それは、恋の入り口 4

 シェリアが本を手に訪ねた部屋は、主が仕事中で人気がなかった。
 もともとアリスの使っていた部屋だ。一階に主たる居住区がある間取りをエマが便利だと気に入ったらしい。エマが王になるまでの期間を、家具だけを入れ替えて今までどおりに使うことにしたのだ。
 ここはシェリアが新婚時代を過ごした部屋でもあった。懐かしい気分になりながら、しばし過去の記憶にひたると、本を置く場所に頭を悩ませた。よく考えると書庫は二階だ。

「あの子忙しいもの。本棚に置いていてはいつ読むかわからないわ」

 ふと見ると隅の方に筆記机と小さな本棚が置いてある。ヨルゴスが仕事を持ち込んでいた懐かしい場所を、アリスも同じように使っているらしい。

「ここなら、絶対に見つけられるわよね」

 シェリアはさらさらと手紙を書くと、本に挟み込む。そして目立つ位置を選んで、本三冊を強引に差し込んだ。小難しい本たちの間で、その三冊はひときわ目立った。

「これなら大丈夫。うん、絶対に目につくわ」

 そして彼女は意気揚々と自室に戻る。目立つということは誰の目にでも留まるということに思いついて青くなったのは、夜が更けて、彼女の夫に一連の話を聞いてもらった時の事だった。


 *


 その晩、アリスが部屋に戻ると、エマが机の上に突っ伏して寝息を立てていた。アリスは軽く目を見開き、足音を立てないように近づいて、彼女の頬にそっとキスを落とした。日中働き詰めのエマは子供のように眠りが深いらしく、目を開けない。

「もしかして、待ってくれていたのかな」

 初夜に酔って眠ってしまった彼女は、そのことをひどく気に病んでいて、翌日、アリスの帰りを起きて待とうとしていた。
 だが、途中で堪えきれなくなったのだろう。ソファでうたた寝をしていたのだ。風邪を引いたらどうするの? と叱るとそれからは暖かな寝室で待つようになった。だがベッドに入ればすぐに眠りに落ちてしまう質らしく、それからは起きて待つことが無くなってアリスは安心していた。

(どうしたんだろ)

 エマを肘掛け椅子から抱き上げると微かに酒の匂いがした。サイドテーブルを見るとそこには酒瓶がある。あれ以来酒を口にしなくなった彼女だ。珍しいなと首を傾げつつ、エマを横抱きにしてベッドに運ぶと、ガウンを脱がせる。暗闇にいつもより薄手の寝間着が浮かび上がり、アリスはぎょっとする。目に焼き付く前にと慌てて毛布をかけようとしたときだった。

「アリス……?」

 エマが目を開けた。
 そして何を思ったか、突然神妙な顔をして、寝間着の胸元のリボンを解きだした。おぼつかない手つきのせいで、なかなかそれは解けない。苛立ったのか焦ったのか。引きちぎるようにエマがリボンを引っ張ると、闇に白い胸がこぼれ落ちた。

「エマ!?」

 エマの行動はそれだけに留まらない。固まるアリスを押し倒すと馬乗りになり、上着を脱がしにかかる。アリスは『やれ』と叫び立てる劣情を理性で殺すのに精一杯。頭の血が沸くようで、今にも卒倒しそうだった。
 だが僅差で勝利を得た理性を働かせ、震える彼女の手を掴むと、それ以上の暴挙をやめさせる。エマには、このような――男を誘う真似は似合わない。

(僕は、こんなのが最初だなんて、嫌だ。僕はもっと、)

「エマ、やめろ。そういうのは――そういうのは駄目だ。君らしくない」

 思わず鋭い声が出る。エマははっとしたように目を見開く。そして怯えたような目でアリスを見つめると、「ごめんなさい」と囁いて、アリスの上から飛び退き、毛布の中に逃げ込んだ。
 ほっとしたとたん、急激に胸がばくばくと音を立て始めてめまいがした。目に焼き付いたものを消さねば危ない。アリスは隣室へと逃げ出した。

「……いったいどうしたっていうんだ」

 呟いて水差しの水を飲む。深呼吸をして自分を落ち着かせると、アリスは先ほどエマが眠っていた筆記机に目を留めた。机の上には本が数冊置いてあり、一冊は読みかけのようだった。

「本?」

 酒も珍しいけれど読書も珍しい。近寄ったアリスは、本に目を落として片目を細めた。
 見開かれていたページに書かれていた内容が、すぐには頭に入ってこない。

「は……え? え、え、なんだ、これ」

 表紙を見ると『窈窕たる妻の心得(中)』とあった。脇に積まれているのは上巻と下巻だ。
 そこに書かれていたのはエマが今やろうとしたことそのもの。一体どういう場合に使うのか、頑なな男を落とす方法が図解付きで羅列してあった。
 中でこの内容? と思いつつ恐る恐る下巻をめくると、あまりのいかがわしさに叫びだしたくなる。

「これのどこが、窈窕な妻だ……!」

 窈窕とはたしか、しとやかな妻みたいな意味があったはずだが、本の内容はあまりにもそぐわない。こみ上げた怒りをつい本にぶつけてしまう。激しく本を閉じたとたん、本に挟んであったのか、ひらひらと何かが床に落ちる。どうやら手紙だった。アリスは拾い上げて目を通すと、あまりのことに天井を仰ぐ。


 これを読んで勉強をすること。
 いつまでも孫の顔が見れないのは困りますからね! 
 勇気が出ないということであれば、お酒に頼りなさい。


(この程度の内容も知らないと思われてたのか……)

 アリスはじわじわと血の気が引いていく頭の隅でそんなことを思った。
 名はないけれど文面と筆跡から、差出人は母シェリアだろう。
 きっとアリスの不甲斐なさをどこからか聞いての行動だ。それ自体は申し訳なくて情けなくて仕方がないが、……最悪なことにこの手紙には宛名がない。アリスには自分に宛てたものだとわかるけれど、エマはきっと義母から自分宛ての助言だと思ったのだろう。なんといっても本の題名には『妻』と入っているのだから。
 だから、エマは、姑の助言を素直に聞いて、本を読んで、実践しようとした。

「は は う え ……!」

 母は単に昔と同じようにアリスに本を持ってきてくれただけのことで、悪気はまったくないのだろう。けれど、今回に限っては最悪の手だと思った。

(いや、最悪なのは――)

 エマが何を思ってアリスをあのように誘ったかと思うと、胸が締め付けられる気がした。
 飛ぶようにして寝室の扉をつかむ。力任せに開こうとしたけれど開かない。いつの間にか中から鍵がかかっていた。

「エマ、開けて」

「嫌。今、顔、見たくない」

 鋭く返ってきた声が湿っているように思えて、アリスは動揺する。

「エマ、ごめん。僕は――――違うんだ」

 なんと弁明すればいいのかわからない。何を言ってもいいわけになってしまう。たとえ発端が母の策のせいだったとしても、さきほどアリスはエマを絶対に拒絶すべきではなかった。母の策を最悪なものにしてしまったのは、アリスだった。
 静かな寝室から鼻をすするような音が響いた気がして、アリスは思わず扉に体当りする。三回目に扉の蝶番がはずれ、扉が内側に倒れる。 
 だが、寝室に飛び込んだ時にはエマの姿は無く、窓のカーテンが揺れているだけだった。

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