武術大会《最終日/剣術》5

 傷口が焼けるようだと思った。アリスは壁に手をつき、足を引きずるようにして歩く。

「開けてくれ」

 懇願するが、衛兵は「だめです。宰相閣下から申し付けられております」と固く扉を閉じてアリスを外に出しはしない。
 舌打ちしたい気分で、アリスは中庭を見た。怪我さえなければあの壁をよじ登るだろうけれど、今のアリスでは扉以外から外にでることは出来ないだろう。
 だが、使えない身体の代わりに、使えるものをアリスは持っていた。

(――なにか、なにか、特別なことが起これば)

 縋るように見回したアリスの視界に、赤くゆらめくものが現れる。余裕もないままに近づくと、アリスはそれをなぎ倒した。


 **


 話が違う。男は叫び出したい気分だった。

(おれはそんなだいそれた物はいらない)

 ただ、平穏な日々を失うのが嫌だっただけで。あのクソ生意気な女が王位につくのを阻めればよいだけで。

 だが彼の周囲の人間はそうは思わなかったらしい。彼を犠牲にして、影で甘い蜜を吸う気でいるのだ。

(エマは邪魔だ。だけど、おれは――)

 逃げ出したい。心底そう思ったのがばれてしまったのだろう。朝からずっと彼は監視されていた。冷たい視線が彼を縛り、引き返すことは出来そうにない。手の中の硬い物体を握りしめる。
 エマが目を離した隙に、これ・・を詰めた袋をすり替えるだけ。
 以前の馬術の時と同じ。ただそれだけだというのに、迫り来る未来への疎ましさで震えが全身を走った。


 **


 試合場ではルキアが予選通過二位の武官を軽くあしらっているところだった。武官の顔がすでに真っ赤に熟れている。必死で頑張ってはいるものの、美貌に目が眩んで腰が砕けたという残念な結果になるのも時間の問題だとエマは思った。
 くじ運の良いルキアの一回戦はあっさりと幕を閉じそうだ。順当な結果にエマは小さくため息を吐く。安堵半分、失望半分といったところだ。あっさりと優勝を手にできるはずもないけれど、重圧から解放されたくないかと問われると、早く解放されたいに決まっていた。
 次の試合はもうまもなく始まる。エマの対戦相手もすでに膝を曲げたり、腕の筋を伸ばしたりと準備を始めていた。
 彼との実力差は大きい。だけど、直接剣術の試合をすることは初めてかもしれない。気を引き締める。
 と、喉に渇きを感じて、エマは母が用意してくれた飲み物を探した。だが、手は空を切り、エマは首を傾げながら脇を見た。

(あれ? たしかここに荷物をまとめておいておいたはずだけれど)

 母特製の飲み物は檸檬をはちみつで割ったもので、疲れを癒してくれるのだ。……それから一緒においていたのは、アリスの飴。こちらはエマの心を落ち着けてくれるものだった。
 紛失に動揺を隠せないエマに、ルイザが「どうかしましたか?」と問いかけた。
 彼女は不揃いになってしまったエマの髪をそこそこ見れる程度に整えてくれたあと、傍で護衛をするように言いつけられていた。なにが起こるかわからないからと父が命じたらしい。あんな事件のあとで、解決もまだだ。過保護だとはさすがにエマは思えないので、ありがたく守ってもらっている。実際、気のおけないルイザがそばに居てくれるとずいぶんと落ち着いた。

「飲み物と飴がないの」
「あぁ。先ほどバタバタしたからかもしれませんね」

 待機場所が相手と入れ替わってしまっていたのだ。苦情を言われて移動したけれど、結局は、誘導者の間違いだったという落ちだが。
 ルイザも少し慌てた様子で辺りを見回した――が、探しものはすぐにエマの足元で見つかった。
 どうやら慌ただしさの中、落としてしまっていたようだ。
 ホッとしたのもつかの間、エマは顔をしかめた。飴は無事だが――

「あぁ、飲み物が全部こぼれちゃってる。もったいない」
「じゃあ、お水をいただいてきますね」

 目を泳がせたルイザは、一度天幕で配っている飲み物に目を留めたが、

「すぐに戻ります」

 と、護衛官に離席を伝えると水を取りに行く。毒を警戒しているのだろう。一番近くにある安全な水を求めて父のところまで向かうらしく、人垣をかき分けて姿を消した。
 見計らったように目の前に現れたのはヘルメスだ。近くで観戦するつもりなのだろう。先ほど痛めつけてやったというのに、本当に懲りない男だ。呆れつつ見つめると、ヘルメスはニヤニヤと笑った。

「こぼしたのか? ほら、これ飲めよ」

 差し出された飲み物を飲むほど愚かではない。むっつりと黙って受け取らないと、ヘルメスは

「毒なんか入ってねえよ」

 と飲み物を一口飲んだ。だがエマは大きくため息を吐いて固辞した。

「どちらにせよ、あなたの飲み残しなんか飲むわけないわ。どうせ、なにか入ってるんでしょ。毒味までして体を張ってご苦労なことね。でも悪あがきもここまでよ」

 図星だったのかヘルメスはちっと舌打ちをする。

「ほんとおまえ可愛くねえな」
「それで結構よ」

 むしろ可愛いなどと言われたら虫酸が走る。
 気分を害したエマは、気持ちを切り替えようとアリスの飴を手にとった。
 今までは安堵をもらうだけだったけれど、今は彼のことを思い浮かべると心が弾む。気力がみなぎり、なんでも出来そうな気になった。
 袋を開けると檸檬色の飴がエマを誘った。頬を染めつつ、つまんで口に運んだその時だった。

「火事だ!」

 どこかで大きな声が上がり、辺りが騒然とする。

「火事? どこ――」

 ぐるりと見回したエマはとっさに口の中に放り込んだ飴を噛み砕こうとした。が、

「エマ! それを食べるな!」

 エマはとっさに飴を飲みそうになったが、かろうじて吐き出す。制止の声――それは、ここで聴けないはずの声だったのだ。

「エマ! うがい!」

 声は更にエマに命じた。すでに舌の感覚が鈍くなっている。駆け込んできたルイザが水を差し出し、エマは口に含むと甘味とともに吐き出した。
 視界が歪んだ気がして、エマはこめかみを押さえながら膝を折った。多少毒に慣らしている経験から言っても即効性の毒ではないことは分かった。けれど、頭にぼんやりと靄がかかる感覚は、以前に味わったことのあるものだった。

(あぁ、前に倒れた時に、似てる、かも)

 練習中に倒れた時のことを思い出す。すると、目の前の光景が幻覚にしか思えなかった。目の前には真っ青な顔をしたアリスが立っているからだ。
 エマは自分の頬を張る。鋭い痛みに頭の靄が晴れるけれど、幻覚は消えなかった。

「アリス――? どうして」
「エマ、その髪――いったい、なんで」

 たった今気づく余裕ができたといった様子だった。呆然と問いかけるアリスの体がぐらりと揺れたかと思うと、地面に向かって倒れた。

「アリス!!!?」

 飛ぶようにして駆け込もうとしたエマだったが、一瞬早く割り込んだ大きな人影がアリスの体を支えた。

「……お、お父様?」

 いつの間に現れたのか、父がアリスを抱えていた。父は血相を変えてアリスを怒鳴りつける。

「無茶するな馬鹿が。おまえ、エマをこれからも――死ぬまでずっと支えるつもりなんだろう? その怪我でぼや騒ぎまで起こして――なにもできないままに死ぬ気か?」

 ぼや? とエマは目を見開く。よく見るとアリスの服がわずかに焦げている。

「火事ってアリスのところ? アリスが火をつけたの!? な、なにやって……」

 驚愕で声を失うエマの前で、父はため息を吐いて「そうまでしてここに来たかったってことだろうが」と呟くと、穏やかに問いかけた。

「アリス。――どうしてあれだと思った?」

 父は地面から拾い上げた飴をルイザに渡すと、成分を調べろと命じた。

「犯人はエマを妨害したいのと同時に、僕を陥れたいんです。だから、狙うとしたらだと思った。よかった――間に合わなかったら、どうしようかと思った……けど、一体その髪はなんで――」

 エマの首筋にアリスが手を伸ばす。確かめるように髪に触れた彼は、苦情だろうか――何か言おうとしたが、結局言葉を喉につまらせる。そして、げほげほっと咳き込んだ。

「すぐに医師を呼べ。それから担架を!」

 父が命じるが、だがアリスは

「待って下さい。傷は開いていないから、大丈夫です。それより、僕は、今、ここで真実を知りたい。でないととても安心して寝ていられない」

 とか細い声で遮った。

「真実?」

 父の目が興味深そうに光った。父がアリスを椅子に座らせる。エマもアリスの額に浮いた脂汗を手巾で拭いながら、どういうこと? と目で問うた。
 アリスは小さく頷き、そこに居た一人の名を呼んだ。

「キモン小父様」

 ざっと視線が動き、エマもそちらを注視した。
 そこにはエニアスの父であるキモンがのんびりと椅子に腰掛けていた。

「……どうしたんだね?」
「あなたが今ここにいるのは、何故ですか」
「息子の応援に駆けつけたらいけないのかな?」

 クスクスと余裕で笑う壮年の男は、やはりアウストラリス王族特有の銀の髪をしていて、ヨルゴスに容貌がどこか似ている。けれど、内からにじみ出るものが全く違って見えるため、エマは間違えたことは一度もない。

「試合会場であなたを見たのは、今日が最初です。弓術でも馬術でも、体術でも姿を見せませんでしたよね? それが今日に限ってどうして?」
「それは、親なんだ。最後くらい近くで応援してやろうと思ったんだよ。何か問題でも?」
「エマになにを飲ませたんです」
「知らないよ。ずいぶん失敬な言いがかりだけど、なにか証拠でもあって言っているのかな」
「……いいえ」

 アリスは小さく首を振った。だが、にやっと笑うキモンに向かって、アリスは脂汗をにじませながらも笑みを返した。

「だけど情況証拠は十分ですよ」
「なに?」
「今日、エマがここでエニアスに負けて優勝できなかった場合。王になれるのがエニアスだと言っているんです」

 ざわ、と動揺が周囲に走った。エマは代表してアリスに問いかけた。

「今の試合で? で、でもまだ二回戦よ?」

 エニアスがエマに勝って決勝に上がったとしても、ルキアがいる。となると、彼にも毒物を混入するつもりだったのだろうか。だが、その方法はエマ以上に要人であるルキアに通用するとは思えない。

「どういうことだ?」

 訝しげな父にも説明を求められてアリスは小さく笑った。

「僕も、さっき気づいたんだ。熱中すると忘れがちだけど、《武術大会で優勝すること》と、《王位を得ること》は同義ではないよ。――剣術でエマが点数をとれなかったら、どうなる?」
「ルキアが優勝するわ」

 エマでなければルキア。それは実力からいって確実にそうなると思えた。だから、エニアスの行為は意味が無い――と主張しようとしたけれど、エマは

(あれ? 本当にそうだった?)

 と首を傾げた。そしてアリスが先ほど口にしたことをじっくりと噛み砕く。

(武術大会で優勝することと、王位を得ることは同義ではない?)

 そこでアリスはふっと笑みを浮かべた。

「それで、優勝したらルキアはどうするって言ってたかな」
「わたしを……妃にするって……ああ、」

 呟いて、急に理解できた。ルキアが一位になる。そしてエマがルキアとジョイアに行けば、残る者に王位が行く。
 そして――エマがここで負ければ、順位も変わるのだ。
 エマの心を読んだかのように、アリスが頷いた。

「その時に二位・・につけているのは、今五点を持っていて、最低でも三位で一点を追加するだろうエニアスなんだよ」
「最初から二位を狙ったってこと?」
「不慮の事故は怪しまれる。だけど二位ならば、ルキアの優勝の影で野心を隠せて疑いを逸らせるからね。……本当に親に似たんだね、エニアス。君がヘルメスの影で甘い汁を吸っているのとまるで同じ構図だ」

 図星なのだろうか。エニアスは返す言葉もないようだった。

「でも、でも、エニアスが二位につけていたとしても、民はきっとアリスを選ぶわ」

 エマはどこか納得いかなくて、訴えた。するとアリスはそこで痛みに顔を歪めたあと、静かに答えた。

「飴に入っている成分は、おそらくディスコリアじゃないかな。もしエマが食べていたら、すべて僕のせいにされていたんだろうね。僕は卑怯者の汚名を着せられて、民の信頼を失うだろう。それを狙ったんだ。そして、――その飴をすり替えた人物は、今ここに居る誰かだ」
「時間をかけて本気で調べればすぐに見つかるが……そうだな確証だけならすぐに得られるか。――エマ。頼む」

 父がエマをじっと見つめて頷いた。なにを頼まれたかすぐに察したエマは、キモンに近づくと彼の前に手を差し出した。今こそ、エマの《切り札》を使う時だった。

「なんだ?」

 訝しげなキモンの手を強引に握ると、意識を集中する。そして、今問うべき言葉を吟味した。
 エマの力は弱い。だが、動揺の仕方で嘘を吐いているかくらいは判断できるのだ。なにを訊けばいい? エマは逡巡したあと、決めた。

あれ・・を捨てに行く時間はない)

「すり替えたわたしの飴は、どこにあるのかしら? それを持っている人間が、きっと犯人よね?」

 とたんキモンの手から感じ取ったのは、動揺、そしてすさまじい怯えだった。

(間違いない……!)

 エマが振り返って頷くと、父が迫力のある声で、エニアスとキモンの荷物を今すぐ調べろと言いつけた。

 それからまもなく。震えるエニアスの荷物から飴が見つかると、キモンは大きくため息を吐いて天を仰いだ。

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