1出会い

 それは、まだ魔法がそこら中に存在していたそんな時代のこと。
 ちょっとした不思議は全部魔法のせいだと、みんな思っていたような、そんな世界のこと。
「ああ、お腹が空いた……」
 『彼』は悲愴な顔をしてつぶやいた。といっても、その表情は、とても人には判別がつくものではなかったけれど。
 深い森の中、澄みきった泉の側に、蛙が一匹。
 蛙は蛙でも、アマガエルのような可愛らしいものではなかった。
 人の手のひらよりもさらに大きな『ウシガエル』(食用)である。
 色は泥のように茶色がかった緑色。全身に淡黒色のまだら模様がまばらにあり、表面は木漏れ日の光に照らされてヌメヌメと光っている。
 ――なんだって俺がこんな目に。
 蛙は泉に映るその姿を凝視すると、深く深くため息をついた。
 もちろん、蛙のため息だ。
 それはウシが鳴くかのように、低くあたりに響き渡った。

「モォゥ」

 **

 その日はとても暑い日で、アンジェリカは、このところ毎日のように通っているその泉へと急いでいた。
 真昼を過ぎると、泉までの道に影が無くなってしまう。このごろ日焼けを気にしているアンジェリカとしては、道が木陰になっているうちに、泉へたどり着きたかったのだった。
 腕の中には、お気に入りの金色の小さな鞠と昼ご飯の入ったバスケット。
 姉たちは、アンジェリカを子供っぽいと馬鹿にするが、彼女はこの鞠が幼い頃からとても大事だった。大好きな父に誕生日のプレゼントに貰ってから、十六歳になった今でも、どこへ行くにも一緒。父が個人的に何かをくれる事なんて滅多に無い事なのだ。
 光が当たると、鞠の回りを縁取っている金糸で出来た刺繍がきらきらと輝いてとても綺麗だ。アンジェリカはお気に入りの場所でそれを眺めるのが好きだった。
 いつものように泉のふちに腰掛け、鞠に木漏れ日を当てて眺めていると、どうも妙な視線を感じる。
 ――変ね? ここには誰も来ないはずなのに。
 城の敷地内の小さな森だから、一般の人間は入り込めない。アンジェリカに遠慮して、何も無い限りは他の使用人もやって来ないはずだった。
 アンジェリカは、視線を感じる先に目をやって、次の瞬間、手に持っていた鞠を思わず落としてしまった。
「あ!」
 鞠は泉の淵でぽちゃんと一度跳ねると、泉の中に転がり込み、ぐんぐん奥へと沈んでいった。
「どうしましょう!」
 アンジェリカは真っ青になる。
「……なんなら、俺が取ってきてやってもいいけど」
 ふと低いガラガラした声があたりに響き、アンジェリカは顔を上げた。
 しかし、あたりに人はいない。さっき見て驚いた、その『もの』しか目の前には無かった。
 ――あり得ないんですけど。
 目の前には醜いウシガエルが一匹。飛び出た目をギョロギョロさせてこちらをじっと見つめている。
「取って来なくてもいい?」
 蛙は尋ねる。アンジェリカにはその表情は読めない。……蛙の表情なんて気にした事が無かったから当然だった。
 アンジェリカはひどく戸惑う。鞠はもちろん惜しい。しかし、この目の前の訳のわからない物体と話すのが恐ろしかった。
「いらないのか。……じゃあいいや」
 蛙は背を向けて森の中へと入っていこうとする。
 ――大事にするんだよ。そう言った父の顔が頭に浮かび、アンジェリカは思わず蛙を呼び止めていた。
「待って! お願い。鞠を取ってきてちょうだい」
 蛙は、その目だけをぎょろりとこちらに向けると、その大きな口を歪ませる。アンジェリカはその気味の悪い表情に怯み、一歩後ずさった。
「いいよ。でも、その代わりに……、俺、今住むところが無くって困ってるんだ。君の家で、養ってもらいたいんだけど。君のうちって、そこのお城だろう? 俺ひとりくらいなんてこと無いだろうし」
 ――ひとり? 何この蛙。人間気取りだわ。変なの。
 アンジェリカは笑いたくなったけれど、ぐっと堪えた。
「私のペットになりたいというの?」
「俺は単に衣食住を確保したいだけなんだ。うまい飯、清潔な寝床、それから、まあ、服は要らないか。簡単なもんだろ?」
 蛙は口をへの字に曲げると、不機嫌そうに言う。
「――なあに、その態度」
 アンジェリカは憤慨した。
 ――なんて厚かましいの。こんな醜い蛙のくせに。
 アンジェリカは、そう思いながら蛙を睨んだけれど、ふとその肉付きの良い太ももを見てひらめいた。
 ――そうよ。別にこんな蛙との約束なんて守る必要ないんだわ。もしもしつこくするようだったら、料理人に頼んで捌いてもらえばいい。この間食べた蛙の揚げ物はとても美味しかったし。
 アンジェリカは思いついた考えに満足して、ほくそ笑んだ。
「……いいわ。じゃあ、お願い」
「いいんだ? 半分冗談だったのに……言ってみるもんだな」
 蛙は何の疑いも持たない様子でそう呟くと、どぼんと泉へ飛び込んだ。水しぶきが辺りに飛び散り、日の光を反射して宝石のように輝く。水面には綺麗な円が何重にも浮かび上がり、波面が消えようかとする頃、金色の丸いものが泉から飛び出した。
 ――やった!
 続けて蛙が泉から飛び出し、淵にペトンと座り込んだけれど、アンジェリカは礼を言うこともなく、鞠を掴んで駆け出した。
 アンジェリカは既に有頂天。その足取りは羽が生えたかのように軽やかだった。
 あっという間に泉を去ろうとするアンジェリカに、蛙が後ろから慌てて声をかけた。
「あ、オイ! 約束は!?」
 アンジェリカは、その言葉にようやく蛙の存在を思い出す。そして仕方なく少し後ろを振り向くと、バスケットを指差して叫んだ。
「お礼はそれ! 私のお昼ご飯食べていいわ。じゃあね!」

 ***

 ――はあ。やっぱり駄目か。そう簡単にいくわけないよなあ。
 残された蛙は、ひとり、呆然と泉の側に佇んでいた。泉の側には少女が置いていったバスケット。蛙は空腹に耐えかねて、バスケットに飛びついた。中には小さなサンドイッチがぽつんと一つ。
 ――ええ? これだけ?
 そう驚きつつも、蛙はサンドイッチにその大きな口でかぶりつき、中に何が挟んでであるのかも分からないくらい一瞬でそれを飲み込んだ。
 ――なんという小食。
 確かに彼女の外見を見る限り、そんなに食べるとは思えなかったけれど、それにしても少なすぎた。
 蛙は彼女の外見を思い浮かべる。金色に輝く長い髪は、ゆるやかなウエーブがかかっており、腰までの長さ。瞳の色はすみれのような紫色で、肌は白磁のようにつややかだ。全体的に華奢で、夏物の衣の短い袖から覗くその腕は、かなりほっそりとしていた。腰も恐ろしく細く、しかし、意外に出るべきところは出ていた。
 彼女を初めて見かけたのは昨日のこと。最初はこのバスケットが狙いだった。
 何しろこの数日まともに食べていないのだ。蛙だからといって、皆が皆、虫を食べるかというと、そうでもなかった。彼のような特殊な蛙はなおさらだ。
 彼の名前はユーリ。
 東国カストックの王子だった。


 なぜこんなところに、こんななりをして彼のような身分の男が居るのかというと、それには深い、深い事情があるのだった。

 それはユーリが彼の家族と、彼が今いるこの国『リュンベルク』の都に向かう馬車内での出来事。ユーリの教育係の魔女、ルーツィエを怒らせてしまった事が発端だった。
 森の都と名高いリュンベルクの郊外を馬車は走っていた。夜に降った雨が森の木々を洗い、さわやかな風が馬車の開いた窓から流れ込む。
 心を洗うような景色やさわやかな空気を楽しむ事も無く、ユーリは馬車での旅に退屈して、いつものようにルーツィエの外見をからかって遊んでいた。
 ルーツィエはお世辞にも美しいとは言えない外見をしている。両親よりも歳をとっていて、その顔には深いしわ、シミが浮いていた。中でも特徴的な鷲鼻は、魔女といえばそう思い浮かべるような、あまりに典型的な形をしていた。それだけならまだしも、ひどく口うるさい。ユーリのする事にいちいち口を出す。
 常日頃、ユーリはそれが不満だった。二つ上の姉にはもっと美しく若い優しい魔女がついているというのに、なぜかユーリにはこの鷲鼻の年老いた口うるさい魔女。
 ――世の中は不公平だ。
 まだ十三歳のユーリはその感情を抑える事が難しかった。
「椅子にはもっと深く腰掛けて下さいませ。姿勢を正しくなります。食べこぼしもみっともない。出したゴミをそんな風に散らかすのも駄目でございます」
「いーんだよ。誰もそんなの見てないし」
「いつも申しておりますが、ユーリ様はお美しい外見に、内面が全く追いついておりません。年頃の娘が、殿下のそんなお姿を見れば、百年の恋も冷めてしまいますよ」
 思わずユーリはムッとする。
「余計なお世話だって。……あ、ルーツィエ、鼻に虫が入ってるぞ。その鼻さあ、無駄に大きいだろ? そのうちクモが巣でも作るんじゃないのか?」
 反論の代わりにからかうユーリを、ルーツィエはあくまで冷静な顔で諭す。 
「ユーリ様。そんな風におっしゃるのは、王子としての人格と品格を疑われます。ただでさえあなたは――」
「うるさいんだよ! この不細工!!」
 品格品格品格。口を開けばこぼれ出る説教にうんざりだったユーリは、かっとなってルーツィエに向かって叫んでいた。
 しかし、その一言だけはは言ってはいけなかった。今まで、その言葉で彼女が怒らなかった事は一度も無かったのだ。あるときは打たれ、あるときは魔法で火をつけられた。
 しまったと思ったときにはもう遅い。
 彼女は顔面を蒼白にしてぷるぷると震えだす。ユーリがお仕置きを恐れて、身を引き、生唾を飲み込んだ次の瞬間、彼女の口から呪いの言葉が発せられた。
「醜いものの辛さ………その気持ち十分に思い知るがいい!!」
「あ――!?」
 視界がゆがみ、思わずユーリは目を閉じる。次に目を開いたとき、彼は周りの風景が全く違うものに変わっていることに気がついた。
 そして、目の前にあったのは、女物の靴。
「うお、――でかっ!」
 ユーリは仰天して、文字通り飛び上がった。
 なぜだか異常に体が軽かった。一気に体が跳ね上がって、馬車の窓に自分の体が映る。
「!」
 彼は目を疑った。そこに居たのはぎょろりと目を剥いた、一匹の蛙。
 あまりに驚いて、ユーリは着地に失敗した。ベチャ、と嫌な音が馬車の中に響き渡る。
「あーあ。ユーリ様。いたずらが過ぎます。……あれじゃあ、ルーツィエが怒っても仕方ないですよ」
 目の前には異常に大きくなった、従者の顔。
「ハインリヒ」
 驚くほど低くて、嗄れた声が出た。
「うわ、ひどい声……でも話は出来るんですね、良かった」
 ハインリヒは、ユーリの幼なじみにして彼の従者。黒髪に黒い瞳をした、中肉中背の男だ。
 ユーリより三つ年上の十六歳だというのに、童顔のせいで、ユーリとあまり歳が変わらないように見え、本人はひっそりとそれを気にしている。彼は気の置けない友でもあった。
「あとで私からも謝っておきますから、ちゃんとルーツィエに謝って元に戻してもらって下さいよ」
 ハインリヒは小声で言うと、ルーツィエの方をちらりと見た。ルーツィエの顔は怒りで真っ赤で、その頭からは湯気が出ているようだった。
 混乱していた頭が少しずつ冷え、ユーリは自分の状態を自覚し始めた。自分の手を眺めると、あきらかに人間のものではない。ユーリが幼い頃に捕まえてはいたぶって遊んだ、蛙そのものの手だった。
 ――くそババアめ! 俺を蛙なんかにしやがって!
 次第に怒りがふつふつと湧いてきて、とてもじゃないけれど、謝れるような気分ではなくなる。ユーリはわざわざルーツィエを見上げ、その目を睨みながら宣言した。
「だれが謝るかよ。ルーツィエは、父上に言って罰してもらう」
 ユーリとルーツィエの視線がぶつかり火花が散る。直後、彼らは互いにそっぽを向き、冷たい戦の火蓋が切って落とされた。