それは、恋の入り口 10

 エマがムフリッドのシトゥラ家に着いたのは、王都を出て、五日目の夕刻だった。
 馬から降りると「うわあ、エマ殿下!」と慌てる門番の静止を振り切って、エマは屋敷に上がり込んだ。母の実家であるここは、エマにとっては故郷のようなもの。幼い頃から何度も訪れている、心が許せる場所だった。
 お待ち下さいー! と叫ぶ門番の声を無視しながら、エマは思う。

(そうよ、わたし、待つのは性に合わないの)

 ――この旅で身に沁みたエマだった。
 エマは昼間は馬で駆け、夜は疲れでぐっすり眠る。一方、アリスは慣れない馬車では熟睡できないのか、一日中目を閉じてうつらうつらしているという状態だった。
 結局王都にいるのと同じようなすれ違い生活が続き、徒労感はエマを蝕んでいた。
 同じ馬車で眠るアリスに、触れたいと何度思ったことか。
 私の事、好きなの? と問いたいと、何度思ったことか。
 そこに、昨夜のアリスの思わせぶりな行為。昔のように髪を撫でるまではするくせに、それ以上手を出してこない。限界を感じたエマだったけれど、

『君らしくない』

 という言葉がまたもやよぎって動きが取れなかった。
 こういうのを蛇の生殺しとでも言うのだろうか。

(わたしらしくない? わたしらしいって、一体何)

 苛立った末の早駆けである。何もかも全て振り切って駆けている間に、ずいぶんとスッキリした。だけど、気づいた時には一人になってしまっていた。だれもエマに付いてこれなかったのだ。

「これはこれはエマ殿下」

 奥から現れたのはシトゥラの当主である大叔父カイサルだ。彼は祖母シャウラの兄で、母メイサの叔父でもある。前の当主が儚くなってから今までと、ずいぶん長くこの座にいる。齢六十を過ぎているが、まだまだ現役で家を取り仕切っている。この家の縁者が硝子工房で多く働いているのだけれど、しっかりと教育されていると評判はいい。

「――王配殿下はどちらに?」

 カイサルは眉をしかめてエマの後ろを確認する。

「わたしだけ早駆けしたの。あと一刻もすれば着くと思うわ」
「別々でいらしたので? お立場をお忘れですか。それに――どれだけアリス殿下が心配されておられるか」

 カイサルは咎めるようにエマを見る。大叔父は昔から穏やかだけれど、筋の通らないことが嫌いな人だった。エマが軽率な行動をすると、「臣下の首が飛ぶのですよ」と静かに諌めてくれたものだが、今もそれは変わらないようだ。気圧されかけたけれど、エマは「一応、無事についたと伝令を出しておいて」と言い置くと屋内へと進む。
 やれやれ、夫を心配させまくるところはメイサにそっくりだ、とため息を吐く大叔父の言葉を耳半分に流すと、砂よけの布を渡しつつ、問いかける。

「悪いけれど、お湯を使わせてもらってもいい? 砂まみれなの」
「それはもちろん。ご用意出来ておりますので、風呂へどうぞ」

 井戸が掘り当てられる前は、砂漠の真ん中にあるこの土地では、水は許可無く使えなかった。今は随分緩和されたのだけれども、母たちが癖でいつもそう問うので、エマまでその癖が付いている。



 風呂は昔と同じく蒸し風呂だった。王宮では父の代から使い出したという、ジョイア式の浴槽にお湯をはるタイプの風呂が普及しているけれど、ここでは変わらずアウストラリス式を使っている。
 木でできた小さな部屋の隅には熱せられた岩がある。そこに水をかけると蒸気が部屋に立ち込めた。瞬く間に汗が吹き出して、体に巻きつけた布を湿らせていく。幼いころは息がうまくできなくてすぐに逃げ出したものだけれど、毛穴から汚れが浮き出すこの感じは慣れるとたまらない。

(ウジウジした気分も、ここで流してしまおう。そうよ、アリスに怒られるのなんて――慣れてるじゃない。何を今更怖がってるの)

 半刻ほど過ぎた頃だろうか。ややして、エマは立ちあがる。たっぷりと水が貯められた水瓶に近づくと、桶で水をすくって頭からかぶる。そうして汗とともに吹き出た悩みを流していた時だった。
 ばたん、と風呂の扉が開いたかと思うと、人影が飛び込んできた。砂嵐のよう――そう思ったのもあながち間違いではない。

「エマ!」

 それは、砂まみれになって、血相を変えたアリスだった。

「な、なんで!?」

 エマが隊列を離れてから一刻経っていないはずだ。アリスは乗馬が得意でないし、なにより怪我もある。こんなに早く追いつくためには相当無理をしなければならないはず。
 焦ってエマはアリスを見る。顔色は、はっきりと悪い。だが、それどころではないと言うようにアリスはエマの肩を掴んだ。

「良かった――僕は、てっきり、もうジョイアに行ったかと思って――だけど足あとがこっちに向かってたから」

 珍しいく声がひどく上ずっていて、エマは驚いた。カイサルの言葉が急に蘇る。

 ――どれだけ心配していると思うのですか。

「ジョイア? わたし単に先に行くってつもりで――」

 それ以外何があるのだと思っていると、アリスはエマの肩に頭をのせる。そして呻くように言う。

「僕に愛想を尽かしたのかと思った。ルキアのところに行ったかと思ったんだ」

「え――」

 エマは目を見開く。それは、エマの台詞だと思ったのだ。

「わたし、アリスがわたしに呆れたんだと思ってた。わたしがはしたない真似をしたからあなたが怒ったんだって思って――」

 すると今度はアリスが驚愕で顔をこわばらせる。

「そんなわけない! 怒ってなんか無い。……怒ったのは、自分に対してだ。君にあんな真似をさせた僕が不甲斐ないからだ」
「おこって、ないの? わたし、」

 誤解だったのか。ほっとすると、無意識にこらえていた恐ろしさが目から溢れ出る。とたん、アリスが凄まじい勢いでエマを抱き寄せた。

「ごめん」

 アリスはエマの肩に顔を埋める。彼の右手はエマの腰を引き寄せ、もう一方の手はエマの背を撫でる。
 懐かしい温かさに、心がほぐれていく。

(あぁ――よかった……って、え……ええ!?)

 だが、肌に直接触れた手に、エマは、ここがどこで自分がどういう格好をしているのかに思い当たった。

「ちょっと! アリス、わたし今、入浴中で――!」

 だけどアリスは場所もエマの格好も全く頓着しないままに、エマをさらに抱き締める。「って、アリス、砂!」エマが彼の髪から落ちた砂埃にけほけほと咳をすると、彼はハッとしたように上着を脱ぎ捨てる。傍にあった水桶の水を次々に頭からかぶる。
 似合わない荒々しい動作に、エマは唖然とすると同時に、彼から目を逸らすはめになる。銀の髪から水を滴らせ、薄いシャツを均整の取れた体に張り付かせたアリスは、どうしようもなく艶めかしかった。放たれる甘い眼差しに、全身が燃え上がるように熱くなる。見てはいけないものを見たかのようで俯くと、彼はエマを抱き上げて浴室を出た。

「カイサル殿、晩餐の前ですが、少し部屋を借ります。掃除は後でしますから」

 二人のあられもない姿を気にすることもなく、大叔父は、若いっていいなあとひとりごち、クスクスと笑うと、「部屋は二階の右端です。お転婆な妻にはしっかりお仕置きをしてやってくださいね」とあっさり案内する。どうやら、大叔父はアリスの味方をすることにしたらしい。



 闇の中では、暖炉の炎がゆらゆら、揺らめいていた。

「ちょ、アリス――ん」

 部屋に入るなり、アリスはエマを寝台に押し付ける。くちづけで言葉を奪いながら、彼はそのままエマの体に巻き付けられた濡れた布を取り払うと、自らももどかしげにシャツを脱ぎ捨てた。

(わ――)

 エマが体を隠す間もなく、濡れた熱い肌がエマの肌に重なる。
 これほど密着したのは――記憶のあやしすぎる初夜は除き――初めてかもしれない。
 喉が干上がる。あまりの性急さに目が回りそうだった。
 だけど、待ち焦がれたくちづけが甘すぎて、あまりに熱すぎて、エマはいつしか夢中になる。
 寝台に埋もれるくらいに押し付けられる。くちづけは更に深まり、エマは息苦しさにあえいだ。
 アリスは、ひたむきにエマの唇を求めた。舌を絡められるのは、最初のあの時以来だったけれど、前と同じ行為とは思えないくらいに、それは甘く、愛おしい行為だった。
 体の芯が燃え、あまりに心地よくて、離れがたい。そんな感覚は初めてだ。
 力を失った体が何処かへ沈んでいく。水もないのに溺れそうな心地がして、エマがアリスの腕を掴むと、彼はエマの腰を両腕で捉え、痛いほどに抱きしめる。そしてくちづけを中断すると、吐息に混ぜて望みを口にした。

「エマ――エマ、僕は、君が、欲しい」

 彼とエマの間にある僅かな隙間に言葉が落ちる。燃えるような目でアリスはそう言ったあと、エマの震える手に手のひらを重ね、指と指を絡める。

「でも、君が怖いなら――ここで止める」

 痛みを堪える顔で彼は言った。
 エマはそれを聞いてようやくわかった。アリスがエマに手を出さなかった理由が。
 彼はエマが無意識に怖がっていることを察していて、エマの心の準備ができるまで、待ってくれていたのだ。この間、ああやって拒んだのも、エマが無理をしていることを理解していたから。
 そうだった。こういう人だった。エマを理解し、全部受け入れてくれる――そういう人だった。
 どうしようもなく愛しくて、涙が出そうになりながらも、エマは頷いた。

「アリス、わたし、……怖いわ」

 エマは正直に口にした。彼ならエマの心をさらけ出しても、きっと受け入れてくれる。そう思った。
 アリスがしかたないな、とでも言うように苦笑いをする。そうして身体を離そうとする彼の首にエマはしがみついた。

「だけど――アリスなら平気。いいえ、違うわね。怖いけど、同じくらいに欲しいの――わたしが・・・・もう・・待てないの・・・・・

 アリスはギュッと目をつぶり、深く息を吸う。それがまるで助走のように思えた次の瞬間、彼は内に溜め込んでいた熱をエマに全てぶつけてきたのだった。