンカとシリルは頷いたが、政治は専門外のエリアスだけが理解できずに尋ねる。

「大陸法?」
「五国で定めた、紛争の取り決めだよ。血の気の多いグラオザムを牽制するために、土と風と水、それから光で定めたようなものだったけれど、火も批准しないわけにはいかなかった。今回グラオザムが取った手段は、宣戦布告もないアーマイゼに対する特攻とヴェシャイランに対する侵略だ。ツェツィーリエのためにも、私は不正をなんとか訴えたかった」

 ベンジャミンが答え、顔を真っ赤にしたシリルが爆発した。

「馬鹿だ。そういうのは、慎重に裏を取って、証拠を集めて、それから各国の重鎮に根回しして――真っ正面からやる馬鹿がどこにいるんだよ!」

 シリルの罵倒にも、ベンジャミンは動じずに笑った。

「ここにいるんだよ。そんな風に水面下で動いても錯乱しかけたツェツィーリエには通じなかった。私が裏切ったと信じ込んだ彼女には、言葉が届かなくなった。あのころ、既に彼女は精神の均衡を崩していたんだ。だから彼女に訴えるにはこれしかなかった。とにかく時間がなかった。彼女が壊れる前にと焦っていたんだ。結局、全部駄目になったが」
「母はあなたが自分から逃げたと信じて……壊れてしまったんです。そして、あなたの名を呼びながら、逝ってしまった」

 シリルの声はいつしか湿っていた。

「あの日、ヴェシャイランの葬送歌が聞こえて来て、そして滝から水色の花びらが大量に流れて来て……ツェツィーリエの葬儀だとすぐにわかった。――わたしは、彼女にどう謝れば良いか分からないんだよ」

 声を詰まらせ頭を抱えるベンジャミンを、シリルは目に強い光を湛えて見つめた。

「戻って下さい、一緒に、地上へ。そして、母の無念を、一緒に晴らして下さい。それが、母への何よりの弔いになるはずです」