武術大会《三日目/体術》1

「は? 今なんて?」

 ミロンは目の前で鼻の下を伸ばして作戦を囁くヘルメスに、正気かと目で問いかけた。聞き間違いだと思いたい。
 思わず周りを見渡すが、誰も彼も大会の準備で忙しそうで、駆けずり回っている。第一、万が一にもそんな愚かしい発言をするような人間は、ヘルメス以外に心当たりがなかった。

(本気でそんな馬鹿なこと考えてるのか)

 馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれどここまで馬鹿だとは思わなかった。
 そして、本当に馬鹿なのは、このヘルメスと未だにつるんでいた自分だ。
 以前エマナスティに説教されて、ミロンは一時的に前向きになった。だが本当に一瞬のことで、腐りきった根性はそう簡単には矯正されなかった。人間というのは悲しいかな、楽な方に流されるようになっているのだ。しかもそれをよしとして生きていたため、どうやって泥沼から抜け出せばいいかわからない。だって、ヘルメスのいじめの対象になるのは恐ろしい。エマナスティに清浄な世界へと引っ張り上げてもらうつもりだったが、彼女はそこまでお人好しではないらしい。沼に沈んだミロンに、手を差し伸べてはくれなかった。
 ――だが今。ミロンは、ずるずるとヘルメスと付き合ってきた自分を呪いたくなっていた。
 あれだけやり込められたのだ。もう無茶はしないだろうし、ミロンの生活を脅かすこともないと思っていた。ミロンはヘルメスの愚かさを甘く見すぎていだのだ。

「や、やめておいたほうがいいんじゃないのか?」

 裏返った声で諌めるが、ヘルメスに届いた気はしなかった。加勢を願うが、もう一人の下僕であるエニアスが馬術で優勝してしまい、ヘルメスの不興を買ってしまった。そのせいで、ミロンしかヘルメスの暴挙を止める人間はいないのだ。

「いや。そのくらいしないと、あのゴウツクな女が諦めるわけねえ。なあに、別に反則でも何でもない。なんだから心配すんな」
「だけど、あ、あのルティリクス陛下の目の前だぞ? 黙ってるわけない」

 ミロンは北側の観客席の中央に設えられた王の席を見やった。そこでは赤い髪が太陽にも負けない苛烈さで光り、存在感を示している。

「男の世界に顔突っ込ませるんだ。そのくらい覚悟の上だろ。なあに、ちょっと泣かして、自分が『可愛らしい・・・・・守られるべき王女様』だってことを教えてやるだけだ。王だってあれだけの観衆の前では、娘に甘い顔は出来ねえよ」

 そう言うと、ヘルメスはぐるりと観客席を見渡した。闘技場の中央には試合場が設えられている。普段の道場では観衆が入らないため、今日のために特別に設置されたのだ。
 段になった座席が、試合場を取り囲んでいる。数多の興奮した好奇の目が降り注いでいた。
 雰囲気がまるで違うが、以前ヘルメスが醜態を晒したのはここだった。恥ずべき思い出は濃く残っているだろうに、どうして懲りないのだろう。彼の脳みそはあれだけの恥でもとどめておくことが出来ないのか――などと思っていたら、ヘルメスは言った。

「あー、楽しみで仕方ない。これでやっとあの時の仕返しをしてやれるんだぜ?」

 何が仕返しだ。またやり返されるに決まってる。
 どうやら忘れたわけではなく、学習していないだけだった。
 誰かこいつを止めてくれ! ミロンは叫び散らしたかった。と同時に、ここで彼を止められない、力も意気地もない自分を殴りたいと思う。

(ああ――かくなる上は他力本願か)

 そう思った時だった。周囲でどよめきが上がり、ミロンが勢い良く顔を上げると、王の席の足元に対戦表が大きく貼りだされるところだった。ミロンは目を細め、先ほど引いたくじの結果を検めた。八名で行う決勝の組み合わせだ。
 弓術や馬術のような一斉に順位が出る競技とはと違い、勝ち抜き戦を行う体術と剣術では、儀式の一部であるという理由から王族は予選を免除される。そのため、ミロンの名前も書かれていたが、彼は最早自分の名前など見ていなかった。

「あぁ……なんだ。エマナスティに当たるとしても、決勝じゃないか」

 ヘルメスとエマナスティの名前だけ見つけてそう呟く。決勝となれば精鋭が勝ち上がってくるのだ。そこまではヘルメスも上がれないだろう。
 思わず安堵の息を漏らすと、ヘルメスがふん、と笑った。嫌な予感がして、目を細め、もう一度見なおしてミロンは顔を青くする。勝ち抜き戦の一回戦は、一組がエマナスティとミロン、二組が予選一位の武官とルキア皇子。三組がヘルメスとエニアス、四組が予選二位の武官とアリスティティスの組み合わせだった。そして、勝ち上がった一組の勝者と二組の勝者が当たって、三組の勝者と四組の勝者が当たる。つまり決勝までに、エマナスティ、ルキア皇子という優勝候補が潰し合いをするのだった。ちゃっかりミロンもそちら側の山にいるが、初戦でエマナスティとは、最初からさじを投げてしまっても仕方がないと思う。

「これ、本当にくじなのか……?」

 予選に関しては、前情報から対戦相手の調整がある程度行われていたけれど、決勝では運も味方に付けなければならないらしい。

「決勝までに俺が当たるのは、エニアス、それからアリスティティス。俺の決勝進出は決まったようなもんだろ?」

 それから、優勝もな、と漏らすと、ヘルメスは決勝戦でのことを想像しているのか、にやにやとミロンに笑いかけた。

「おまえにも味見は許してやるからさ。どうせ負けるだろうが、少しは楽しめよ?」

 下婢た笑みが己を蝕む。

(――俺とおまえを一緒にするな)

 ミロンは吐き気を覚えて、みぞおちを押さえた。
 ずっとずっとこの胃もたれのような不快感が嫌いだった。取り払うには、やっぱりここにいてはいけないのだ。

(何とかしないと)

 ミロンは小さな一歩を踏み出す覚悟を胸に、大きく深呼吸をする。


 *


「ルキアとは二回戦で当たるのね……」

 エマはうんざりと前髪をかき上げた。エマにとって二回戦はまるで決勝戦だと思う。勝ち抜きだから、負ければ終わりだ。三位決定戦は行われるけれど、やはり一点ではなく三点以上が欲しかった。負ければ四点以上開くと思うと、なんとしても勝つ必要があると思った。
 だからといって一回戦がたやすいわけではない。
 頬を小さく叩いて気合を入れると、エマは試合場へと上がった。
 周囲から地響きのような歓声が上がる。
 いつもと違ってどこか切羽詰まったような顔をしたミロンをエマはじっと見つめた。

「はじめ!」

 審判の声が上がり、試合が開始される。
 体格的にはアリスと同じくらいだろうか。倒されればさすがに押しのけるのは難しいと思った。だが、その分スピードは落ちるはず。隙を探る。武器である敏捷さを活かすしかない。これは剣術でも同じ。相手の懐にどう入り込むか。一瞬が勝負なのだ。

「エマナスティ。おまえを決勝に行かせる訳にはいかないんだ。頼む、俺に負けておいてくれ。おまえのためでもあるんだ!」

 エマだけに聞こえるような声でミロンは言う。

「何ふざけたことを言ってるわけ? またヘルメスにそそのかされたの?」

 エマは鼻で笑うとじりじりとミロンとの距離を詰める。
 一歩踏み込むと、ミロンが一歩下がる。襟も袖も取れずにエマはわずかに苛立った。

「ちがう。ヘルメスは決勝でおまえに恥をかかせるつもりだ」
「なんですって?」
「観衆の前で、『おまえがただの女の子だ』と暴くつもりだ。何をする気かわかるだろ!?」

 あの下衆の考えそうなことだ。エマは舌打ちする。

「あの体格で上に乗られたら、さすがのおまえでも敵わない。今回は素手で勝負しないと反則負けだ。ヘルメスにそんな風に負かされたら、他のどの競技での負けより響くに決まってる――だから今のうちに――」
「うるさい――気が散るわ! 要は負けなきゃいいわけでしょ!?」

 袖に手がひっかかった。エマはぐいとミロンを引き寄せると至近距離で睨んだ。

「私は負けないわ。たとえ何をされても音を上げたりしない」

 だがミロンにはエマの言葉は届かない。彼は、決勝戦でエマがヘルメスにやり込められていることしか想像できないようだった。

「――――頼む! 俺は、あいつの下にはもう居たくないんだよ! 俺はもっとまっとう・・・・になりたいんだ! 俺が、俺が決勝でアイツを倒すから――だから!」

 いつものような、おどおどとした卑屈なミロンの顔が見当たらない。こんな真剣な表情をするのならば、もうすでに『まっとうな』王子様だ。初めて見るような表情に気を取られた次の瞬間だった。

「ほら、こんなふうにされたら君だって敵わないだろ、だから――」

 ミロンはエマの隙を見逃さず、必死の形相でエマにすがりついてきた。

「「そこだ! エマ!」」

 場外からいくつかの声が同時に飛ぶ。頭上からミロンの大きな身体が降ってくる。腰を抑えられたらおそらくは致命的。だが、集中力を取り戻したエマは、目を見開いて技のを探した。

(そこよ!)

 右の襟を右手でぐいと掴むと、振り返りながら思い切り前に突き出す。ミロンを背に乗せると同時に左足を大きく後ろに蹴りあげてミロンの左腿を攫った。
 その間、わずかにまばたき一つ。

「え――?」

 ミロンの間の抜けた声と共に、ふわり、と大きな身体が空を舞う。
 どかん、とミロンが地面に打ち付けられると、場内が水を打ったように静まり返った。直後どよめきが上がり、審判が大きく天に向かって手を上げた。

「――勝負あり!」

 エマは倒れたミロンに手を差し伸ばす。そしてわずかに上がった息をなだめると、比較的優しい声で言った。

「気持ちは、まあまあ嬉しかったけど……やっぱり負ける訳にはいかないの」
「まあまあ、か」

 俺にしては頑張ったのになー、やっぱりダメか――とミロンはエマの手を握った。
 彼の手からはなんだか吹っ切れたような、妙な清々しさが感じられる。ミロンは苦笑いをしながら、言った。

「どうしてそんなに王になりたいわけ?」

 改めて問われてエマは笑う。何のために王になりたいのか。――何のために王がいるのか。漠然としていた想いを、たった今、ミロンが形にしてくれたような気がした。
 以前ルキアに言われてもピンとこなかったのは……そうだ。彼がすでに王者であって、他に王を必要としていないから。

「あなたみたいな人のためよ」

 ミロンや、それから、学院で進む道を見失っていた子どもたちに必要なもの。

「おれ?」
「どこに行けばいいかわからずに迷子になってるじゃない。そういう人には手助けが必要よ」
「まあ、そうかもしれないけど……けど、おまえ、手を引いてはくれなかっただろ」

 こんな風にさ? とミロンが苦笑いをしながらエマの手を頼りに立ちあがる。離そうとした彼の手を、エマはもう一度握った。

「私、おんぶも抱っこもしてあげないけど、――だけど、道は作ってあげられると思ってるの。歩こうとしてる人のために道を作るのが私の仕事だと思ってるの。だから、行きたいところがあったら、言って。そうしたら、あなたが歩く道を私が作る」

 微笑みかけると、ミロンは目を丸くする。そして、初めて見るような晴れやかな笑顔で笑った。

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