口の中に残る味

「なんでいるのに返事しないの?」
「どうして部屋まで入ってくるのかな」

 いらだちの炎の混じったエマの声とアリスの氷のような声が重なり不協和音を奏でる。
 声色からもアリスの機嫌の悪さが伝わってくる。逃げ出したくなるけれども、アリスに受け入れられなければ、エマの愚痴の行き場所はない。ここはなんとか機嫌を直してもらおうと、エマは寝台の方へと一歩足を踏み出した。

「来るな」

 アリスの目が更に尖る。強い口調にエマは怯む。だけど、仲直りもせずに戻ってどうするのか。このまま戻れば二度とアリスの笑顔と飴が手にはいらない気がして、エマは自らを奮い立たせた。

「話があるの」

「聞かない。出て行かなかったのは、そういう意思表示だったんだよ」

「お願いだから、機嫌を直して」

「どういうつもりでここまで来てる? 自分が何をしているかわかってるのかな」

 冷たい声に肌が粟立つ。
 でもエマは心の何処かで信じている。アリスはエマを傷つけたりしないと信じきっていた。

「わかってるから、怖い顔しないで」

「……わかってる?」

 くすりとアリスが笑うけれど、その目は全然笑っていない。怒りを隠そうともしないまま、アリスは口の端だけに笑みを浮かべてエマを睨んだ。

「話? それってルキアのことかな」

 やっと譲歩したと思ったアリスの口からそう漏れて、「どうして知っているの」とエマは目を瞬かせた。
 だが、アリスは答えずに更に問う。

「プロポーズでもされた?」

「ちが――」

 ルキアとの会話を思い出し、言われてみればそうとれるのかもと動揺した。その一瞬の揺らぎをアリスは見逃さずに片眉を釣り上げた。
 それはひどく嫌な笑みだった。いつもは思いやりに満ちている目に今日は全く温かみが感じられない。まるで知らない誰かを相手にしているような気さえして、エマはどうしていいかわからなくなる。

「プ、プロポーズなんてされるわけがないじゃない」

 口だけで反論するが、先ほどのやりとりが胸の底に沈んだままでは言葉は全く力を持たない。当然アリスの抱く疑惑を晴らすことも出来なかった。

「……二人して秘密がどれだけ好きなんだろうね」

 揶揄されてエマは頭に血が上りそうになる。

「隠し事なんかしてないわ。ルキアとはなんでもないし――ねえ、どうしてそんな顔してるの。わたし、怒られるようなことアリスにした?」

「確かに君に対して怒る理由もないだろうね。だけど、こうして僕を煽るつもりなら、僕は怒っていいと思うんだけど」

「煽る?」

 わけがわからない。アリスが何を言っているのかエマには全くわからなかった。

「真夜中に男の寝室に忍びこむのは、煽ってるって言わない? ああ――家族・・だからか。だから、なんとも思わないってこと」

 そう低い声で呟くと、アリスはエマの腕を掴んで寝台に押し付けた。上から覗き込むアリスの瞳とじっと見つめ合う。

「あ、アリス?」

 戸惑いばかりが大きくなる。どうしてアリスが自分の上にいるのか。頭の隅で警鐘が鳴るけれども、どうしても納得いかない。アリスがどうして自分を押し倒そうとしているのか。何かの間違いとしか思えなかった。

「確かに僕は君には剣では敵わないよ。だけど、」

 顔の横に突かれた腕には、薄い絹の寝間着が頼りなげに張り付いている。薄い衣の中で浮かび上がる手首には筋が浮く。肘周りは骨太で、二の腕から肩にかけての線がしなやかで美しいにもかかわらず、力強さを感じさせる。少し視線を下ろすと、はだけた寝間着の間からアリスの引き締まった肌が見える。
 はっと息を呑むと、麝香じゃこうの香りが鼻の奥をしびれさせる。
 とたんエマは頭が真っ白になった。

「こうなったとき、君は本当に逃げられるのかな?」

 その言葉が耳に届くのとどちらが早かっただろうか。アリスの唇が、エマの唇を塞いだ。

(え?)

 エマの唇に触れた瞬間、アリスの唇は堰を切ったように激しく押し付けられた。頬が鼻をふさぎ、息ができずエマがあえぐと、唇ではない濡れた感触が口の中を占領した。一緒に頭に流れこむのは黒い熱の塊。今までにアリスからは感じたことのないようなどす黒い感情だった。

(い、や――)

 これは本当に一体誰だ。
 嫌悪感に身体を震わせる。必死で暴れると、アリスはエマの身体を抱きしめて抵抗を抑えこむ。
 キスを中断したアリスは、エマの両手首を頭上でまとめる。アリスは片手。エマは両手だというのに、腕はぴくりとも動かない。彼はエマを甘く見下ろしながら胸元のぼたんをきれいな長い指先で弾いた。
 ぽろりと釦が外れ、エマは晒された肌が浴びた冷気に身震いした。

「君は僕をライバルだというけれど、僕の気分次第で君は女王になれなくなるんだ。ヘルメスが何を企んでたくらい、賢い君のことだ。知ってるんだろう? 簡単な事だ。君を妃にすれば、君は女王にはなれない。なのに、どうして僕も一緒だと思えない? 君は僕を最大のライバルだと思ってるんだろう? 僕がそうしないっていう保証なんかどこにもないのに」

「アリス、やめて。わたし、あなたのことそんな風には思ってな――」

 言おうとしたとたん、再び降ってきた唇で遮られる。口内を蹂躙され、エマは悪い夢だと思いたかった。耐え切れずに唇に噛み付くと、アリスは小さく呻いて唇を浮かし、そしてギラギラとした目でエマを見下ろした。

「じゃあ、これがルキアなら、許した?」

 彼の唇から血が流れている。それは顎を伝って寝間着に染みこむ。白い布に引かれる紅い線は、禍々しくも美しい。

「何言ってるの――」

 あまりの馬鹿馬鹿しさに目が怒気をはらむのが自分で分かった。鋭い声に、一瞬アリスの腕の力が緩んだ。その隙にエマは自分の手首を取り戻す。勢いのままアリスの頬を思い切り打った。

「――男なんて、やっぱり最低。長い間例外だって思ってたけど、アリスもやっぱりウジ虫だわ」

 涙が零れそうだけれど、今のアリスには死んでも見せたくないと思った。
 体と体の間に隙間ができたのを見逃さない。膝に力を込める。急所を狙ったが、彼が避けたせいでエマの足は彼の腹に埋まった。一瞬ためらった自分に気づき自嘲する。どうして、彼もウジ虫なのに。――今思い知らされたのに。

 呻いて腰を折るアリスの腕の中から抜け出すと、エマは立ち上がる。

「わたし、誰の妃にもならないから。あなたのもルキアのも、絶対嫌!」

 我慢しようと思ったのに、最後の方は声が湿った。それが悔しくて恥ずかしくて仕方なくて、エマはガラスが割れるくらいの勢いで扉を開くと、そのまま中庭へと飛び出す。

「エマ――」

 アリスが焦った様子で追ってくるが、振り向く気にならない。
 木に飛びつくと、素早く枝を掴んで懸垂をする。勢いをつけると、ひらり、樹上へと舞い上がる。そして真っ暗な樹の下へと向かって捨て台詞を吐いた。

「今度顔を合わせる時は、ただのライバルだから。わたし、あなたなんかに王位を譲らないから!!」

 頭上の枝を掴んで、上へ上へと体を持ち上げる。いつも木を登って部屋に戻るときは口の中は甘く、心は満たされていた。だが、今のエマの口の中は苦いものが広がっている。
 もう二度とここに来ることはないだろう。
 心は降りてきた時以上に曇り、今にも雨が降り出しそうだった。

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