ユーリの乗った馬車は、そのままリュンベルクの城に到着した。
彼の父、つまりカストック王と、母、カストック王妃は、後ろから来ていた馬車に乗っていた。
ユーリは彼らの馬車が止まるや否や、馬車を飛び出す。
「父上っ!」
ユーリはその嗄れた声で、馬車から降りてくる王に向かって叫んだ。
王は、きょろきょろと辺りを見回し、やがて目の前にいる蛙に目を留めた。そして、隣にいたハインリヒに目で説明を促す。
「こちらの蛙がユーリ殿下であります。ルーツィエを怒らせてしまいまして……」
「余計なことを言うな!」
ユーリはハインリヒに向かって、その口を閉じるように命令する。
「父上、ルーツィエを罰して下さい。俺をこんな姿にしたんです。当然でしょう」
王は、ゲコゲコとうるさい蛙を横目でちらりと見ると、後ろからやってきたルーツィエに尋ねた。
「ルーツィエ。ユーリはお前になんと言った?」
「わたくしを醜いとからかわれました。以前から思っていましたが、ユーリ殿下は御容姿が美しすぎて、そうでない人間のお気持ちがさっぱりお分かりにならないかと。教育の一環として、少しの間醜いものの気持ちを分かっていただこうかと思いました」
氷のような眼差しでユーリを見つめると、ルーツィエは王にそう訴える。
「……確かに。ユーリはそろそろもう少し大人になる必要はあるな。一国の王子としては、いつまでも子供のようにいてもらっては困る。良い機会だ。せめてこの旅行中は、その姿で過ごすが良い」
王の言葉にユーリは目を剥いた。
「何だって!? ……これから、リュンベルクを訪問するっていうのにか?」
ユーリは、リュンベルクの美しい三人の姫君達に会うのをそれはそれは楽しみにしていたのだ。
一番上の姫は才媛と評判で、二番目の姫の美しさは大輪の花のようだと。
そして三番目の評判は……なぜだかまったく聞かないけれど、それは今から自分の目で確かめる。それなのに……
――この姿ではとても顔を出せないじゃないか!
ユーリはなんとか父に気を変えてもらおうと、そのぎょろりとした目で必死に訴える。
王は、そんなユーリの視線をふいと避ける。そして冷たく言い放った。
「いつものように、ごまかされると思うなよ? 今のお前に、いつもの方法は使えないんだからな」
ユーリは父の別人のような態度に愕然とした。
今まで彼のその澄んだ瞳でじっと見つめれば、大抵のことはうまく行ってきたのだ。
それくらい、彼の容姿は優れていた。
少し癖のある漆黒の髪に、深海のように青い大きな瞳が特徴的な、華やかな外見。少女と見紛うような外見だけれど、その瞳に宿る光は強く、彼の性別をしっかりと男に見せていた。
彼の父も母も、彼がその瞳で見つめると、たいていのわがままを許してくれていた。彼らは、甘いと分かっていても、どうしてもその可愛らしさに負けてしまうのだ。
ユーリは自分の外見の美しさを分かっていて、今までずっと利用してきた。
それがうまくいかなければ、いままでさぼっていた分、彼は他になす術を思いつかない。
彼は舌打ちしたい気分だったが、今の姿では舌打ちさえもうまく行かない。舌はあっても、歯と歯茎が無ければ、そんな芸当は不可能なのだ。
父王の大きな背中が遠ざかり、迎えの人間に連れられて城の中に入るのを、ユーリは呆然と見つめていた。
「まあ、これを機に、せいぜい内面を磨かれるのですね」
ユーリの頭上で、ルーツィエはふん、と冷たく笑うと、心配そうにユーリを振り返り見つめる母と共に、王宮へと向かって歩いて行く。
ユーリは悔しくて地団駄を踏む。黒いまだらの浮いた足がぬかるんだ地面に突っ込み、泥が派手に跳ねてユーリの体に張り付いたけれど、本人はそれを気に出来ないほど頭に来ていた。
王子の奇妙な姿に周りの従者は、笑いを堪えるのに必死だった。
その中、ハインリヒは遠慮なく吹き出すと、ユーリの側にやってきて、ハンカチを手に乗せて差し出す。
「さあ、この上にお乗りください。泥だらけではないですか」
「くそ……今に見ていろ、ルーツィエのヤツ、目にもの見せてくれるっ!」
ユーリはそう叫びながらハンカチの上に飛び乗ると、ぎょろりとハインリヒを見た。
「で、俺はこれからどうすればいいんだ?」
王子として顔を出せないとなると、これからどう過ごせば良いのだろう。
悩むユーリの前で、ハインリヒは肩をすくめ、何でもないように、的外れなことを答えた。
「……とりあえず、風呂ですかね」
ユーリはこっそりと使用人用の湯殿を借りることになった。しかし、用意された湯はもちろん人間が使うのにちょうど良い温度。
蛙の彼には、その湯は熱すぎた。
変温動物なのだ。一気にゆだってしまう。
「くそっ――俺を殺す気か!」
ユーリはハインリヒに口汚く八つ当たりをする。そして、ふと開いた窓から外を見て、小さな泉を発見し、彼は本能のままそちらへと飛び出した。
冷たい水に一気に飛び込み、湧いてくる欲望に任せて泉の中を泳ぎ回る。乾いた肌が潤う。熱された体が冷める。のどの渇きに似た焦躁が小さくなり、やがて消えていった。
――ああ、なんて気持ちがいいんだ――
そして水浴びに夢中になっていたユーリが、辺りの様子に気がついたときには、すでに日が暮れようとしていた。
ふと見上げた茜色の空では、鳥が風と戯れながら、住処へと帰って行く。
「おい、ハインリヒ! 腹が減った!」
ユーリは従者を呼ぶ。しかし、辺りは静まり返ったままだった。
嫌な予感がして、周りを見回すと、多くの蛙が泉の淵でしゃがみ込んでじっとしている。ユーリの目にはどの蛙も同じ蛙にしか見えなかった。そして彼は自分の姿を見下ろしはっとする。
――ま、まさか!
ユーリは愕然とした。
「間違ってほかの蛙……連れて行っちゃったのか……?」
*
ユーリは途方にくれた。泉の側の出入り口はいつの間にか堅く閉ざされ、人の気配も全くない。どうやら出た時は一時的に開いていただけだったようだ。
彼はひどく空腹を感じていた。
城門まで行こうかと一瞬考えたけれど、城は広い。今の姿だと、城壁を回ってそこにたどり着くだけでも朝になりそうだった。
そんな気力は、今の彼には残っていなかった。
しかたなく、他の蛙と同じように、泉の淵で岩にへばりついて眠ろうとしてみる。
――それにしても、夏で良かったよな……冬だったら確実に死んでた。ただでさえ蛙だし、秋でもヤバいかも。
その晩、ユーリはそんなささいなことを感謝しながら、冷たい岩を枕に眠りについた。
翌朝、ユーリが起きた頃には、かなり日が高くなっていて、彼の背中は乾涸び、熱くなりかけていた。火傷しそうになっていることに気がつき、慌てて泉に飛び込む。
――うかつに寝坊も出来ないのかよ
ユーリは憂鬱になりながら、それでも、水につかることで、気力を回復した。
ぷかぷかと泉に浮くと、焼け付くような日差しを避けて、木陰へと移動する。
泉から上がると日陰にしゃがみ込んで、昨日彼が飛び出した城への出入り口を眺める。改めて見上げると、城は空に届きそうなくらいに大きく、その石造りの壁はどんな攻撃にも屈しないほどに頑丈そうだった。
そして、城は沈黙を保ち続け、まったく開く気配がない。
昨日味わった表の騒々しさは一体なんだったのだろう。
ユーリはため息をつくと、その入り口からの侵入をあきらめることにした。
――とりあえず、まだ体力が残っているうちに、移動しようか
彼はそう考えると、無謀にも、城門までの果てしない旅を始めた。
しかし、行けども行けども、城門らしき物は見つからず、それどころか、周りの森はどんどん深まるばかり。
「おかしい。城の中だろう? 俺、迷ったか?」
先ほどから同じ場所を繰り返し通っているような感覚に、彼の疲れは頂点に達しようとしていた。
ふ、と水の匂いを感じてユーリは目を細める。
「あ!」
ユーリの目の前には日の光を受けてキラキラと輝く泉があった。
どぼんと泉に飛び込むと、乾いていた体が潤い、ずいぶんと気分が楽になる。蛙というのは人間の姿よりもずいぶんたくさんの水が必要なようだった。
泉に潜り、こんこんと湧き出る青い水の流れに身を任せる。水面には太陽が膨らんで輝く。青い、青い世界に心が洗われる――ユーリはその心地よさに目を瞑る。
彼がそうして気力と体力を回復していると、急に頭上でバタバタと鳥が騒ぎ出し、森の梢から一気に飛び去った。
ユーリが不思議に思っていると、小さな足音が聴こえ、城の影から一人の少女が飛び出してきた。
ユーリは思わず目を見張る。
――か、かわいい………。
小動物の本能で、体が逃げ出したくなっているのを感じたけれど、それ以上に娘への強い興味で、彼は泉の淵に縫い止められた。
泉に潜ったまま、目だけを水面から出すと、少女を食い入るように見つめ続ける。華奢で繊細な線を持つ、すみれのような女の子。それは、ユーリの想い描くあこがれのお姫様そのものだった。
ふと、彼女が手に持っているバスケットを開き、中からパンを一つ取り出した。
――あ! 食いもの!!
一瞬で彼の関心は少女よりもパンに大きく傾いた。
ユーリが思わず泉から飛び出すと、意外に大きな音がした。
少女はそれにびっくりして、手に持ったパンを地面に落とす。
「ああ! 私のお昼ご飯……」
少女は一瞬悲しそうな顔をしたけれど、すぐにパンを諦め、バスケットから櫛形に綺麗に切られたオレンジを取り出して食べ始める。
人が食べる物であれば、もう地面に落ちた物でも何でも食べる気だったユーリは、パンに狙いを定める。群がろうとする蟻を横目で気にしながら、固唾をのんで、少女が立ち去るのを待った。
少女はオレンジを食べ終わると、泉で軽く手を洗って、その服のポケットから小さな金色の鞠を出す。
そうして、それを空高く投げたり、地面について遊んだりし出した。
その表情は輝き、まるで十歳くらいの少女に見えた。
――いったいいくつのガキかよ……
ユーリは、少女の動向に少々呆れたけれど、すぐにパンの方へ意識を傾けた。
少女の注意はパンから逸れているようだ。
ユーリは急いでそのパンを拾うと、草の陰でそれにかぶりつく。
そして今までに感じた事の無いくらいの美味に、目を輝かせた。
「うわあ、なにこれ!」
手元を見ても、それはただのパンにしか見えないというのに、甘く、身体の隅々に染み渡って、ユーリの力の源となる。
そもそも彼は生まれてから空腹などほとんど感じたことがない。お腹が空く頃にはちょうど良く食事が用意されていた。それが当たり前のことで、こんなに長い間、何も食べなかったことは今までに無かった。
それだけに、彼はその新鮮さに感動を覚えていた。
彼がそうして食べ物のありがたさに初めての感謝をしていると、いつの間にか少女は城の向こうへと消えていた。
「あぁ、付いて行けば城に入れたかもしれなかったな」
彼は、独り言をいいながら、少し休憩するつもりで、岩の上に横になる。
満腹感が心地よく、睡魔はすぐに訪れた。
そして、次に彼が起きた時には、もう日がとっぷりと暮れていたのだった。
そうしてユーリは次の日、また彼女に出会った。
それが、彼らが初めて会話をしたあの日である。
「とりあえず……これだけじゃ足りないし。あの子、もうここに来ないかもしれないしなあ」
ユーリは一人ぼやくと、ぴょこぴょこと跳ね、彼女が去っていった方向へと移動を始めた。
少しお腹に物を入れたため、前よりは足に力が入る気もする。
そうしてしばらく一生懸命跳ねていると、ようやく人の姿らしきものが見えてきた。目を凝らすと、そばにあるのは彼がカストックから乗って来た馬車に見える。
「うそだろ!!」
馬車に馬がつながれて、荷物が運び込まれている。
さらに向こうでは既に父や母が馬車に乗り込み、リュンベルク王らしき人物と挨拶を交わしていた。
――どうやら、ユーリは間違われたまま、置いてけぼりを食らいかけているようだった。
いくら彼が全速力で跳ねたとしても、馬車まではかなりの距離があった。
遠くに、豆粒のような黒髪の中肉中背の男が見え、ユーリはあらん限りの声で叫ぶ。
「ハインリヒ!!」
しかし、ユーリの声はウシのようにモウモウと低く響くだけで、ハインリヒの耳には届かなかった。
ハインリヒはにこやかに、しかし必死に、手に持った何かに話しかけている。
おそらくそれは手違いで連れ去られた蛙なのだろう。
「それ、俺じゃないってーー!!」
ユーリは泣きそうだった。しかし蛙の目から涙は出ない。
泣くことも出来ないのかよ!!
彼は絶望して、その場に倒れ込んだ。