武術大会《二日目/馬術》

 武術大会二日目の早朝。
 朝靄に紛れて密やかに厩舎へと向かった男は、飼料庫の前で立ち止まる。中を覗くと飼葉が置いてあり、入り口の見張りは一人のみ。しかも食事に入れた薬のせいで居眠りをしている。
 各厩舎の入り口の見張りは、さすがに厳重だ。だが、この建物に関しては警備が比較的緩いことは事前に調査済みだった。
 今からしようとしていることを考えると全身に震えが来るが、男は大きく深呼吸をして怯えを追い払った。

(全部アイツが悪いんだよ)

 偉そうなことを言うだけ言って。彼の生活にひびを入れるだけ入れておいて、結局何の責任もとってくれなかった。
 せめて元の生活を取り戻したいと思っているところに、その話は持ちかけられた。協力すれば、欲しい物をくれると言われたのだ。
 生温いと言われようと、彼は長いものに巻かれる今の生活が気に入っていた。適度な責任で、一番甘い汁を吸える位置。彼は主役になどなる必要はなく、脇役として、名前も覚えられない立ち位置でのうのうと生きていきたいのだ。どうして皆がこぞって王になどなろうと思うのか彼には全くわからないのだった。
 だが、史上初の女王など生まれてしまえば、彼の生活は根底から覆されるだろう。

(しかもあんな女が王になったら、改革改革ってぜったいうるさいだろ。水清ければ魚棲まず、だ。やりにくくてしょうがない)

 平和な生活を壊されるのはもうたくさんだ。そのためには、彼女を勝たせるわけにはいかなかった。
 男は飼料庫に忍び込むと、飼葉に近づいた。そして、飼料箱の前で立ち止まると、屈みこんで胸元から取り出したものを混ぜた。



 馬場に馬とともに出場者が現れるたびに歓声が上がる。観衆向けにひと通り出場者と競技の紹介が終わると、アリスたちはその場から一時開放される。
 隣にいたエマが神経質そうに顔をしかめている。

「馬が苛立ってる気がしない?」

 エマの言葉に、アリスは頷いた。アリスはちらとエマの愛馬を見る。どこか落ち着きが無い様子で、それはアリスの馬にも、それから他の出場者の馬にも言える気がしたのだ。

「これだけ異様な雰囲気だと、今日はなにが起こるかわからないな。中止って出来ないのか?」

 エマを挟んで向こう側ルキアが口を挟む。アリスは首を横に振った。

「さっき一応審判に掛け合ったけど、ダメだって。馬の管理も競技の一部だって言っていた。出場しないなら棄権とみなすそうだ」
「――棄権なんかしないわ」

 間でため息を吐いたエマは、愛馬のたてがみをなでて、苛立った様子の馬をなだめている。アリスは少し考えたあと、エマにわからないように、ルキアに目配せをする。彼はすぐに察した様子で、「ちょっと飲み物をもらってくる」とその場を離れる。

「じゃあ、僕ももらおうかな。エマもいるかい?」

 尋ねると緊張した面持ちのエマは「私の分はお母様が持ってきてくださるから」と首を横に振った。食べ物には注意するように言われているのだろう。飴を渡したのは余計なことだったかもしれないと反省する。
 あの大量の飴には、材料も大量に必要だった。取り寄せが間に合わず、それを理由にカルダーノに向かったアリスだが、あの大事な時期に王都を離れたのは、飴の作成以外に、どうしてもやらなければならないことがあったためだ。
 出向いた甲斐もあって何とかなったと信じているけれど……、油断はできない。
 ぐるりと観客を見回してホッとする。この胸騒ぎは杞憂だと信じたい。

「なんだ。馬以上にそわそわして」

 天幕で配っている飲み物を手に取りながらルキアがアリスに問いかける。

「エマが言うとおり、今日の馬はなにか変だ。君も気をつけて欲しいけど……」
「俺の心配じゃなくて、エマのことだろう?」

 ルキアはあっさりと本題に入り、アリスは頷く。もうまもなく馬を並べなければならない。無駄話をしている時間はない。

「僕はさほど馬術は得意じゃない。エマに追いつけるのはたぶん君の方だと思うから――だから」

 本当は自分で守れたらと思うけれど、アリスの腕ではおそらくエマには追いつけない。悔しさからアリスは手を握ぎりしめる。だが、嫉妬のせいで、もしエマに何かあったらそのほうが怖い。エマが傷つくくらいなら、個人的な感情は殺してみせる。

「守れっていうんだろ? わかってる。っていうか、ちょっと馬鹿にしてないか? おまえ、自分のほうがエマのことを大事に思ってるって言いたいのか?」

 ルキアの言葉にアリスは一瞬目を瞬かせ、直後、笑う。

「当然だろう? それだけは誰にも負けないつもりだよ」

 他で負けても、それだけは負けない。アリスはそう決めているのだ。だからこそ、多方向に万能なルキアの前でも胸を張れる。

「いつの間にか言うようになったなぁ」

 ルキアは肩をすくめて苦笑いをした。

「俺だって、惚れた女は全力で守る」

 信じていいのかと目で問うと、さすがにルキアは「思い上がるな」と眉間にしわを寄せる。

「わかった。頼んだ」

 ひらひらと手を振りながら立ち去るルキアの背中を見送ったあと、アリスは力強い味方ができたことに胸を撫で下ろす。何もなければ一番いい。そうならないためにアリスは陰で精一杯動くのだ。



 合図とともに、一斉に馬が走り始める。城の周辺は、エマが愛馬デルフィナと共に何度も走った道だった。だがそれはどの出場者にも言えることで、油断など一瞬たりとも出来なかった。デルフィナに「お願い」と祈るようにつぶやきつつ、エマは手綱を操った。
 デルフィナの身体がしっとりと汗で湿っている。鼓動もいつもより早い気がした。よだれも多く、鼻息も荒く、目もきょろきょろと落ち着かない。何より、いつもは乗った時にもっと一体感があるけれど、今日はあぎらこちらから不協和音が鳴っている感じ。エマの意志を無視して自分の好きなように走っている感が拭えない。油断すれば振り落とされそうな。そんな気さえする。
 不安は膨らむけれど、後ろにぴったりつけたルキアも気になって、速度を落とせない。
 前もって舗装された道が終わると、一旦悪路に出る。ここからが勝負とエマは気合を入れる。やはり一馬身ほど後ろにつくルキア。他に敵なしと思っていたが、五馬身ほど後ろにはエニアス。これは予想通りの展開なのでエマは気にしなかった。彼の家では代々駿馬を育てていて、その関係で馬術は得意なのだ。

(順当といえば順当――だけど、私のほうが上よ。相当鍛錬を積んだもの)

 だが、エニアスの少し後ろについている人影を見て、エマは手綱を怪しくしかけた。

(アリス? 馬術までこの位置――?)

 そのとき、デルフィナがバランスを崩す。

「え?」

 エマは目を見開いた。この場所にまだ障害物は置いていないはず――何度も走って確かめたのが仇となったのか――木で作られた障害物が置かれていたのだ。
 エマは投げ出されそうになり、必死で馬にしがみつく。だが、つややかな毛並みをした馬には、指が引っかかる場所など無いのだ。

「――きゃあっ」

 身体が空中に浮く。重力に引きずられる。地面が迫り、やってくるだろう衝撃を恐れてエマは固く目を閉じる。

「エマ!」

 近くと遠くでエマを呼ぶ声がして、ハッとする。
 王位を諦めたくなど無い。落馬するわけにはいかないのだ。エマはどうにか受け身を取ろうと目を見開いた。
 と、
 蹄の音とともに風が吹き、かっさらうように服をぐいと掴まれ、身体が上に引っ張りあげられたかと思うと、予想したよりもはるかに軽い衝撃がエマを襲った。目を開けたままだったエマは、まじまじとルキアを見つめた。
 赤い髪は汗で額に張り付いていた。いつも余裕のある眼差しには、今は焦燥感がにじみ出ている。ぎゅっと眉間にしわを寄せたルキアは心底ほっとしたようなため息を吐いた。

「本当に焦った。――よかった」
「あ、あ――あ、ありがと」

 ぎゅ、と広い胸の中にすっぽりと抱きしめられ、エマの体温は急激に上がる。壮絶に甘い眼差しでまっすぐに見つめられ、かすれた低い声でささやかれれば――動揺しない人間がいるはずはない。例外になれないエマはぼうっとしかけた。
 だが、直後響いた「エマ! 無事でよかった――」というアリスの声で飛び上がりそうになった。
 アリスはルキアに抱きしめられているエマを見て、一瞬傷ついたような顔をする。
 慌ててルキアを押しやるけれど、

(今の見られた!)

 という動揺でエマはパニックに陥りかけていた。
 必死で言い訳を考えるエマだったけれど、それをルキアが苦笑いで遮った。

「ときめいてるところを悪いけど――競技はまだ途中だ」
「と、ときめいてなんかないって!」

 どこまで自信があるわけ! 悲鳴を上げそうなエマに、ルキアは人の悪い笑みを浮かべる。そして自分の馬の手綱をエマに譲って馬から飛び降りた。

「たぶん、俺の馬は平気だ。それから――あいつのも」

 意味ありげに前を睨んだルキアにつられてエマは前方を見る。いつの間にか何人かに抜かされているのを見て、エマはにわかに焦った。
 何を思ったのかルキアは、エマの馬に近寄ると、どうどう、となだめて強引に乗る。

「これだけ手加減してやっても、負ける気はしないけどね」

 失礼な発言と魅惑的な笑みを残すと、ルキアは暴れ馬の手綱を引いて馬を走らせだした。

「ルキアの言うとおりだ」アリスがエマを促し、「――犯人探しも、今は全部後回し。そういうのはもう忘れて、全力で行こう」

 含みのある言葉を気にしつつ、エマも気持ちを切り替えて走りだす。


 予期せぬ事態で遅れを取ったエマとルキア、それからアリスは、それでも、それぞれ二位、三位、六位という結果に終わった。助けてもらった上に、手加減されたという気後れは多少あったけれど、勝負は勝負。エマは新たな加点を素直に喜ぶことにする。

(これで、ルキアは六点、わたしは四点……)

 そして、表彰台の一番上にいたのはエニアス。いつもヘルメスの陰でおこぼれを享受して喜んでいた彼だったから、自分で何かをつかみとっている事自体が意外だった。

(ああ……私、心のどこかで舐めてたんだわ)

 エニアスの晴れやかな笑顔を見て急に気がつく。自分が一番王になりたいのだと思っていたことに。だから誰もが自分より努力などしない、努力では負けないと思い込んでいた、その思い上がりを密かに恥じる。

(あと、二つ。全力でやらないと。私には、王にならなければならない理由があるの)

 もう油断などしないと、エマは誓う。

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