温泉と蛙

 メイサは一人、湯の中に浸かっていた。
 そして目の前の物体とにらみ合った。“それ”は、湯から出ようとするメイサの行く手を阻み続け、彼女をある意味真摯な目で見つめ続ける。
「ゥモウ」
 その太い鳴き声に威嚇され、手のひらほどの大きさの体にも威嚇された。
(な、なんでこんなに大きいわけ。そして何、その気味の悪い鳴き声は――)
 “それ”がメイサに向かってぴょんと跳ねた。悲鳴を必死で飲み込み、泣きたくなりながら、メイサは逃げるように湯の中に潜り込んだ。

 * 
 
 逗留先に到着後、すぐに入浴の準備が整った事を知らされた。それを聞くなり彼は言った。
『ほら、行くぞ』
 あまりに普通に言われて頷きかけたけれど、行き先は風呂だ。それにここはアウストラリスではない。故郷とは違って、浴室では服を全て脱ぐことを寸でで思い出した。
『ちょっと待って。一緒に入るわけないでしょ! 一人で平気!』
 反射的にそんな風に彼の誘いを撥ね付けた。そして、ちっと舌打ちする彼を一人風呂に追いやったのだ。そして彼が風呂から出たのを見計らって彼女も風呂を頂いた。
 あれはきっと確信犯。彼がどういうつもりでそう言ったのかすぐに想像がつく。ちょっと思い浮かべただけで、メイサはのぼせそうだった。

 体を洗い、教えてもらった通りに端にあった扉から外に出た。とたん、空から降り注ぐ冷気が体を冷やし、慌てて湯の中に浸かった。
 入り口付近、足元にぽつりと置いてある外灯の他には灯りは無かった。頭上には満天の星空が広がっていた。そして体の周りには星明かりを反射する大量の湯の川があった。
 
 ここはオリオーヌ州にある皇子シリウスの別邸で、元は彼の母親の実家だそうだ。管理していた彼の叔母が後見として宮に入ったため、彼の管理下となったそうで。
 ツクルトゥルスやケーンなど北部の都市の視察の拠点に使うといいと提案され、それに甘えさせてもらっている。
 皇子とスピカが幼い頃を過ごした、思い出の場所らしかった。
 そんな大事な場所に?と驚いたけれど、皇子は「滅多に来る事もないだろうし、最大限にもてなしたい」とここを案内してくれたのだ。
 ジョイア北部では所々温泉が湧いているそうで、この別荘にもその湯を引いた大きな風呂があった。岩を組んで出来た屋外の風呂には、かけ流しの湯が溢れ続けている。あまりの贅沢さに目を回しそうになりながらも、メイサは一人風呂を満喫していた。
(ああ、素敵)
 しかし、楽園にいるような気分はそう長く続かなかった。
 
 ……出たのである。
 
 屋外ということは、つまりは、外部からの侵入があるという事だ。なにしろ屋根は無いし、空からの侵入者は防げない。壁は高いけれど、登り切れば侵入は可能だった。
 屋敷周辺にはルティが置いた護衛が張り付いていて、もちろん人の侵入は無い。しかし、小動物となると、防ぎようが無かった。特に、今メイサの目の前にいるような、跳ねる事を得意とする動物ならば。
(こ、こんなに大きくなかったわよね!?)
 メイサは浴槽の縁にしがみついて、口のすぐ下まで湯につかったまま観察した。
 昔ルティが持ち帰った干物は、これほどの大きさではなかったはず。干涸びていたから小さくなっていたのだろうか。それにヨルゴスの部屋にあったものもこれほど大きくはなかった。
 実物がこんなにぬめぬめとしているとは思わなかったし、こんな風に鳴く事も知らなかった。そして、こんな風に跳ねる事も――

『アウストラリスでは滅多に見ない水辺の生き物なんだぜ? ぴょんぴょん跳ねて、妙な声で鳴くんだ。退屈だろうから持ってきてやったのにさ』

(――ああ、そういえばそんな事言ってたかも)
 昔のルティの声が耳に蘇って頬が緩みかけたけれど、今は感慨深いとか言っている場合ではない。助けを呼ぼうか――そう考えた直後に否定する。
(今悲鳴なんかあげちゃったら、ルティが入って来るに決まってるし!)
 メイサが「覗かないでね!」と釘を刺して浴室に入るときも、彼は傍にあったソファを陣取って、不満そうにメイサを見つめていたのだから。
 浴場で。何も身に纏わない姿で。しかも、彼は今服を着ている。それじゃあ、一緒に入るよりさらに恥ずかしいに決まっている。
(ああ、困った)
 メイサは蛙と目を逸らし、策を考えた。とにかく、道をあけてもらえないと通れない。
(お湯、かけたら逃げるかしら?)
 試しにと、湯を掬って蛙の方にかけてみる。しかし、蛙はまるでメイサをからかうかのように高く跳ねて湯の塊を避けた。
(……だめか……ああ、もう)
 さすがにのぼせてきたのを感じて、メイサは湯から半身を出した。しかし、誰も見ていないとはいえ、服がない状態で屋外というのはさすがに心細く、少し冷えたと思ったとたん、再び湯につかり直す。
(あたま、クラクラしてきた、かも)
 メイサは、ふらふらする体を支えようと、浴槽を囲む岩壁に寄りかかろうとして、結局立ち上がれずに慌てた。
 仕方なく石で出来た床に這い上がる。上半身を磨かれた大きな石にぴったりつけると、ひんやりして気持ちがよかった。むき出しの背中をよく冷えた夜風が冷やして行く。
(ああ、気持ちいい……)
 件の外灯の光だろうか。視界にはちらちらと赤いものが行き来した。
(なんだかルティの髪みたい)
 そんな風に思いながら誘われるようにうつらうつらとしかけたメイサは突如目を見開いた。
「う、そ……!」
 どういう心境の変化なのか、梃子でも動かないといった様子だった蛙が、メイサの方へと向かって突進して来ていた。その後ろ足が長く伸び、自分の体の何倍もの距離を一気に跳躍した。迫り来る物体にもメイサは目を丸くすることしか出来ない。のぼせで足が立たなかったのだ。
(お願い、こっちに来ないで!)
 蛙が迫って来る。何かに追われるように。夜の闇の中、入り口の外灯を背に鞠のように跳ねる。
 逃げ場を失い、慌てて起き上がろうとしたメイサだったけれど、足を滑らせる。どぼんと湯に沈み込みそうになった直後、
「馬鹿! 何やってる!」
 怒鳴り声と共に力強く湯の中から引き上げられ、声と腕の主の顔を見たとたん、気が緩んだメイサはあっさりと意識を手放した。
 
 
 メイサが次に目を開けたときには、彼女はベッドの上だった。
(ん……)
 メイサの目がゆっくりと焦点を取り戻すと、椅子に腰掛け、布団の上に伏せて眠っているルティが見えた。
 まさか――と思いつつ下を覗き込むと、寝間着が着せられていてほっとした。
 しかしすぐに状況を思い出して、彼が着せてくれたのだと気づいて頬が熱くなった。起き上がると額から濡らした布が落ちる。傍のテーブルには桶が置いてあり、なみなみと水が張られていた。
(看病してくれたの?)
 あの大きな手がこの小さな布を絞っているところを想像すると、愛しさで胸がぎゅっと縮んだ。
「ルティ」
 彼は目を開けない。眠ってしまったらしい。連日の視察で疲れているのに、心配をかけてしまったと反省したメイサは、小さく囁く。
「心配かけてごめんね」
 身を屈めて彼の頬にキスをして、素早く離れようとしたとき――頭の後ろに手が回った。
(え?)
 弾むように身を起こしたルティに唇を奪われる。そのまま寝台に押し付けられ、口内を散々犯される。そうしておいて、ルティは腹立たしげに言う。
「お前は! どうして、あんな風になる前に助けを呼ばない。一人で平気って――どこがだ!」
「だって……」
 言った手前、さすがに気まずくて顔を背けると、ルティは苛立たしげに髪をかきあげる。
「今更恥ずかしがる事なんか何も無いだろう」
「そ、そんなことないわよ!」
(ベッド以外で体を見られるのはやっぱり恥ずかしいのよ! っていうか、ベッドの上でも恥ずかしいけれど、余計になの!)
 そう思うものの、口にするのが恥ずかしくて、結局メイサは口ごもる。
「ああやって倒れる方がよっぽどまぬけで恥ずかしい。それに溺れたら、下手したら死ぬぞ」
 苦しげな顔に胸が痛んだ。確かに、助け出されなかったら、溺死体が出来ていたかもしれない。メイサは泳げない。
「うん……ごめんなさい」
 オアシスで溺れた時の事を思い出し、しゅんとして謝ると、ルティはようやく表情を和らげた。メイサの髪をそっと撫で、唇を寄せる。さっきとは違って今度は労るような優しいキスだった。
 するりと寝間着の合間から彼の手が忍び込み、胸を包み込んだ。ああ、いつもの夜が始まる。そう思ったとたん、胸が大きな音を立てだした。
(でも、今から相手するのはきついかも……)
 熱を孕み始めた体を感じながらも、それに勝る倦怠感。メイサが僅かに怯んだとたん、彼は身を引いた。そして僅かに不満そうな顔で言い放った。
「今日はゆっくり休め」
「え、でも」
 日課のようになっていた行為の中断にメイサは目を丸くする。
 とたん、ルティはにやりと笑った。
「そのかわり、明日の風呂は俺と一緒に入るんだ」
「え?」
「溺れられたら困るから」
「い、いやよ! 今日はたまたまだったの。蛙がいたから出れなかったの! だ、だから明日はそんな事にはならないし!」
「蛙? ああ、それで」
 泡を食ってメイサが訴えると、ルティは納得したように頷く。そして真面目な顔をして説明する。
「ここ、温泉だろう? 地下も温まるのが早いから、蛙が春が来たと勘違いしてどんどん冬眠をやめるんだ。だから、明日はきっともっと増えるかもしれない」
「え、え、じゃあ、蛙と一緒に風呂に入るのは確定な訳!?」
「諦めろ。冬は猿や猪もいるらしい。まだマシだろう?」
 彼の言葉に驚愕する。
(猿? 猪? なにそれ)
 アウストラリスではあまり名を聞かない動物だった。どんな動物だっただろうか。読んだ本を思い出していると、ルティが「このくらいの大きさで、顔が赤くて、尻も赤くて、尾がある。で、猪は馬よりは小さいけれど、臆病なくせに獰猛だ。どっちも人里を荒らす事が多いんだ。まだ完全に暖かくはなってないから――出るかもな」と丁寧に解説しだす。
(ええと、それは無理。絶対に!)
 下手したら裸で逃げ出さなければいけないことになりそうだ。
「だから、一緒の方がいいだろう?」
 なんだかルティの作戦に嵌っているような気がしないでもない。
 でも、くつくつと笑うルティがいたずらに成功した子供みたいに嬉しそうだったので、メイサは結局反抗を諦めた。蛙がいても猿がいても猪がいたとしても。ルティが傍にいれば平気かも、そう思ったのだ。
(もう。ほんと、しょうがないわね)


 翌日。メイサは再び風呂でのぼせることになる。前日とは別の理由だが、王太子の顔は前日とは違って酷く満足そうだったらしい。

 〈了〉


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2011.09.16
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