それは、恋の入り口 9

 気を抜くとため息が止まらないような気がした。エマは腹に力を入れると、でかかったため息を飲み込む。
 うっかり口を開けようものならば、口の中が砂でジャリジャリになるのだ。
 あまりに味気ない会話に嫌気が差したエマは、箱のなかを飛び出していた。馬に乗りたいと言うと、アリスはホッとしたようにうなずいたのだ。彼の方も、きっと気詰まりだったのだろう。彼は馬車に乗ったまま。以前の怪我の傷がまだ少し痛むらしい。

(……キスされると思ったのに)

 食い入るように見つめられ、エマは引き寄せられそうなのをぐっとこらえて待ったのだ。自分から動けば、この間の夜の二の舞になってしまうと思ったから。
 だけど結局彼がそうすることはなく、だけど結局彼がそうすることはなく、機嫌を損ねたかのように顔をしかめて、寝たふりをし始めてしまった。 
 エマには意味がわからなかった。
 そして、謝罪が受け入れられなかったのだと思い当たると、そこまで怒らせてしまったのだろうかと不安になった。
 彼は静止を振りきって逃げ出したエマに、愛想を尽かしたのだろうか。こうしてついてきてくれたのも王配としての――臣下としての義務を果たすためなのだろうか。
 そんな気さえし始めて、エマは動揺した。昨日母に与えられた自信はみるみるうちにしぼんでいき、見る影もない。
 真意を問いただしたい気もしたけれど、取り返しがつかないことになりそうでためらわれる。というのも、『窈窕たる妻の心得』の上巻には男を立てろと書いてあったからだ。大抵の男は一歩後ろを歩み、慎ましく支えてくれる女を好むと。
 つまり……エマみたいに――王になりたいなどと言うような主義主張の激しい女は、実はアリスの真の好みから外れるということだろうか? 
 エマは思い出す。彼が武術大会の最終日に皆に向かって婚約を宣言した後のことを。

『夫としては対等であることを放棄したりはしないよ? それに主導権の大半は君に譲るけれど――』

 彼は続けてエマだけに聞こえるように言ったのだ。
『寝室での主導権は握らせてもらう』と。
 その彼の領分でエマが出すぎたから、アリスは、あんな風にらしくないと言って怒ったのかもしれない。
 不安はどんどんと膨らみ続ける。気持ちはくじけてしまう寸前だった。
 なだめられるのが常のエマは、アリスをなだめる方法が全くわからない。切り札の謝罪が無効となってしまえばもうお手上げだ。

(お母様……失敗だったかもしれない、この旅)

 馬と馬車に分かれ、そのまま二人はろくな対話をすることもないままに、ムフリッドへの道を進むのだった。


 *

 月光が窓から差し込み、馬車の中にまろやかな線を描いた。エマの寝顔が照らされ、アリスは何度目かわからない深い溜息をつく。

(ムフリッドまで、あと、一日)

 アリスはひたすら指折り数えて、その日を待っていた。
 昼間はエマが馬で進んでくれるので助かるのだけれど、車中泊の夜は逃げ場がない。溢れそうな熱情を抑えるのに必死で、ほとんど眠れなかった。状況は劣勢に傾く一方だが、終わりが見えるからこそ耐えられると思った。
 アリスは、ジョイアに入る前には彼女を手に入れたいと密かに目論んでいた。というのも、ジョイアに入れば恋敵ルキアが待っているからだ。こんな中途半端な状態で、エマを彼に会わせるというのは避けたかった。
 ムフリッドのシトゥラ家までたどり着けば、夫婦である二人には同じ部屋が用意されるだろう。一応新婚旅行という(裏の)名目があるのであるから、事に至っても問題ない。一番良い時機だと思っていたのだ。

(だから、それまでは)

 目を閉じ、心から出来うる限りエマを追い出し、仕事のことを考える。――考えようと必死だった。
 だが、すぐ傍にいる愛しい女性のことを考えないようにするというのは、どだい無理な話だった。
 前の座席で小さくなって眠るエマを見つめて、アリスは大きくため息を吐く。
 彼女が眠っていてくれる間は理性がしっかり働くのは、結婚して一月の鍛錬・・の賜物かもしれない。
 それでも座席はアリスが眠るのには少し狭かったし、砂漠の夜は寒かった。
 寄り添って、体温をわけあって眠ることが出来たなら――そんな想像をしかけて、アリスは慌てて頭を振った。

(ちょっとでも油断するとこうだ)

 目を閉じ、眉間を軽く揉む。

(とにかく、あと一日の我慢)

 ここを乗り切って。そして――シトゥラの屋敷で、今度こそ、彼女を手に入れる。

(エマ――今度は、こわがらないでくれ)

 アリスは祈るようにして、寝息を立てて眠るエマの髪を撫でる。と、瞼がピクリと小さく震え、頬がこわばる。アリスは慌てて触れるのを止めた。だが、彼女は結局目を開けることなく、夢の中へと帰っていく。
 ほっとしながら、あどけない寝顔を見ていると、滑らかな頬に無性に口付けたくなった。けれど、それをすると歯止めが効かないのもわかっていた。彼女から離れたアリスは、再び固く目を閉じて理性の箱に鍵をかけ、夢の中へ逃げ場を求める。


 だが、翌朝のこと。
 馬車から降りたエマは前日と同じように愛馬にまたがると、アリスを見つめた。何か問うような視線を投げたかと思うと、「ごめんなさい、わたし、もう限界」と言い捨て、突如アリスを置いて逃亡・・した。

(は――?)

 青天の霹靂とはこういうことだろうか。
 それは、まるでアリスの企みから逃れるかのようだった。
 朝日に染まる山へと向かう彼女に、とある考えが胸を支配する。

(東――って、ジョイア!? 限界って――僕に幻滅したのか――!?)

「エマ!」

 護衛の馬を借り、慌てて追いかけようとして愕然とする。怪我の治りきれていないアリスはエマには到底追いつけない。そして、乗馬の得意な彼女に追いつける人間はここにはいない。
 それでも馬を駆って追いかけようとしたけれど、みるみるうちに引き離される。
 エマは豆粒のようになり、やがて高度を上げ、力を増し始める朝日の中に飲み込まれる。

(諦めてたまるか――)

 アリスは歯を食いしばると、軋む体に鞭を打ち、必死で砂漠を駆けた。

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