一緒に、という言葉で

「エマがどうしたって?」

 アリスは書きかけの書類から目を上げると報告者に尋ねた。
 トニ――最近王立学院を卒業したばかりの男(まだ少年と言っていい気がする)だ。官吏の採用試験に合格した彼を、頑張り屋だからぜひ使ってと推薦したのはエマだった。

「エマナスティ殿下は働きすぎだと思うのです」
「まぁ、そうかもしれないけど……?」

 そう頷きつつも、アリスは内心首を傾げた。エマは朝日とともに起き出すけれど、夜はアリスとともに就寝する。同じ部屋で生活しているのだ。誰よりも彼女のことを把握しているという自負があった。

「夜中に執務室の明かりがついていました」
「ここの? 誰か消し忘れたんじゃ――」

 と口にしたけれど、最後に部屋を出るのはアリス本人だ。ボヤ騒ぎを起こした前科もあって、未だに口うるさく言われているため、火の始末を忘れるわけがない。
 一拍後、アリスは眉をしかめる。
 侵入者の心当たりは一人しかいない。鍵を持っているのはアリスともう一人だけなのだ。アリスの顔を見て、トニは肯定するように頷く。

「教えてくれてありがとう」

 礼を言うとトニは赤くなってニカッと笑った。


 *


 エマが今取り組んでいるのは、図書館の建設だった。
 王立図書館よりももう少し子ども向けの、学院内に設置する図書館だ。
 今学院にある図書館は教室の一部屋を使った小さなもの。置いてある本も少ないし、偏りがあるということなのだ。
  エマは月に一度は学院の視察に向かうが、一番気にかけているのが本についてだった。なぜそんなにと言ったら、あなたにはわからないかもねと言われて少し傷ついた。
 だが、彼女はアリスの曇った心をすぐに察して、説明した。
 子供のころにあふれるほどの本を与えられたアリスには、それがどれだけ得難いことかは、本質的にはわからないかもしれないということなのだ。
 そうかもしれないと思ったアリスは、図書館のことについてはエマに一任している。
 でなくともアリスの仕事は山のようにあるのだ。
 だが、今、アリスはその選択を悔やんでいた。
 隣で眠っていたエマの寝息がピタリと止み、アリスは薄っすらと目をあける。
 意識して、息は乱さない。
 彼女は猫のようにするりと寝台を抜け出すと、音も立てずに寝室を出た。アリスは彼女の気配が消えるのを待って、同じくベッドを抜けだし――ため息を吐いた。


 *


「うーん……予算はどこから持ってくればいいのかしら……」

 いくら時間があっても足りない――そんな焦燥感が身を焼きつづけていた。頭の中で情報がうごめいて熱を持ち、眠れない。そんな夜はいっそ働こうと、寝室を抜け出してしまう。
 エマが引き出しから出した書類を並べ、頬杖をついて唸ったときだった。
 後ろから伸びた腕がエマを捉える。ぎょっとして投げ飛ばそうとしたけれど、手首を握られてしまっていて、既に動きが取れなかった。

「――アリス……」

 こんな真似ができる相手は一人しかいない。エマはほうっと大きくため息を吐いたあと……別の危機に気がついて青ざめる。

「僕に内緒でなにをしてるのかな?」

 項にかかるのは低く冷たい声だ。腕が緩んで身体が自由になる。だが、漂う怒りの気配にエマは振り向くのが心底怖かった。

「それだけの体力があるんなら、もう遠慮するのはやめようかな」

 ひっと喉の奥が鳴る。
 まだぎりぎり新婚と言える時期。夫婦関係が密であるのは当たり前なのかもしれない。だが、正直に言うと、昼間に仕事をして、夜も寝れないとなると体力の限界だった。エマが正直に打ち明けると、彼は素直に従った――が、どうやらしっかりと不満は抱えていたらしい。

「だま、してたわけじゃ」
「僕と仕事、どっちが大事?」

 まさかアリスの口からそんなことを聞くとは思わず、エマは目を丸くする。と、

「――なんて馬鹿なことは聞かないけど、君が心配だから、こういう真似をするんなら僕にも考えがあるよ?」

 そう言うとアリスはエマをそのまま筆記机に押し付ける。手首をひねって、仰向けにさせるとそのまま唇を奪う。

「――――ん――」
「要は、僕が君の睡眠薬になれていないってのが問題なわけだよね?」

 いっそはっきり責めてもらったほうがどれだけいいだろう。唇はもう離れているというのに声が出なかった。
 ニッコリ笑われるが目が笑っていない。
 そして、いつの間にかがっちりと下肢を固められていることに気が付き、エマは恐れおののく。

(こ、ここでしないわよね、いくらなんでも!)

 ジタバタしつつ、ありえなくもないかもと今までのことを思い出して蒼白になった。
 アリスは基本的には優しかった。だけど、悪い意味で研究熱心なのだ。
 誰に言っても信じてくれないだろうと思って黙って耐えていた(というか誰に相談していいかわからなかった)。けれど、憔悴した様子のエマを見て、母と義母は何かを察し、アリスに忠告をしてくれたらしい(どのようにかは聞かないことにしている)。

「エマ」

 アリスが微笑む。きれいな笑顔がすごく怖くてエマは脱力しながら観念した。

「ごめんなさい、もうしないから、許して」
「夜はちゃんと寝る?」
「はい。寝ます」
「それから、僕との時間、もう少し増やしてもいい?」

 今、この状況で断れる方法があったら教えてほしいと思った。

「次の日に差し障らない程度にしてくれるなら」

 妥協点を探ると、

「……うーん…………わかった」

 アリスも渋々頷く。ホッとした直後、エマは彼の腕に抱えられていた。

「でも、明日からね?」

 お仕置きだからと言われた気がした。顔をひきつらせるエマを見て、アリスはやれやれと言った様子で肩をすくめると、耳元で小さく囁く。

「図書館の本を買う予算がないんなら、子供自身に写本させてみたら?」
「……!」

 エマは顔を上げる。

「僕も小さなときにやった覚えがあるよ。子供の本なら勉強にもなるし――ってのはどうかな?」

 エマは目を瞬かせる。

「一人で悩まないで、一緒に考えよう。そうしたら、きっといい考えが浮かぶよ。一緒にいられる時間も増える。一石二鳥だと思わない?」

 アリスにギュッと抱きつくと、エマはその胸に頬を擦り寄せる。一緒に、という言葉が心の中に巣食った焦燥感を和らげていくのがわかった。


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