――はあ。やっぱり駄目か。そう簡単にいくわけないよなあ。
残されたカエルは、ひとり、呆然と泉の側に佇んでいた。
泉の側には少女が置いていったバスケット。カエルは空腹に耐えかねて、バスケットに飛びついた。
中には小さなサンドイッチがぽつんと一つ。
――ええ!? これだけ?
そう驚きつつも、カエルはサンドイッチにその大きな口でかぶりついた。一口だった。中に何が挟んでであるのかも分からないくらい一瞬でそれを飲み込んだ。
――なんという小食。
確かに彼女の外見を見る限り、そんなに食べるとは思えなかったけれど、それにしても少なすぎた。
カエルは彼女の外見を思い浮かべる。
金色に輝く長い髪は、ゆるやかなウエーブがかかっており、腰までの長さ。瞳の色はアメジストのような紫色で、肌は白磁のようにつややかだ。
全体的に華奢で、夏物の衣の短い袖から覗くその腕は、かなりほっそりとしていた。腰も恐ろしく細く、しかし、意外に出るべきところは出ていた。
彼女を初めて見かけたのは昨日のこと。最初はこのバスケットが狙いだった。
何しろこの数日まともに食べていないのだ。カエルだからといって、皆が皆、虫を食べるかというと、そうでもなかった。彼のような特殊なカエルはなおさらだ。
彼の名前はユーリ。
東国カストックの王子だった。
* * *
なぜこんなところに、こんななりをして彼のような身分の男が居るのかというと、それには深い、深い事情があるのだった。
それは、ユーリが彼の家族と、彼が今いるこの国『リュンベルク』の都に向かう馬車内での出来事。ユーリの教育係の魔女、ルーツィエを怒らせてしまった事が発端だった。
森の都と名高いリュンベルクの郊外を馬車は走っていた。夜に降った雨が森の木々を洗い、さわやかな風が馬車の開いた窓から流れ込む。
心を洗うような景色やさわやかな空気を楽しむ事も無く、ユーリは馬車での旅に退屈して、いつものようにルーツィエの外見をからかって遊んでいた。
ルーツィエはお世辞にも美しいとは言えない外見をしている。両親よりも歳をとっていて、その顔には深いしわ、シミが浮いていた。中でも特徴的な鷲鼻は、魔女といえばそう思い浮かべるような、あまりに典型的な形をしていた。それだけならまだしも、ひどく口うるさい。ユーリのする事にいちいち口を出す。
常日頃、ユーリはそれが不満だった。姉にはもっと美しく若い優しい魔女がついているというのに、なぜか、ユーリにはこの鷲鼻の年老いた口うるさい魔女。
――世の中は不公平だ。
まだ十三歳のユーリはその感情を抑える事が難しかった。
「椅子にはもっと深く腰掛けて下さいませ。姿勢を正しくなります。食べこぼしもみっともない。出したゴミをそんな風に散らかすのも駄目でございます」
「いーんだよ。誰もそんなの見てないし」
「いつも申しておりますが、ユーリ様はお美しい外見に、内面が全く追いついておりません。年頃の娘が、殿下のそんなお姿を見れば、百年の恋も冷めてしまいますよ」
思わずユーリはムッとする。
「余計なお世話だって。……あ、ルーツィエ、鼻に虫が入ってるぞ。その鼻さあ、無駄に大きいだろ? そのうちクモが巣でも作るんじゃないのか?」
反論の代わりにからかうユーリを、ルーツィエはあくまで冷静な顔で諭す。
「ユーリ様。そんな風におっしゃるのは、王子としての人格と品格を疑われます。ただでさえあなたは――」
「うるさいんだよ! この不細工!!」
品格品格品格。口を開けばこぼれ出る説教にうんざりだったユーリは、かっとなってルーツィエに向かって叫んでいた。
しかし、その一言だけはは言ってはいけなかった。今まで、その言葉で彼女が怒らなかった事は一度も無かったのだ。あるときは打たれ、あるときは魔法で火をつけられた。
しまったと思ったときにはもう遅い。
彼女は顔面を蒼白にしてぷるぷると震えだす。ユーリがお仕置きを恐れて、身を引き、生唾を飲み込んだ次の瞬間、彼女の口から呪いの言葉が発せられた。
「醜いものの辛さ………その気持ち十分に思い知るがいい!!」
「あ――――――!?」
視界がゆがみ、思わずユーリは目を閉じる。次に目を開いたとき、彼は周りの風景が全く違うものに変わっていることに気がついた。
そして、目の前にあったのは、女物の靴。
「うお、――でかっ!」
ユーリは仰天して、文字通り飛び上がった。
なぜだか異常に体が軽かった。
一気に体が跳ね上がって、馬車の窓に自分の体が映る。
「!」
彼は目を疑った。
そこに居たのは、ぎょろりと目を剥いた、一匹のカエル。
あまりに驚いて、ユーリは着地に失敗した。
ベチャ
嫌な音が馬車の中に響き渡る。
「あーあ。ユーリ様。いたずらが過ぎます。……あれじゃあ、ルーツィエが怒っても仕方ないですよ」
目の前には異常に大きくなった、従者の顔。
「ハインリヒ」
驚くほど低くて、嗄れた声が出た。
「うわ、ひどい声……でも話は出来るんですね、良かった」
ハインリヒは、ユーリの幼なじみにして、彼の従者。黒髪に黒い瞳をした、中肉中背の男だ。
ユーリより三つ年上の十六歳だというのに、その童顔のせいで、ユーリとあまり歳が変わらないように見え、本人はひっそりとそれを気にしている。彼は、ユーリの気が置けない友でもあった。
「あとで私からも謝っておきますから、ちゃんとルーツィエに謝って元に戻してもらって下さいよ」
ハインリヒは、そう小声で言うと、ルーツィエの方をちらりと見た。ルーツィエの顔は怒りで真っ赤で、その頭からは湯気が出ているようだった。
混乱していた頭が少しずつ冷え、ユーリは自分の状態を自覚し始めた。自分の手を眺めると、それは、あきらかに人間のものではない。ユーリが幼い頃に捕まえてはいたぶって遊んだ、カエルそのものの手だった。
――くそババアめ! 俺をカエルなんかにしやがって!
そうなると次第に怒りがふつふつと湧いてきて、とてもじゃないけれど、謝れるような気分ではなくなる。ユーリはわざわざルーツィエを見上げ、その目を睨みながら宣言した。
「だれが謝るかよ。ルーツィエは、父上に言って罰してもらう」
ユーリとルーツィエの視線がぶつかり火花が散る。直後、彼らは互いにそっぽを向き、冷たい戦の火蓋が切って落とされた。