それは、恋の入り口 11

 銀の長いまつげが彼の精悍な頬に影を落としている。精悍などと思ったことは今までに一度もなかったのに不思議だ。けれど、今目の前にいるアリスは、昨日までエマが知っていたアリスとは別の人に見えた。エマの内面の変化のせいだろうか。しっかりと魅力的な男性に見えるのだ。今まで意識せずにいた自分とはまるで違う体。今はもう、違いをいちいち意識せずにいられない。
 アリスの硬く引き締まった肌は暖かくて、触れていて心地よい。安心して眠りこけてしまったのだけれど、問題はエマも彼と同じように肌に何も身に着けていないことだ。
 夜はとうに明けている。厚いカーテンの間から差し込む陽光が鋭い線を引いているし、下手をするともう昼かもしれない。
 結局あのあと晩餐には行かなかった。行けなかった、が正しいかもしれない。カイサルも予めわかっていたのか、夕食は部屋に運ばれたのだ。その夕食も食べかけのまま、テーブルで干からびている。食べる間も惜しい――そんな嵐のような夜だった。

(もう、起きないと――出発しないと、予定がずれこんじゃう)

 だがエマが身じろぎした瞬間、彼女を抱きかかえて眠っていたアリスが目を開いた。
 あまりの目覚めの良さにエマは驚く。

「寝てなかったの?」
「今起きた」
「じゃあ、準備をしましょう?」
「ほんとに、行くの?」

 アリスが恨めしげにエマを見つめる。
 昨夜アリスはこの地での滞在を一日伸ばさないかと提案してきた。エマは「だめよ」と流していたのだけれど、諦めていなかったらしい。

「じゃあなんのためにここまで来たの? わざわざ砂漠超えしてまでここに来たのは、なんのため? ジョイアに行くためでしょ」

 仕事熱心なはずな彼の珍しい申し出を、怪訝に思って見つめると、

「違うよ。この旅は、僕と君がこうなる・・・・ためのものだよ。視察とか諸々はおまけでしかない」
 アリスは何を言っているんだと呆れた顔をした。
「僕に逃げ場を与えないために、王妃陛下が時と場所を与えてくださったんじゃないか」
「え、そうなの」
「そういうの、案外鈍いよね、エマって」

 アリスはエマを引き寄せて唇をついばんだ。もう全く遠慮がないのがわかって苦笑いが出る。でもそれはエマだって同じだ。超えるべきを超えると、こんなにも、違うのだろうか。
 アリスの眼差しも、声も、もちろん唇も何もかもが甘く感じる。いくら味わってもまだ足りないのか、とたん胸が騒ぎ出して収まる気配を見せない。アリスは甘い毒を持っているのかもしれない。中毒になってしまったかのようで、いくらでも欲しくなる。怖いくらいだった。
 じんわりと浸っていると、唇が割られた。当たり前に受け入れようとして、はたと我に返る。

「だから、出立の準備をしないと……多分、大叔父様も呆れてる」

 部屋の外で何と言われているかが正直怖いのだ。仕事を放り出して、盛大な朝寝坊をした上に、明るいうちからこんなことをしている。

「カイサル殿はむしろ応援してる方じゃないのかな……」

 エマは渋面を作った。それを言われると何も言えない気がした。大叔父はなにもかもわかっているという様子で、エマたちに必要な物をすべて届けてくれたのだ。食事はもちろん、身体を清めるための湯や、身体を拭うための布、替えのシーツまで。外で耳をそばだてているのではないかと思えるほどの気の利き方で、逆に気まずくてしょうが無い。

「わたし、すごく気まずいんだけど……」

 自分の部屋でならまだしも、母の実家だ。だがアリスは何も気にした様子がない。そういう周囲の目を気にしないところはエマには理解できない。

「新婚旅行なんだから、当たり前だよ」
「って、それは表向きの理由じゃないわよ」
「いつもまじめに仕事をしてるんだから、たまにはいいの」

 アリスは珍しく建前を本音で書き直し、エマを寝台に押し付けた。

「ここでも遠慮する君のことだからね。よそで――特にジョイアでなんて、こんなこと、出来ないだろう? 行ったらしばらく出来ない。僕はまだ全然足りない。何年待ったと思うんだ?」

 耳元で、腰が砕けそうな声で囁かれると、エマにはもう抵抗するすべがなかった。


 *


 そのころ王宮では、メイサが女官を集めていた。隣でシェリアが険悪な顔をしているのが恐ろしいのだろうか。皆、目が泳いでいる。

「エマにお酒を勧めたのは一体誰なのかしら」

 並べられたのは、エマと同じ年頃の、美しい女官たちが五名。エマの身の回りの世話をさせるために集めた、家柄の良い・・・・・令嬢たちだ。それがどうやらまずかったのかもしれない――とメイサはため息を吐く。
 エマは昔から剣を振り回し、馬に乗るという、娘としては少し規格外なところがあったため、同じ年頃の少女との交流があまりないのだ。だからだろうか。彼女たちと打ち解けていないし、打ち解ける必要性さえ感じていないような気がする。考え方が、一匹狼の夫に影響されすぎているのだった。
 進んで心を開かないエマに、女官がどのような感情を持つかは想像に難くない。情の湧かない相手なら、決断も楽だったに違いない。
 緊張をほぐすためのお酒とエマは言った。けれど、飲み過ぎがどんな結果を引き起こすかくらい、少し考えればわかるはず。初夜に泥酔した花嫁なんて、相手がアリスでなければ不和の原因になってもおかしくないのだ。
 そこでメイサは思いついた。その不和を狙った者が居たとしたら? と。

「カリスタだったかしら? 記録を見させてもらったけれど、あなたがあの夜は寝室に控えていたわよね」

 蒼白な顔をした女官がブルブルと震えだす。
 黙って眉間にしわを寄せていたシェリアが、そこで急に笑顔を浮かべて口を開いた。

「カリスタとやら。まだチャンスは有ると思ったのかしら? そうね。王配になるとアリスは言ったけれど、まだ確定はしていないものね? エマ王女と別れてしまえば、気を変えて王になるかもしれない。なにしろ、アリスを王にしたい者はたくさんいるものね。未来の王妃の地位はまだ空いていると考えてもおかしくはないわ。なかなか読みがいいじゃない? 私、悪巧みは嫌いじゃないのよ?」

 相変わらず穏やかで可憐な顔をして恐ろしいを平気で言う。女官の少女たちは顔をひきつらせているが、果たしてこの女性を母にする覚悟はできていたのだろうかと、呆れが泡のように浮かんでくる。あのエマでも――いや夫に似ているエマだからかもしれないけれど――未だに苦手とする女性なのだ。並の娘に嫁が務まるわけがない。甘いと思う。

「ただし、アリスを奪って振り向かせるだけの魅力があなたにあるとはとても思えないけれど?」

 うふふふと朗らかに笑うシェリアを見ていると少し娘達が気の毒になってきた。

(ああ、つまり、なんだかんだでエマは気に入られているのね?)

 ホッとしつつ、収集がつかなくなりそうな場を収めようと、メイサは会話に割り込むことにした。

「こんなことはしたくなかったのだけれど、しかたないわ。女官は一度解雇して、全て既婚者から選ばせてもらうわ。このまま忠誠を誓うつもりがあるのならば、結婚して改めて応募してちょうだい。――希望者がいれば、近衛隊の男性を紹介するわよ?」

 娘達にはまだまだ敵が多い。
 打てる手は全て打ってやろうとは思うものの、際限がないものだとメイサはため息を吐いた。


 *


 予定より二日ほど遅れてジョイアにやってきたアウストラリスの王太子夫妻(正式にはまだエマは王太子にはなっていないが、もしエマがならなくてもアリスがなるだろうから同じことだとルキアは思っていた)は、会議の最中でも時折見つめ合い、意味もなく触れ合っては、微笑み合う。

(一体何だ、この、昨日結婚したばかりです! みたいな空気は。そろそろ落ち着いた頃だと思って、申し出を受け入れたんだが)

 目の前で繰り広げられる新婚夫婦の睦み合いに、ルキアはとうとうため息を吐いた。
 挨拶がてら、「新婚生活はどうだ」とアリスをからかったら、「エマが可愛くてしょうがない」と照れくさそうに、しかし堂々とのろけられた。そこまで馬鹿みたいな言葉が返ってくるとは思わなかったので、正直……引いた。
 そして、エマはエマで、ぐんとしとやかさが増していた。絶対アリスを尻に敷いていると思っていたのに、むしろ夫を立てている様子が見られて、拍子抜けした。
 なにより、目に宿る色気が全く違ったのだ。彼女は母に全く似ていないと今まで思っていたけれど、撤回せざるを得ない。使いものにならない衛兵が頻出したので、急遽女性の衛兵を配置せざるを得なかったくらいだ。その昔、メイサ王妃(当時はまだ女官だったらしいが)がジョイアに訪問された時にも同じような問題が発生したと聞いたけれど、これはしかたがないかもしれない。
 たった一月でこの変化だ。女は怖い。
 そんなことを考えるルキアの前で、二人の視線が濃厚に絡み合う。寝所を覗き込んだような心地になって、思わず目を逸らす。それはルキアだけではなく、居合わせた官吏たちも同じようだった。

「あーもうお前ら帰れ」

 苛立ちを隠さずに呟くと二人はきょとんと目を瞬かせる。

「来たばっかりじゃない。冗談を言う暇があったらさっさと終わらせましょ。留学生について、いい返事を貰うまでは帰れないのよ」

 エマの言葉に、終わらせて何をする気だとルキアは思う。宛てがった部屋を南と北で分けてやろうかと嫌がらせを考えたくなっても、誰も責めないと思った。

「昔のご両親を見ているようですね」

 なにか用だろうか。いつの間にか傍にやってきた年老いた側近が小さく呟く。ルキアは思わずこぼす。

「あー…………って、それは今もだろ」

 ああ、そうかとルキアは思い当たる。どこか既視感があると思ったら。自分の両親は年甲斐もなく、未だにこんな空気を醸し出すのだった。うんざりとして半眼になるルキアに、側近は本題を告げた。

「リトス様が王太子夫妻にお会いしたいと三度目のお願いにいらっしゃいましたが、どうされますか」
「…………王太子夫妻に・・・・・・、ねえ」

 それも嫌がらせの一つに含めてしまおうか。ルキアはふと悪魔に魅入られそうになったが、かろうじて堪える。あの小悪魔・・・の手にかかれば、嫌がらせが冗談ですまなくなるのはわかりきっていたのだ。
 敗走してきた兄に、彼女は開口一番に言った。『正直、幻滅しましたわ』と、父と母から受け継いだ、どこまでも可憐な顔で。

「あいつはほんとうに、趣味が悪い」

 たちも悪い。と心のなかで付け加える。双子のもう一人、エアルが天使そのものなのに、どうしてああなってしまったのか。
 その性癖を知っているのはおそらく自分だけだろうが、父や母が知ったら卒倒しそうだと思う。
 側近は言葉通りに捉えて首をひねる。

「そうですか? アリスティティス王子殿下は、ルキア殿下とはまた正反対の魅力がありますし。あの清廉さはなかなか得難いでしょう」
「うるさいな」

 言ってしまえば、その清廉さ一つにルキアは負けたのだ。痛いところを突かれてルキアは呻く。
 この側近の吐く毒には父も昔手痛くやられたと聞く。父の側近を引退したかと思うと、ルキアのお目付け役に収まってしまったのだが、父が惜しみながらも少しホッとしていたのをルキアは見逃さなかった。

「リトスは隔離しておいてくれ」
「しかし――」

 側近に命じると、さすがに渋い顔をする。
 だがルキアは「会わせなくていい」と念を押した。そしてエマとアリスをそっと見つめると、今度は密かに呟いた。

「ほんとに、お前ら、さっさと帰れ」

 彼がそう言うのは、惚れた女と、弟のように大事にしてきた隣国の友人の幸せは壊したくないから。

(それから)

 エマを見ると、彼女は屈託のない笑顔を返してくる。
 ルキアは何度目かの痛みが走った胸を密かに押さえる。
 彼らを帰したい理由のもう一つは。――彼らの幸せを壊すのは自分であってはいけないからという危惧からなのだった。

「ああ、俺も、早く身を固めたいんだけどな」

 呟くと「殿下を目の当たりにして卒倒しない女性が存在すればいいのですけれど」と側近がため息を吐く。ジョイアの長い間の懸案事項は、なかなか解決の兆しを見せない。それまではルキア自身が自分の血筋に疑いを持っていたため乗り気ではなかった。それが解消されいざ乗り気になったものの……エマがだめだった今、皇妃の器・・・・を持つ女性に心当たりがある者がどこにも居ないのであった。


番外編 それは、恋の始まり (了)


アウストラリスの騒動が一段落したところで、ひとまず番外編を締めさせていただきます。今後はジョイアのお話になっていくと思うので、仕切り直しとさせていただきますね。
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