その日はとても暑い日で、アンジェリカは、このところ毎日のように通っているその泉へと急いでいた。
真昼を過ぎると、泉までの道に影が無くなってしまう。このごろ日焼けを気にしているアンジェリカとしては、道が木陰になっているうちに、泉へたどり着きたかったのだった。
腕の中には、お気に入りの金色の小さな鞠と昼ご飯の入ったバスケット。
姉たちは、アンジェリカを子供っぽいと馬鹿にするが、彼女はこの鞠が幼い頃からとても大事だった。大好きな父に誕生日のプレゼントに貰ってから、16歳になった今でも、どこへ行くにも一緒。父が個人的に何かをくれる事なんて滅多に無い事なのだ。
光が当たると、鞠の回りを縁取っている金糸で出来た刺繍がきらきらと輝いてとても綺麗だ。
アンジェリカはお気に入りの場所でそれを眺めるのが好きだった。
いつものように泉のふちに腰掛け、鞠に木漏れ日を当てて眺めていると、どうも妙な視線を感じる。
――変ね? ここには誰も来ないはずなのに。
城の敷地内の小さな森だから、一般の人間は入り込めない。アンジェリカに遠慮して、何も無い限りは他の使用人もやって来ないはずだった。
アンジェリカは、視線を感じる先に目をやって、次の瞬間、手に持っていた鞠を思わず落としてしまった。
「あ!」
――ぽちゃん
鞠は泉の淵で一度跳ねると、泉の中に転がり込み、ぐんぐん奥へと沈んでいった。
「どうしましょう!」
アンジェリカは真っ青になる。
「……なんなら、俺が取ってきてやってもいいけど」
ふと低いガラガラした声があたりに響き、アンジェリカは顔を上げた。
しかし、あたりに人はいない。さっき見て驚いた、その『もの』しか目の前には無かった。
――あり得ないんですけど。
目の前には醜いウシガエルが一匹。
その飛び出た目をギョロギョロさせてこちらをじっと見つめている。
「取って来なくてもいい?」
カエルは尋ねる。アンジェリカにはその表情は読めない。……カエルの表情なんて気にした事が無かったから当然だった。
アンジェリカはひどく戸惑う。
鞠はもちろん惜しい。しかし、この目の前の訳のわからない物体と話すのが恐ろしかった。
「いらないのか。……じゃあいいや」
カエルは背を向けて森の中へと入っていこうとする。
――大事にするんだよ。そう言った父の顔がアンジェリカの頭に浮かんだ。
「待って!」
アンジェリカは思わずカエルを呼び止めていた。勢いに任せて彼女は続けた。
「お願い。鞠を取ってきてちょうだい」
カエルは、その目だけをぎょろりとこちらに向けると、その大きな口を歪ませた。
――笑っているのかしら?
アンジェリカはその気味の悪い表情に怯み、一歩後ずさった。
「いいよ。でも、その代わりに……、俺、今住むところが無くって困ってるんだ。君の家で、養ってもらいたいんだけど。君のうちって、そこのお城だろう? 俺ひとりくらいなんてこと無いだろうし」
――ひとり? 何このカエル。人間気取りだわ。変なの。
アンジェリカは笑いたくなったけれど、ぐっと堪えた。
「私のペットになりたいというの?」
「……ペット? うーん、まあいいけど……そういう扱いなら、メシも一緒だし、風呂も一緒だし、寝床も一緒。……それでもいいか?」
カエルは口をへの字に曲げると、不機嫌そうに言う。
「――なあに、その条件」
アンジェリカは憤慨した。
――なんて厚かましいの。こんな醜いカエルのくせに。
アンジェリカは、そう思いながらカエルを睨んだけれど、ふとその肉付きの良い太ももを見てひらめいた。
――そうよ。別にこんなカエルとの約束なんて守る必要ないんだわ。もしもしつこくするようだったら、料理人に頼んで捌いてもらえばいい。この間食べたカエルの揚げ物はとても美味しかったし。
アンジェリカは思いついた考えに満足して、ほくそ笑んだ。
「……いいわ。じゃあ、お願い」
「いいんだ!? 半分は冗談だったのに……言ってみるもんだな」
カエルは何の疑いも持たない様子でそう呟くと、どぼんと泉へ飛び込んだ。水しぶきが辺りに飛び散り、日の光を反射して宝石のように輝く。水面には綺麗な円が何重にも浮かび上がり、その波面が消えようかとする頃、金色の丸いものが泉から飛び出した。
――やった!
続けてカエルが泉から飛び出し、淵にペトンと座り込んだけれど、アンジェリカは礼を言うこともなく、鞠を掴んで駆け出した。
アンジェリカは既に有頂天。その足取りは羽が生えたかのように軽やかだった。
あっという間に泉を去ろうとするアンジェリカに、カエルが後ろから慌てて声をかけた。
「あ、オイ! 約束は!?」
アンジェリカは、その言葉にようやくカエルの存在を思い出す。そして仕方なく少し後ろを振り向くと、バスケットを指差して叫んだ。
「お礼はそれ! 私のお昼ご飯食べていいわ。じゃあね!」