あの事件から数週間。
ユーリは生死の境を彷徨っていたらしい。
彼の怪我はやはり重症だった。しかし国内外の医師を総動員した懸命な治療によって、なんとか一命を取り留めた。蛙の姿ではできなかった治療と手厚い看護、そしてユーリの生きる気力による奇跡とも言える回復だった。
アンジェリカはその間、必死でユーリの看病をしてくれていたらしい。
おかげでユーリは、今はベッドの上に起き上がれるくらいにまでになっていた。
しかし、ユーリは思い悩んでいた。
それもこれも、アンジェリカが以前のようにユーリに接してくれなくなったせいだ。
ユーリが話しかけても目を合わせてもくれないし、答える声にも以前のような気安さがまったくない。当然、会話もまったく弾まない。あまりの変化にユーリは戸惑っていた。
――あれは同情だったのか? 俺が可哀想だったから、せめて最後にいい思いさせてやろうってくらいの気持ちだったのか?
ユーリはアンジェリカの気持ちがまったくわからなかった。
元の姿に戻れば簡単に手に入ると思えた彼女の心は、逆に遠ざかってしまったように感じる。
――まさか……俺が蛙の姿の方が良かったのか?
そう考えかけて、頭を振る。いくら何でも、そんなわけない。
ユーリは、カストックに戻る時にはアンジェリカを一緒に連れて帰ろうと思っていた。こっそりとカストックの父にも、リュンベルク王にも彼の希望を申し出ていた。そして彼らは本人の意志を尊重すると言ってくれたのだ。
しかし――ユーリはアンジェリカ本人にはまだ、何も言っていない。
今のままでは断られるのではないか――そういう不安がどんどん大きくなって来て、ユーリを押しつぶそうとしていた。
「なあ、ハインリヒ。……俺さ、嫌われてんのかな」
ユーリは、見舞いに来てくれていたアンジェリカが部屋に戻った後、ハインリヒに尋ねてみた。
窓から斜めに差し込む夕日は部屋全体を暖かい色で染めている。なのに、アンジェリカが去った後の部屋はガランとしていてなんだか寒々しい。彼女がいるだけでユーリの体温は少し上がっているのかもしれなかった。
ハインリヒが茶菓子を用意する手を止めて、ベッドの上のユーリを見つめた。その目が呆れたように丸くなっている。
「はあ? 何をおっしゃっているのです? 嫌う?」
「だってさ……あからさまに避けられてる」
ハインリヒはいつの間にかニヤニヤと笑っていた。
このごろ彼はこういう表情をよく浮かべるようになった。なんだかからかわれているようで、あまり気分は良くない。
「戸惑われているだけですよ」
「戸惑う? 何に?」
「逆の立場だったら、ユーリ様だって戸惑われるでしょう? 蛙だと思って接して来たのに、突然女の子に変わったら」
ユーリは想像しようと頑張ったけれど、……無理だった。そんな普通あり得ないような常識はずれは、自分だけで十分だった。
「俺さ、アンジェリカに聞いてないんだ」
「あれ? まだプロポーズされていないんですか?」
「…………」
――そうか、そういうことになるのか。国に連れて行くってことは。
ユーリは急に深刻に悩み出した。もっと気軽なことだと考えていたけれど、彼女を国に連れ帰るとなると、延長には当たり前のように結婚がある。
とんでもない提案を先に両親達に持ちかけていたことに気がついて、今更ながらユーリは焦った。
『アンジェリカ姫に、カストックへ同行していただきたいのですが――』
ユーリはリュンベルク王にそう申し出たが、もっと言いようがあった気がする。
かの人は『アンジェリカが幸せであれば、それが私の幸せだ』、ただそう言って軟らかい表情で頷いたのだ。今思えば、それは王ではなく一人の父親の顔だったような気がした。
「……なんて言えばいいんだろ」
「さあ」
ハインリヒはあっさりとそう言う。しかし顔は妙に嬉しそうだ。
「素っ気ないな」
「こればかりはご自分で考えて頂かないと」
――それはそうか。プロポーズだもんな。
納得するユーリに、ハインリヒが思いもよらないことを言い出した。
「ま、と言っても、ご結婚自体はユーリ様が成人されてからですし」
「成人……?」
カストックの男児が成人するその年齢を思い出し、ユーリは青ざめる。
――ま、待てない!!
「たった一年ですよ。もうすぐユーリ様も十四歳ですし」
「今さら一年間も“オトモダチ”を続けろって言うのかよ……!」
「大丈夫ですよ。ユーリ様は我慢強くなられましたから。現に、あんなに濃厚な生活をされても紳士でいらしたではないですか」
ハインリヒがニコニコしながらそう言う。彼の目尻はこの話が出たときからずっと下がりっぱなしだった。
――事情がまったく違う。あれは――!
ユーリは思い出す。アンジェリカの小さな手のひら一つ持ち上げられなかった非力な腕を。
体の痛みを忘れ、ユーリは思わず叫んだ。
「――物理的に手が出せなかっただけなんだ――!!」
*
アンジェリカは窓の外の景色を見ながら深いため息をつく。
日が暮れるのが早くなり、先ほど茜色をしていた空はもう紫色に変わり、空には星がちらつきだしていた。
窓辺に腰掛けていると、窓の隙間からもう冷たい風が忍び込み、アンジェリカの足下をじわじわと凍えさせていく。
秋の深まりを感じて、アンジェリカは膝掛けの位置を少しずらし、足下を暖める。
――私の馬鹿。ユーリ相手に何を照れているのかしら……。
見えないものの大切さを学んだはずだった。見かけは違ってもユーリはユーリだし、彼が大事だという事に変わりはないはずなのに。
今までのユーリへの想いに、突如ときめきが加わってしまって、戸惑わずにいられない。
彼の瞳を直視できないほどに心臓が暴れるのだ。
ユーリは、口を開けば相変わらず。気安く、ときに小憎たらしいくらい。
だけど、同じ言葉を発しても、蛙が言えば腹が立っただろうに、あの顔で言われるとまるで褒められているような気分になってしまうのだ。そうして、そんな風に感じる自分が、ものすごく現金な人間に思えて恥ずかしい。
――でも……あまりに素敵なんですもの。
深海の色をした瞳は宝石のよう。アンジェリカはあんなに綺麗な瞳を見た事は無かった。最初にあの目を見ていれば、とてもハインリヒと間違えたりする事は無かっただろう。
アンジェリカはユーリが美しければ美しいほど、自分とは釣り合いが取れないような気分になってくる。最近、ベアトリクスの隣にユーリが居るところを目撃してしまったのだけれど、あまりにもお似合い過ぎて声をかける機会を逃してしまった。
姉は、なぜだかいつの間にかユーリのことを諦めているようだった。原因を聞いたけれど悔しそうに怒るだけなので、あまり深い追求は出来なかった。彼女は本当に蛙が好きだったのかもしれない。だから蛙でないユーリには興味を失ったのかもしれない。無理があるような気がしないでもないけれど、アンジェリカは勝手にそう結論づけていた。
しかし、ユーリの方がどういうつもりなのか、アンジェリカにはよく分からない。
あの後、ユーリが蛙になった事情と元に戻った事情を聞いたのだけれど……元に戻ってしまえば自分は用無しなのでは……とアンジェリカはつい卑屈になってしまうのだった。蛙の姿ではアンジェリカしか相手が居なかったかもしれないけれど、王子と言う肩書きに加えて、あの美麗な姿では、どう考えても選び放題なのだから。
その上、アンジェリカは散々ユーリに対してハインリヒ相手の恋愛相談をし続けてきたのだ。手のひらを返したようにユーリのことを好きだなんていうのはあまりに都合が良すぎる気もしていた。
ユーリはあれ以来、アンジェリカに何か言い淀んでいる。
それが、自分が望まないような言葉なのではないかと、アンジェリカは勘ぐってしまっていた。
――無かった事にしてくれないか。
万が一そんなことを言われてしまったら……きっともう立ち直れないだろう。
アンジェリカは必要以上に、ユーリの言葉を警戒してしまっていた。
*
秋も深まって来たある日、ユーリはベッドから起き上がっていた。
まだ体の痛みがひどく、特に胸など、ちょっとした動作でもひどく痛む。動くのが億劫でたまらない。
しかし、今日はそんな弱気なことも言っていられなかった。
ベッドの隣の椅子では、アンジェリカが腰掛けて、林檎の皮と悪戦苦闘している。
声をかけたら手を滑らせそうに思え、皮を剥き終わるのを待ってユーリは口を開いた。
「アンジェリカ、俺さ、もうすぐ国にかえらなきゃいけないんだ」
ユーリの言葉にアンジェリカの体が急にこわばったように見えた。彼女は林檎を素早く切り分け皿に乗せると、ベッドの脇のテーブルに置いた。堅い音が部屋に響く。
冷たい響きに少し嫌な予感がしたユーリは、急いで続きを口にしようとした。
「それでさ」
すると、アンジェリカはいきなりすごい勢いで立ち上がる。
「わた、わたし、お水を換えてくるわね」
彼女は慌てたように水差しをつかむと、扉の方へと駆け出した。
「待てよ。お前なんだか変じゃないか?」
ユーリは一気に不機嫌になって、アンジェリカの背中を睨む。
いくら何でもこんなに避けられるほどのことをした覚えなんかなかった。
「変じゃないわよ」
アンジェリカは立ち止まり、後ろを向いたまま答える。小さな背中が細かく震えている。
「こっち向けよ」
だがアンジェリカは黙って背を向けたままだ。
ユーリは仕方なくベッドから下りて、ゆっくりとアンジェリカに近づく。
一歩一歩が体中に稲妻が走るかのように響く。無茶をしている自覚はあった。
アンジェリカの前に回って、肩に手をかけると、彼女は驚いたようにユーリを見上げた。
「だ、だめよ! 寝てないと!」
ユーリは構わず声を荒げた。
「お前が話を聞かないからだろ!」
「だって! ――聞きたくなんかない!」
アンジェリカの言葉にユーリは愕然とする。
「なんで」
俯いたアンジェリカは泣きそうな顔をしていた。
「――そんなに……嫌なのか?」
アンジェリカは、こくりと頷いた。
ユーリは肩から手を離すとぎゅっと拳を握る。
「わかったよ。お前がいやなら……しょうがないか」
ユーリは少しずつ増してくる胸の痛みをぐっとこらえると、一歩下がりアンジェリカに道を譲る。
アンジェリカは顔を伏せたまま部屋の外へ出た。
ユーリは静かに扉を閉めながらつぶやく。
「やっぱり同情だったんだな。……勘違いして馬鹿みたいだ、俺」
扉の隙間からアンジェリカの美しいすみれ色の瞳が微かに見えたけれど、もう今は直視できる気分ではなかった。
――元の姿に戻してもらっただけでも感謝しなければいけないのか。……でも。
アンジェリカと過ごした日々が瞼の裏に蘇り、ユーリは胸が引き裂かれそうだと思った。
――元の姿に戻れば……何もかもうまく行くと思えたのに。こんなことなら蛙のまま傍に居れた方がマシだったかもしれないな。
ユーリは胸の痛みを体の外に押し出そうと目を瞑る。そして、静かにゆっくりと息を吐きだし、想いを手放そうとする。
だが、そのとき、ハインリヒの言葉がふと耳の奥で響いた。
『――あきらめてはだめです!』
ユーリはハッとした。
――何してんだよ! 俺はまだあいつに何も言っていないだろ!!
慌てて扉を開けると、そこにはまだアンジェリカが佇んでいた。
「あ、あの……さっきの話って」
アンジェリカがてっきりもう部屋に戻ってしまったと思っていたユーリは、投げつけられた問いに目を見開いた。
アンジェリカはユーリをじっと見上げていた。すみれ色の瞳が少しだけ期待を含んでいるように見える。
「聞かないんじゃなかったのか?」
ユーリの問いにアンジェリカは答えず、逆に尋ねてきた。
「“同情”ってどういう意味?」
「だってお前、俺のこと別に好きでも何でもないんだろ」
言っていてユーリは空しくなってきた。
アンジェリカはユーリをじっと見上げながら、ふと呟いた。
「私、夢で男の子を見たって言ってたわよね?」
ユーリは一気に不愉快になる。
――この期に及んで、そいつがいいって言うのかよ。だから、駄目だっていうのかよ!
つい舌打ちしたけれど、アンジェリカはそれを気にせずに続きを口にした。
「ユーリだったみたいなの」
「え?」
「別に夢じゃなかったのよ。あなた、だって、一緒に寝てたんですもの」
「は?」
訳が分からずにユーリは焦る。
「だ、だって、俺、蛙だったのに」
「知らないわよ、そんなこと。でもあなたと一緒に寝なくなったら、あの男の子は現れなくなったし。だいたい、そっくりなんだもの。疑いようがないわ」
なんだか次第にアンジェリカの口調に怒気が含まれてきた気がした。彼女は今の話題で“何か”を思い出したようだった。ユーリにはなぜ彼女が怒り始めたのか見当もつかない。
「そうよ、よく考えたら、私のことだましたのはユーリなんだから! なんで私がこんなに悩まなきゃいけないのよ! 失礼だわ、いくら何でも淑女の寝所に潜り込むなんて!」
すごい方向に怒りの矛先が向いたのに気付き、ユーリは青くなる。そこに話を持っていかれると当然次は、ユーリが一番恐れていたところに向かうに決まっていた。
「その上、お風呂まで!!」
「いや、その、それは! む、無理につれてったのはそっちだろう!?」
「見たんでしょう!? どうしてくれるのよ!!」
アンジェリカはユーリを睨みつける。
ユーリは迫力に圧されて口を開いた。
「……せ、責任はとらせてもらうから!!」
――し、しまった――
ユーリは必死で考えていたプロポーズの言葉が一瞬で粉々になるのを感じた。
アンジェリカは目を丸くして固まっている。
「どういう意味?」
――俺のバカ! 大バカ!
「そ、その……俺、と、けっこん」
そこまで言って、ユーリは急激に襲ってきた痛みのため一気に血の気が引いていくのを感じる。体の方が限界だった。
――さ、最後まで言わせてくれ……!
願いもむなしく、ユーリの足下が崩れ落ちる。最後の力を振り絞るように、唇を必死で動かす。瞼が閉じる前、ユーリの青い瞳には、アンジェリカの泣き笑いのような顔だけが映っていた。
*
リュンベルク城の前にはカストックからの迎えの馬車が集まっていた。馬のいななきや大勢の侍従の興奮した声でまるで祭りのように騒がしい。
ハインリヒは目に涙を浮かべながらその光景を見つめていた。
――ようやく。ようやくこのときを迎えられました。王、王妃様、そして……ルーツィエ殿。
ユーリが完全に回復するまでひと月以上かかってしまっていた。いつの間にかもう収穫祭も近い。
見上げると、白い鳥たちが青く高い空を踊りながらさえずっている。まるで今日の日が祝福されているようだ、ハインリヒはそう思った。
後ろから聞こえる足音に振り向くと、ユーリがアンジェリカの手を引いて歩いて来ていた。
ユーリはその髪の色と同じ漆黒の衣装を身に纏い、所々に入った意匠を凝らした刺繍はアンジェリカの髪の色と同じ金色。アメジストとサファイアで出来た耳飾りを片耳に垂らしている。背は隣のアンジェリカより頭一つ抜けていた。蛙になる前に着ていた服はまったく入らなくなってしまい、仕立て屋が急遽呼ばれ、ユーリの服を大量に作り上げた。
アンジェリカは金色の波打つ髪を緩やかにまとめ、白い花を所々に散らしていた。薄い桃色のドレスを身に纏い、頬をバラ色に染めている。
ハインリヒは絵のような二人を見て、ようやく自分の役目が終わった事を感じた。
ユーリが蛙に変わってしまってから、ハインリヒは心の底から微笑む事など出来なかった。自分の心に固く鍵をかけ、戒めていたのだ。ようやく今その鍵を外すことが出来る。
ハインリヒは静かに微笑むと、大きく息を吸い込み目を瞑る。澄んだ空気が体全体に染み渡る。胸の奥でパチンと鍵が壊れる音がした。
ゆっくりと目を開けると、遠くの地平線では森が色とりどりの衣を纏い、金色の小麦が日の光に煌めいている。ハインリヒの目に映る景色が全て輝いて見えた。
――ああ、世界は美しいなぁ――
「ハインリヒ、出発だ」
ユーリがハインリヒに声をかける。声は自信に溢れ、生きる力がみなぎっている。体だけでなく、心までもがひと回りもふた回りも成長した主人が頼もしかった。
そして今このときから、ハインリヒの主人はもう一人増えるのだ。
心からの笑みを浮かべる主人とその将来の伴侶を交互に見つめて、ハインリヒは彼らに負けないように微笑んだ。
「はい、フェルディナント様、アンジェリカ様。――帰りましょう。カストックへ」
― fin ―