宣戦布告

 現れた影を見て、エマは目を瞠った。そして生徒のほとんどが校舎に入っていて良かったと、トニとデジーの表情を見てから思う。
 その人物はまだ豆粒ほどの大きさにしか見えないというのに、トニは、かくんと顎を落としたまま釘付けになっている。そしてデジーの方も王女であるエマに話しかけられても本を気にしていたくらいだったのに、今は彼から目が離せないでいるのだ。

(歩く天災ってところかしら)

 久しぶりに見た時の衝撃を思い出しながらエマはトニとデジー、二人の前に立って視界を遮る。そして、やや呆け気味ではあるけれど、さすがに年の功で正気を保っているヴェネディクトに、彼らを教室に戻らせるように頼んだ。先ほどの問題に対する解決案が施工されるまでは、授業をさぼるのは彼らにとって良いことではない。

 トニたちが去ると、人払いをしたような校庭にぽつんと二つの人影が残った。太陽はちょうど頭の上にあるため、足元に短い影が落ちるだけ。

(ああ、そういえば、彼に協力してもらえば、さっきの問題、一つ解決するじゃない)

 こちらに向かってくる小さな人影を見ながらエマは考えていたけれど、丸い影が少しずつ近づくたびに、なぜだか喉が干上がるような心地がした。彼の顔がはっきりと見えるようになるに連れて、エマはその訳をじわじわと理解した。
 気のせいかもしれないけれど。先日会った時よりも、眼差しが甘いのだ。

「隣国の皇子様が、こんな所まで来て、どうしたの。視察?」

 目の前に迫ったルキアにエマが尋ねると、彼は頭上の太陽に張り合うような破壊的な眩しさを持つ笑顔を浮かべる。

「おれ、武術大会に出場することにしたから。その報告」

 笑顔に呆けかけていたエマは、彼の言葉で我に返った。

「はぁ?」

 エマはまず聞き違いかと耳を疑う。すると、ルキアはもう一度「武術大会に出るって言っている」と耳の遠い老人に言い聞かせるように言い直した。それが癇に障る。眉間にしわを寄せると、エマは不機嫌な声で訴える。

「あれが王位継承の儀式の一部だと知らないとは言わせないけど。気まぐれやお遊びで参加されると迷惑よ」
「不真面目だと捉えられるのは残念だな。もちろん遊びじゃない。皇太子としての大事な仕事だと思ってる」
「仕事? どういうつもり」
「欲しいものが出来たんだ」
「欲しいもの? あなた、国に帰ればいくらでも手に入るんじゃないの?」
「ここじゃないと手に入らない」

 意味がわからずに首を傾げると、ルキアは飄々と言った。

「だから――手合わせ願えるかな?」

 彼がエマをのぞき込むと、彼の赤い前髪が目の前に降ってきた。ぎょっとしたエマは飛び退こうとする。だが後ろには大木があり、逃げ場がない。武器庫でのひとときを思い出して、急激に顔に血が集まるのがわかった。

「話が全く見えないんだけど! ――っていうか、あの、近いんだけど!」

 思わずルキアを押しのけたエマは、手のひらに感じた引き締まった胸に、やけどを負ったような気分になる。膝が持ち主の言うことを聞かず、木の根元にうずくまると頭上で笑い声がこぼれた。

「ほんと、色恋沙汰になるとどれだけ鈍いんだか。これはかなり苦労しただろうなぁ」

 ため息混じりに漏らすと、ルキアは自分も跪いてエマと視線を合わせようとする。だが、エマはそれを嫌がった。
 今はルキアの目を見ていたくない。動揺しているのをこれ以上悟られたくないし、なにより、自分の意志と関係ないところで、彼の眼差しに心を揺さぶられているのがひどく不快だった。

「で、剣の練習に付きあうって言ってるんだけど」
「だから、どうして」

 エマは目を伏せたままぶっきらぼうに問いかけた。

「敵を知るには実際戦ってみるのが一番だからだ」
「あなたじゃ私の相手にならないと思うけれど?」
「やってみないと分からない。まさか怖いのか?」

 木刀を差し出されると同時に手首を握られ、エマはどくりと胸が跳ねるのがわかる。弓の稽古の時に触れられても全く意識しなかったというのに、一体なんだろう。エマよりも大きく、そして皮の厚い手のひら。同じように大きくともアリスの手とは違う、日常的に武器を手放さない武人の手だ。

「な、なにするの。離して」

 だが、ルキアはエマの訴えをあっさり無視した。

「そんな風におれを意識すると、おまえは母親似なんだなって思う」
「意味が、わからな」
「綺麗だって言ってる」
「き、きれい!?」

 ぞわりと背筋を這う感覚は一体何なのだろう。考えることがエマは恐ろしい。わかるのは、この男は以前とはまるで違う生き物になってしまったということ。
 強引で、大胆不敵、甘い笑顔で罠をかけてくる、魅惑的な、何か、別の生き物に。

(アリスが、あんなふうに別人みたいになったときと、同じ――?)

 エマは少し前の出来事と重ねあわせて余計に動揺した。
 同時に彼が言った言葉がエマの耳で何度も繰り返されていく。

(色恋、沙汰……? 欲しいもの? アウストラリスでしか、手に入らない)

 これ以上考えるのは危険だとエマの本能が訴える。エマはいつの間にか握らされていた木刀の柄を、反射的にルキアの腹に向かって打ち出す。
 だが、

「お、っと」

 さらりと腰を下げられて避けられる。ルキアはさすがに武術の一つを極めているだけあって、そう簡単にエマの剣に倒れてはくれなかった。
 一歩飛び退いて中段に構える彼の姿に隙はない。前にエマの練習相手は嫌がったけれど、どうやらエマにかなわないからという理由ではなかったようだ。弓術の腕が特出しているだけであって、剣の腕前も侮れないことがすぐに分かった。それでも、エマは怯む訳にはいかないと思った。王になる。そう決めたのだ。だから、誰が立ちふさがろうとも、負けられないのだ。

「武術大会、あなたが出たとしても、絶対に負けないわ」
「そうかな。体格と力ではおれの勝ちみたいだけど?」
「それでもよ。機敏さでは負けないもの」

 不敵に笑おうとするけれど、失敗する。エマの中途半端な笑顔を見て、ルキアは楽しげに、手本を見せるように笑った。

「それに――たいていの女は、おれの顔に弱い。おれが見つめれば、動きが鈍る」

(それ、自分で言うの!?)

 と思いつつも、この顔を持っていて武器だと認識しないのは愚かだとエマは思う。
 まっすぐにその眼で見つめられると、正気を保つのは厳しいと、ひしひしと感じるのだ。
 頬がこれ以上ないほどに染まっているのを隠したくて、エマが再び俯くと、ルキアはエマの顎を強引に持ち上げて視線を合わせた。
 アウストラリスの砂漠を黄金に輝やかせる夕日が見えた気がした。それはこの国で一番美しいとされる光景。エマは呼吸を忘れそうになる。
 濃く、長く、赤いまつげが、大地の色の瞳を縁っている。夕焼けの赤。黄金の大地。ルキアが持つのはアウストラリスの色だ。だけどその澄み切った眼差しが、自分と同じ色をしているとはとても信じられない。
 色は違えど、シリウス帝の大陸一の美しさ、それをこの男は確実に受け継いでいる。だけど――

「あなたは、父親に似てると思ってた。でも中身は違うのね」
「ああ、おれの中身はきっと母親似だろうな。――欲しいものを手に入れるためには手段を選ばない・・・・・・・、使えるものは全て使う。おまえと同じ血だ」

 おそらくは、この中身は、誰よりもルティリクス、それからエマ自身に似ているのだ。そんな彼が欲しいもの。にわかに興味が湧いた。

「そこまでして欲しいものって何なの」
「まだわからないのか?」

 心の中を踏み込むように覗き込まれて、エマはその眼差しに酔う。
 限界は近いと体が訴える。
 エマは挟持を振り絞るようにして、ルキアを睨む。殺人的な色香に屈してなるものかと必死だった。だが余裕のルキアは、ふ、と蜜が溢れるような笑みを口元に浮かべる。

「いいな、その顔。おれは、そんな風におれを睨んでくる女を他に知らない。おれに見つめられて、揺らがない女じゃないと、二人でいる意味が無い」
「ふたりでいる……?」

 意味を噛み砕こうとして、エマは呆然とする。

「まさか、」
「おれが欲しいのは、おまえだ。エマ」

 必死で首を横に振る。なかったことにしたくてたまらない。

「で、でも――あなた、私の事、好きじゃないでしょう」
「どうしてそう思った?」
「だって、あなた私のこと全然わかってないし、付き合いだって短いし」
「誰と比べて言ってる?」

 ふっと目を眇められてエマはぎくりとする。慌てて頭のなかに浮かんだ面影を消し去った。なぜ、どうして、その顔が今出てきてしまったのだろう。

「……誰とも、比べたりしてない」
「そうかな? まあいい。とにかく、宣戦布告はしたからな? おれは、勝って、望むものを手に入れる。この国のやり方で正々堂々と」

 ルキアはそう言うと、華やかな笑みを残して踵を返す。
 薫るような後ろ姿を見送りながら、エマは深くため息を吐いた。

(こんな風に、敵には回したくなかった……)

 殺人的な美貌と、執念。合わせ技に抗うことはきっと厳しいとエマは思う。だけど、屈してしまった時の屈辱を思い浮かべると、意地でも負けてやるものかとも思えるのだった。

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