それは、恋の入り口 7

 部屋では女達が企み事を開始して、男二人は外に追い出された。夜空からは星のささやかな光とともに冷たい空気が降ってくる。いくらか感傷的な気分になりつつルティリクスがため息を吐くと、それは白く曇った。
 アウストラリスの夜は、いつでも人肌の暖かさを恋しくさせる。だからこそ、わからない。娘婿の不可解な行動が。いや、わからないというよりは、あの年の頃のことを忘れてしまっているのかもしれないと彼は思った。

「なあルティリクス」
「なんだ」
「好きな女性を抱けない理由ってなんだろうね」
「俺も考えてた……が、」
「が?」

 ルティリクスは過去を懐かしみながら目を細めたあと、空に向かって伸びをした。

「…………さっぱりわからないな」
「ふうん、僕も・・だ」

 隠し事に気づいたのだろうか。ヨルゴスが意味ありげに笑ってうそぶいた。ルティリクスは赤い髪をかき上げて静かに天を仰いでごまかした。だってそれは、相棒にだって話す気になれない特別な話だったから。

 大事な女だからこそ、愛しているからという、ただそれだけの理由で肌を重ねたい。他の理由でなど抱きたくない。

 アリスにもそんな想いがあるのではないか。結婚したから。子供が必要だから。そんな細かい理由に縛られたくないのではないか。ならばもう後は放っておくしかないと思うのだけれど、母たちはやっぱり女で、繊細デリケートな男心がわからない。
 気の毒に――そんな気分が湧き上がるけれど、エマの涙を思い出すと、まあいいか、少しは苦しめ――ととたんに怒りが勝ってしまうルティリクスであった。


 * * *


 部屋に戻るとすぐに慌ただしく長旅の準備が始まった。大きなものは侍従に任せるが、本など、個人的な荷物は自分でまとめるのはいつもの事だった。そうしながら、アリスは大きくため息を吐く。目の端に映る寝室への扉を見ると余計に鬱々としてしまう。昨夜のことももちろんだけれど、

『だめ、アリス。――いや』

 アリスの耳には、エマの恐怖に染まった声が張り付いてしまっていたからだった。
 アリスは、夫婦として過ごす初めての夜に、エマに拒絶されたのだ。
 エマに拒まれたのは初めてではない。
 最初にキスをしたあの夜だ。あの時はエマの方にその気が全く無かったのだから仕方がない。
 だけど初夜となれば話は全く別だ。アリスだってその気・・・で覚悟を決めていたし、そのつもり・・・・・で寝室に入った。
 だが、新しく用意された二人のための寝台には、乙女らしい寝間着に身を包みながらも、緊張のし過ぎで酒を飲んでしまったエマがいた。彼女は大丈夫だと言ったけれど、あきらかに正体がない状態だった。迷いながらも彼女を寝台に押し倒したアリスだったけれど……いざというときに、彼女が「やっぱり怖い、……怖いの」と言って泣いたのだ。

 前回とはわけが違う。怖いと言われても――という状態だったのだけれど、結局アリスは泣いて震えるエマには手を出せなかった。
 だって、あの怖いもの知らずのエマが言う、『怖い』だ。彼女からそんな弱気な言葉を聞いたのは初めてだったし、よっぽどのことだ。酒を飲んだからこそ零れ出た、心からの本音だろう。
 経験豊富な男ならば乗り切れたのかもしれないが、アリスは経験が皆無だった。諸々の事情により一線を越えることは出来なかったのだ。
 その晩、アリスは悟りの境地で決めたのだ。

『君が望むまでは、何もしないから』

 泣き濡れる花嫁を前に、アリスは宣言した。
 彼女の心の準備が出来るまでは、待とうと決めた。
 そしてエマはそのことをきれいさっぱり忘れていたようだったけれど、アリスは自らの誓いを忠実に守っていたのだった。
 昨夜、あんなふうにアリスを誘ってきたエマだが、酒で恐怖をごまかしているようだったら、本音ではまだまだ恐いのだと思った。だから、アリスが踏みとどまらなかったら、きっと、最後には同じようにエマは泣いていたと思う。

 アリスの心の底には、常に、同じてつを踏みたくはないという恐怖があった。正直、もう一度拒まれたら、今度こそ立ち直れない自信があった。
 エマを泣かせたくない、怖がらせたくない。アリスは心からそう思う。だがそれは、嫌われたくない、軽蔑されたくない………そんな気持ちの裏返しだった。己の臆病さが身に沁みて、情けなくて仕方ない。

 今まで、こんな願いは抱いたことはなかったけれど、今だけは経験豊富な男が羨ましい。余裕をもって、彼女を導いてあげられたらどんなにいいだろうと思うのだ。
 恥を忍んでミロンに相談しても、半笑いで他の女を紹介してやろうかと言われた。けれど、いくら手詰まりだと感じていても、そこまで愚かにはなれない。そんなことをするくらいなら、エマに挑んで失敗したほうがまだましだった。丁重にお断りすると、なるようにしかならないと言われて、それ以上は相手にしてもらえなかった。

 机の上に置いた瓶には怪しげな液体が詰まっている。ミロンが持ってきてくれた、ジョイアから輸入した高級品。亀は標本で見たことがあるけれど、そういう感じの絵柄が入っていて、なんだかいかがわしいことこの上ない。しかも「おまえは考え過ぎなんだ。むしろ理性を捨てろ」との助言アドバイス付きだ。だが、理性を捨てるなど冗談じゃない。理性とはアリスそのものである。自分を見失ってよかったことなど今までに一度だってないのだ。
 また、男としての意地も一応ある。いらないと突っぱねたが、結局「まあまあ、ものは試しって言うだろう」と強引に持たされてしまった。
 他にも『王女夫妻が新婚旅行』という婉曲された(だが事実であろう)話を聞きつけた方方から贈り物が届いたのだが……中身はたいてい同じようなものばかり。事情を知るミロン以外は、おそらく『からかい』を込めているのだろう。だが、ずらりと並べてしまうと、不甲斐ない自分を笑われているかに思えて遠い目になるアリスなのだった。

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