24 魔法の解けるとき

 広い廊下には部屋から追い出されたハインリヒと王、イザベラとベアトリクスが神妙な顔で立ち尽くしていた。
 脇を取り囲むように、侍女や侍従が次々に集まって来る。
 だが、窓から見えるどんよりとした雲り空のように、重い雰囲気に誰一人として言葉を発さなかった。
 口火を切ったのは意外にもイザベラだった。
 堅い声が廊下の空気を切り裂く。
「ハインリヒ殿」
 ハインリヒは縋り付くような目で扉を見つめていたけれど、少しだけイザベラの方に顔を向けてのろのろと答える。
「何でしょうか」
「あの蛙の正体は……フェルディナント王子ですのね?」
 賢い王女はあっさりと言い当てる。ハインリヒはそんなに驚かなかった。飄々とした様子から、答えは随分前に出ていたように見えた。
「はい」
 なぜか今になって口が素直に動いてくれた。ユーリの命が縮むと同時に、魔法の威力も削がれているのだろうか。
 それならば、部屋に飛び込んで、叫び散らせば、アンジェリカはユーリにキスをしてくれるかもしれない。ハインリヒは足を進めようとしたけれど、結局一歩も足を動かす事が出来なかった。
 そのキスは、きっと意味の無いものになってしまうのだろう。以前のベアトリクスとのキスと同じものに。
 そんな考えがハインリヒの体を固まらせた。
 必要なのは、アンジェリカが『かえるのユーリ』にする邪念の混じらない純粋なキスだった。
 今ハインリヒが飛び込めば、取り返しがつかない事となる。彼は堅く信じていた。
「やっぱり、そうだったのね」
 隣でベアトリクスが悔しそうに呟く。
「イザベラもベアトリクスも知っていたか。となると、知らないのは、アンジェリカだけなのだな」
 王が重苦しい声で呟いた。
「なんであの子なの。どうして私ではいけないの」
 ベアトリクスの憤慨したような声が響く。彼女があれだけ尽くしたにも拘らず、最期の時に、ユーリは他の誰でもなく、アンジェリカを選んだ。
 しかもそれが、元に戻りたいという願いではなく、純粋に彼女に傍にいて欲しい、そういう願いだったのは、誰の目にも明らかだった。
 二人の間にはどんな人間も、たとえ産まれた時からずっと一緒であるハインリヒでさえも入り込めなかった。
 しかし、ベアトリクスはどうしても納得いかないようだった。頬を薔薇色に染め、目を真っ赤に腫らせて泣きじゃくりながらも、表情だけが不満を訴えていた。

 そんなベアトリクスを、王がやんわりと諌める。
「ベアトリクス。お前は、彼が何者かを知っていたからこそ、好きになったのだろう。もし彼がただの蛙であっても、友人になろうと思ったかね? アンジェリカはそれをやってのけたのだ。あの子が彼を見る目は、他の誰よりも純粋だった。だから彼はあの子を選んだ。賢いお前の事だ。本当はもう分かっているのだろう?」
「…………」
 ベアトリクスは涙を拭いながら、重たい扉をじっと見つめていた。
 廊下には再び沈黙が訪れる。
 今は奇跡が起こる事を祈るだけだった。ハインリヒは一歩扉に近づくと、跪く。
 ――お願いです。アンジェリカ様。どうか。
 ハインリヒに合わせるように、皆一様に扉の前で祈り続けた。いつの間にか侍従達も周りを取り囲み、手を組み皆で祈った。
 祈るしか出来る事は無かった。ただ一人、アンジェリカを除いては。

 永遠とも思えるような長い時間が経ったかに思えた。
 ふと窓から一筋の光が廊下に差し込み、ハインリヒの顔を明るく照らした。その目映さに、彼は薄く目を開ける。
 部屋の中の空気が変わったような気がした。部屋を包んでいた重苦しさが、ぱちんと割れるような感覚に、ハインリヒは顔を上げる。硬直していた体が滑らかに動き出す。

 ――もしかして。

 ハインリヒは確認するかのように呟く。
「ユーリウス・フェルディナント・カストック殿下」
 ハインリヒの口は何の障害もなく、その名を発していた。


 *


 頬に温かい息が触れる。
 想像していた感触とは違う気がして、アンジェリカはおそるおそる片目を開けた。
 すると、目の前には長い漆黒の睫毛と、薄く開けられた目から覗く深海のように青い瞳。
 ――え、ええ!?
 仰天して離れようとするアンジェリカの体に、腕が巻き付く。力強く抱きしめられて、アンジェリカは身動きが取れなくなった。
 唇には変わらず何か柔らかいものが触れていた。
 何が起こっているかまったく分からず、アンジェリカは混乱した。
 ――あれ? ユーリは? ユーリは一体どこに行ってしまったの!?
 あまりの事に、アンジェリカは自分が先ほどまで悪夢を見ていたのではないか、それか、今のこの状況が夢ではないのか、とそう思った。

 腕はなかなか緩まず、アンジェリカは、息苦しさも手伝って頭が爆発しそうだった。
 扉が開く音が後ろで聞こえ、ようやくアンジェリカは解放される。
「――ユ、ユーリ様ぁ!!!!」
 ハインリヒの間の抜けた叫び声が部屋に響き、アンジェリカは愕然とする。
 思わず部屋の中を見回すが、涙に濡れたハインリヒの視線は、アンジェリカの隣で横になっている“少年”に向けられていた。
「ゆーりさまって…………だれ」
 アンジェリカが呆然と呟くと、隣から答えが返ってくる。
「俺だよ。アンジェリカ」
 苦しそうだったけれど、驚くほど澄んだきれいな声だった。
「うそよ、そんなの」
 アンジェリカは力なく首を横に振った。目に映る異常に美しい少年が、どうしても現実のものと思えなかった。
 ――だって、だって、あれは夢のはずなのに!
「元の姿に戻られたのですね、フェルディナント王子」
 後ろから入って来た父が、感激のあまり涙を流していた。
「フェルディナント………って、えええええ!?」
 さすがにアンジェリカも隣国の王位継承者の名は知っていた。周辺国の姫ならば誰もが憧れる大国カストックの王子。
 あまりに有名すぎるその名前に、アンジェリカは飛び上がった。
 同時に、ユーリに出会ってからの自らの仕打ちを思い出す。
 ――ええと、残り物を食べさせて、ひどいことを言って、極めつけは壁にぶつけて……。
 一緒に過ごした日々の生活についても思い出し、一気に青ざめる。
 ――それから、一緒のベッドで寝て――そうよ、そういえばお風呂も……!?
「――う、うそよ――!!」
 アンジェリカの目の前が一瞬真っ暗になる。足元が崩れていくようで、体を支えられずにその場にしゃがみ込む。
「うそじゃないって」
 見上げると、青い瞳がアンジェリカを甘く見つめていた。それはアンジェリカが想像していた以上に、美しく澄んだ瞳だった。
「ありがと、な。お前のおかげで元の姿に戻れた……」
 照れくさそうに言いつつも、ユーリの呼吸は苦しそうで、先ほど一瞬だけ輝いていた顔も、見る見るうちにに血の気を失っていく。
 やがてユーリは青い顔でアンジェリカに懇願した。

「でも、やっぱり俺、死にそうだ。も、もう一回、医者を呼んでくれるか?」