それは、恋の入り口 5

 エマは久々に潜り込んだ両親の部屋で、母の膝に顔を埋めてこどものようにしゃくりあげる。
 温かく柔らかい手が背をなでてくれるけれど、涙はなかなか収まらない。

(アリスのばかばかばかばかばか)

 現状を打開したくて悩んでいた時に目についた本。義母からの助言つきで、少し言葉はきつくともエマたちのことを考えてのことだとすぐに分かったし、言われていることはもっともだと思った。待っていても埒が明かないのならと、藁にもすがる思いで読んで実行したというのに、――結果は散々だった。

 本の解説に添えられていた『これを学べば、どんな男でも落ちる』という言葉がエマに殴りかかる。あの通りにして駄目だということは、つまりは自分には女性としての魅力がないということなのだ。それが一番堪えていた。

 緊張で震えるくらいだったけれど、お酒はこの間みたいにたくさんは飲まずに一口だけにして。さらに完全に寝入らないようにと筆記机で読書――というか予習をして待った。
 本にはまずは視覚で誘うと書いてあったから、少し色っぽい寝間着を着た。
 恥ずかしかったから寝たふりをしてしまったけれど、寝間着はまったく効力を発せずあっさり寝かしつけられそうになった。だから、決死の思いで自らリボンを解き、こちらから押し倒した。

 あれでも駄目だとなれば、下巻に頼るしかない。だが、中巻の内容でアリスに「らしくない」と拒まれるのであれば、下巻の内容はとても出来そうにない。となるとエマにはもう打つ手が無い。ここ一ヶ月間、心の中で否定していたけれど、さすがに認めなければならない。つまるところ、アリスはエマが欲しくないのだ。

 国を豊かにするという理想の下、パートナーとして今までと同じようにそばにいるだけで、彼はきっと満足なのだ。

 エマがアリスに求めたのはそういう役目だったけれど、それならわざわざ夫婦になる必要はないと思う。宰相として置くのではなく、王配にするということは、彼のすべてを自分のものにしたいと思ったからで。

 キスで関係が変わった時のことを思い出すと、さらに関係を深めることは怖かった。けれど、キスの後、紆余曲折はあったけれど、エマは異性としてアリスのことが好きになった。その先を超えれば、彼のことをもっと好きになると思った。乗り越えてみたいと思ったのだ。だから、彼が欲しいと言ったのだ。そこには明確な意思表示があったと思うのに。アリスだって納得したから結婚したのだと思っていたのに。

「わたし、アリスがわからない……」

 普段なら決して漏らさない弱音だった。母のやさしい手がエマの頭をなでてくれる。ようやく少しだけ涙が収まったとき、母が静かに口を開いた。

「エマ、何も心配しなくて大丈夫。アリスにはお仕置きをしておきますからね」

 優しいけれどどこか冷ややかなその声に顔を上げる。なんとなく胸騒ぎがして、部屋を見回すと、先程までいた父がいない。

「お父様は?」

 嫌な予感に思わず声が裏返ると、母は優しく笑った。

「隣の部屋よ。女同士の話だから出て行ってもらったの」

 いつもどおりの笑顔にホッとしたエマに、母は温かい飲み物を薦めた。とろとろとした熱く少しだけ辛い飲み物で、風邪の時に呑んだりするものだった。体がぽかぽかと温まったエマは、そのままウトウトとし始める。そうして、見た夢のなかでは、父が怖い顔でアリスを説得してくれていた。


 *


 夜がしらじらと明けはじめていた。
 泣きつかれたエマがルティリクス達のベッドを占領している。そのとなりで妻が添い寝をしていた。

 久々の夜中の闖入者に、ルティリクスは淡々と剣を抜いた。窓からの侵入など娘以外にあり得なかったのだ。だがそれがその娘だとわかったとたん、そして涙を見たとたん、夜中にもかかわらず、アリスのところに向かおうとした。

 エマが何に悩んでいるのかは、どこか憂鬱そうな彼女と、いつも夜遅くまで働いているアリスを知れば察することは出来た。ルティリクスの新婚時代を思うと、仕事など午前中に終わらせる勢いだったというのに。新婚の男としては、どう考えても不自然だったのだ。
 エマが何も言わないのならば、外野が口を出すことでもないと思っていた。だが、こうして泣かすのならば話は別だ。

 帯剣して上着を羽織ったルティリクスを「明日にしないと騒ぎになるでしょう。このことは表沙汰にならないほうがいいわ」と、妻は淡々と、しかし有無を言わさない迫力で止めた。
 筋の通った言葉にルティリクスはぐっとこらえて、指示されるままに隣室にいたのだけれど、やはり納得がいかなかった。

「メイサ。おまえさっきなぜ止めた? 娘をあそこまでコケにされれば、ヨルゴスの息子だとしても許せないんだが」

 妻はベッドから起き上がると、寝乱れてしまっている長い赤い髪を指で梳かす。艶めかしい仕草にルティリクスは舌打ちをしたい気分になる。夜の始まりに彼女の髪を乱したのはルティリクスだ。彼は必要以上に気が立っている原因を自覚していた。

「私もシェリアの息子だからと思って見守っていたけれどね。……ちょっとあなたの方法じゃあ優しすぎる・・・・・と思うの」

 どうやら妻は妻で静かに怒っているようだった。
 彼女が思いつめるとろくな事がないのをよく知っているルティリクスは、わずかに怯む。

「メイサ、おまえ何か妙なことを企んでないだろうな」

「そんなことないわ。私は単に、あなたと同じようにエマが大事なだけ。こんな風に泣かせるような男には預けられないと思っているだけよ」

 そして、ルティリクスの耳元で、アリスが一番堪えるだろうと思われる仕置を口にした。
 ルティリクスが哀れみを感じるくらいの仕打ちだった。

「本気か? いや、一応、あいつの言い分を聞いてやったほうが」

 ルティリクスが渋っても、

「いいえ。アリスには自分が何を失いかけているか、きちんと理解してもらいます」

 何を考えているのだろうか。珍しく譲らない妻は、妖艶に微笑む。それは見ている方がゾッとするような笑顔で、母に似てきたなとルティリクスは思った。

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