それは、恋の入り口 2

「あれ、お前一人か」

 顔を上げたアリスティティスの顔を見て、思わずミロンはぎょっとした。いつも飄々としている彼の顔が、明らかに疲れている。やつれていると言ってもいいかもしれない。

「顔、やばいぞお前」
「あれ、どうしてここに――あ、そうか。例の件か。おかえり。でもあいにく居ないんだ。もう僕だけだ」

 アリスティティスは額にかかった銀髪をかきあげながら目を彷徨わせた。
 ミロンは、あのあとエマナスティの口利きもあり、国の産業を司る工部に属することになったのだ。それで彼女の乳母、ルイザの監督する北部の硝子工房に視察に行った帰りだった。すでに夜が更けていたが、灯りがついていたから報告をしに執務室に寄ったのだ。
 ミロンはぐるりと部屋を見渡す。そしてアリスティティスが言うとおり、探し人エマナスティの姿が見つからないと、目線を戻した。
 アリスティティスは、かけていた眼鏡を外して目元を揉んでいる。その目の下に隈を見つける。いつも澄ましたアリスティティスの見せた余裕の無さに、悪戯心が湧き上がる。

「いくら新婚だからってあんまり根を詰めるなよ?」

 生温い笑みを浮かべてミロンはここぞとばかりに先輩面をする。アリスティティスに勝てるものなど歳と女の経験くらいしか思い当たらないのだ。
 アリスティティスの隈の理由はあからさまだ。なにせ新婚一ヶ月。蜜月を精一杯お楽しみなのだろう。

「エマナスティが王女らしくなったって、風のうわさに流れてきたけど、おまえのおかげ?」

 誇張されている可能性はあるけれど、あのエマナスティが、アリスティティスと目が合うだけで赤くなって恥じらうらしい。北部まで流れてくる噂話を聞いたとき、信じられないとルイザと笑いあった覚えがある。
 だが、更なる揶揄にも、アリスティティスは小さくため息を吐いただけ。こういう場合は照れて赤くなるのが定番だろうに、そんな素振りも見せない。そして、再び書類に目線を落として事務仕事を続行した。
 ふと見ると、机の脇に寄せられた書類が山となっている。まだ仕事をやめるつもりがないのだろうか。

(最初は仕事そっちのけで帰ったもんだけどな……?)

 ミロンが新婚だったときのことを思い出して、不思議に思っていると、アリスティティスがはっと顔を上げた。

「あ、そういえば。ミロンって、妃が居るよね」

 アリスティティス以外の王子は正妃どころか、側妃までいる。ヘルメスなど、ちょっと考えないと妃の数がわからないほどだ。

「なんだよ急に。そりゃ、いるにはいるけど……なんていうか、飾りに近いけどさ。俺はしばらくかまってもらえてない」

 当初は可愛かった妃は、結婚してもう五年もすると、なんというか外見がふっくらして、比例するように態度も大きくなった。王位に着けない王子はわかりやすく愛想を尽かされていて、夫婦仲が良いとはとても言えない。かと言って新たに美姫が寄って来ることもなく、たまに花街でぱっと遊ぶくらいしか楽しみがない。

「お前もそのうちわかると思うけど、今が一番いいときだ。夜遅くまで仕事なんかするな。部屋に帰れ」

 肩をたたいてそう諭すと、アリスティティスは一瞬迷ったあと切り出した。

「人生の先輩に、ちょっとだけ、相談があるんだけど」


 *


「――は?」

 アリスティティスが事実を端的に述べた。ミロンは口をぽかんと開けた。意味がわからない。聞き間違いだと思いたかった。

「おまえ、じゃあ、なに? 一緒のベッドで寝てるくせにやってないの?」

 アリスティティスは頷く。

「一月も? ――おまえ、どんだけマゾなわけ」
「まぞ?」

 ヘルメスから学んだような俗な言葉は、この清廉な王子様には通じないらしい。アリスティティスは眉を寄せる。ミロンはひとまず話を元に戻す。

「ああ、気にすんな。――って、ええと、お前それで平気なわけ」
「もちろん平気じゃないよ。だからエマが眠ってからしかベッドにいかない」
「……、それにしても、」

 あれだけの美少女――ミロンはそのことをたまに忘れそうになるが――に手を出さずに隣に寝ろと言われれば、それは寝不足にもなるだろう。ミロンはアリスティティスの隈の原因を理解してため息を吐く。

「どうして、なんだ? 念願かなっての結婚だろう?」

 問いながらも、なんとなく理解できるような気もした。
 まるで兄妹のように育ってきた二人だからか。それとも大事に思いすぎて手が出せないのか。そういう、彼に似合うお綺麗な理由なのだろう。答えを予想しながら待ち構えるミロンだったが、

「エマは、ほら、その、……だから」

 アリスティティスは言いにくそうに小さな声で呟いた。

「――――たくないんだ」

 しっかり声を拾ってしまったミロンは、予想以上に純朴な悩みに転びそうになる。

(おまえ、確か二十歳……だったよな?)

 呆れて見つめると、さすがに不甲斐ないという自覚はあるのだろう。アリスティティスはみるみる赤くなってそっぽを向いた。

(これだから童貞は)

 そんな悩み十代の頃に過ぎ去ってしまった。昔過ぎて思い出せない。いや、あったかどうかも思い出せない。

(あー、俺には、お手本が居たからなあ)

 つまりはヘルメスたちとつるんで馬鹿をやった経験のおかげで、悩む暇などなかったのだ。
 エマナスティにべったりで、そうできなかったアリスティティスを少し気の毒に思う。だけど、たぶん幸せな悩みの一部だ。

「それでも、欲しいんだろう?」

 アリスティティスは気まずそうにしながらも、しっかりとうなずいた。それを見てミロンはほっとする。機が熟すまでいつまでも耐えるなどと言い出せば、ある意味、正真正銘の変態だと思うからだった。

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