「あの……薬を飲ませていただきたいのですが」
ハインリヒが遠慮がちに急かしても、アンジェリカはもたもたと壜をその手の中で弄っている。そして一言、冷たい言葉を吐いた。
「私……気持ち悪くて触れないわ」
――あー、ユーリ様、これを聞いたら傷つくだろうな……。
仕方なくハインリヒはアンジェリカからその小さな茶色の壜を受け取ると、そっとユーリの口を開けて、一滴、そして二滴とその口の中にブランデーを垂らす。
正直に言うと、あまりいい方法だとは思えなかった。ユーリと酒はあまり相性がよく無いのだ。まだまだ子供だから、当然普段飲むものでないし、ブランデー入りのケーキを食べても赤くなってすぐに眠くなってしまうくらいだった。眠っている今の状態で酒を与えたら、余計に眠気が増すのではないかとハインリヒは心配した。
しかし、今はそうも言っていられない。本当にどこか悪かったら大変な事になる。
一滴。
「……」
何の反応もない。
もう一滴。
「……」
まだ無反応。
さらに一滴とハインリヒは琥珀色の雫を落として行く。
「……」
――こころなしか、顔色が良くなったような気がするかも。
ハインリヒは少し気を良くして、壜を多めに傾けた。
「あっ」
どぼどぼっとブランデーがユーリの口に流れ込む。
「うわあ!!」
――まずい! 非常にまずい! この小さな体でその量は致死量かも!!
その時、ユーリがぱちりと目を開ける。
「げふっ」
そうして盛大に咳き込むと、口の中の大量のブランデーをテーブルの上にぶちまけ、飛沫が宙を舞った。
「きゃあっ」
おそらくブランデーがドレスに飛ぶのを恐れたのだろう。アンジェリカが、後ろに飛び退く。
――女の子って……冷たい。
ハインリヒはまたもやがっかりしながら、ユーリを介抱する。
「ユーリ様。大丈夫ですか?」
ユーリは気管にブランデーが入ったらしく(そもそも蛙に気管があるかどうかはハインリヒもよく知らない)、非常に辛そうにげふげふと咳を繰り返す。
想像するだけで痛いし、熱い。
「う……ここは」
ユーリはかろうじて声が出せたらしく、虚ろな瞳でハインリヒを見上げた。
「ああ、王女様のお部屋です」
「アンジェリカの……?」
ユーリはぼそっと呟いたけれど、なぜか急に顔くしゃくしゃに歪ませる。なんとなく肌の色が明るくなったような気がした。酔いが回って血色が良くなったのかもしれない。
それははじめて見る表情で、どういう状態なのかハインリヒにもよく分からなかった。
ユーリは、おそるおそると言った様子で、アンジェリカの方をちらりと見た。そして小さな声でハインリヒに訴える。
「俺、ここにいたくないんだけど」
「王女様は、あなたのために医師を呼んでくださったのですよ」
ユーリは喉の奥まで見えるくらいに口をぽかんと開けた。
「俺のため……?」
また、ユーリの肌の色が赤に近づく。
――ひょっとして、照れているとか?
ハインリヒはふとそう思い当たる。
アンジェリカは確かに可愛らしい。ハインリヒの好みからはずいぶんと外れているが、一緒にいるうちに、ユーリは密かに恋心を抱いたのかもしれない。
何しろ、彼はまだまだ子供だ。ハインリヒでもアンジェリカの外見に惑わされているくらいだし、三歳も年下の彼なら、そうなってもおかしくない。
思わず呪いの解除の方法について思い出したが、
――絶対無理な気がしてきた!!
アンジェリカは、まず、ユーリに触れることすら出来ないのだ。それはさっきの言葉にも顕著に現れている。触れさえも出来ないというのに、キスなど絶対に無理だろう。
ハインリヒは離れたところで様子を伺うアンジェリカと、そして手前に見える蛙の姿の主人を並べて見て、こっそりとため息をついた。
――ユーリ様が、普段のお姿なら……なんて似合いなんだろうと思うのだけど。
華のようなアンジェリカと並ぶユーリを想像して、ハインリヒはため息をつく。それは絵に描いて額に飾りたいようなそんな光景だ。
しかし、そんなこと、起こり得るとはとても思えない。
ハインリヒはなんだか泣きたくなって来た。
――事故、じゃ駄目なのだろうか。た、たとえば……王女様の唇にユーリ様を押し付けてみるとか
ハインリヒはそんな物騒なことを考える。
しかし、彼ももう相当に追いつめられていたのだった。
*
視線が定まらず、気分が悪かった。吐く息が酒臭いのは一体なぜなのだろう。
――うう、頭がくらくらする……ええと、なんで俺はこんなことになっているんだっけ?
ユーリは思い出そうと努力する。
確か……ハインリヒが迎えにきて、ルーツィエの話を聞いて、呪いの解除について聞いた。
そして、絶望したのだ。
――蛙にキスだと? いくら出来た人間でも、気持ち悪いに決まっている。ハインリヒでも――それは俺も嫌だけど――出来ないだろう。ましてや……女の子が、今の俺にキスなんて。しかも俺が好きになった女の子限定とか。そんな奇跡のような話、そんなに簡単に落ちてるわけがない。ああ、俺、一生この姿のままなのか――
ユーリの頭の中にそんな想いが怒濤のように沸き上がる。
彼は自分の置かれた状況を思い出し、またもや気が遠くなりそうになった。
そんなユーリにハインリヒがそっと手を差し伸べた。
「ユーリ様、ひとまずお休みになりますか?」
ハインリヒはそう言って、ユーリを手の上に乗せる。
「どこにいかれるのです?」
アンジェリカが焦ったような様子で問い、ハインリヒとユーリは同時に彼女を振り返った。
その瞳がハインリヒを熱く見つめるのを見て、ユーリはどきりとした。
――なんだ、あの顔?
ユーリは昨日見たアンジェリカの熱っぽい顔を思い出す。
――まさか。……アンジェリカって、ハインリヒのことが?
思いつくと、ユーリはそれ以外に答えがないような気がした。
そうだ、この間の晩餐会。ユーリは蛙のため欠席したけれど、ハインリヒは出席しているはずだった。その時に見かけたのかもしれない。
――ハインリヒはいい男だ。こいつなら、アンジェリカのワガママもにこにこ笑って流せるだろう。……お似合いだ、お似合いだよな?
ユーリは思い込もうとするけれど、なんだかその思いをどうしても飲み込めなかった。
ハインリヒはそんなユーリをそっと包みこむと、怪訝そうにアンジェリカに向き合った。
「わたくしの部屋でお休みしていただこうかと……」
「ええ?」
アンジェリカは少し困ったように、ハインリヒとユーリを交互に見つめ、躊躇うような声で言った。
「あの、……『ユーリ殿』に少しお話が」
――『ユーリ殿』?
ユーリはまたもやぽかんと口を開けた。
先ほど医師を呼んでくれた件でも驚いたけれど、これにはユーリはもっと驚いた。そして訳の分からない熱い感情が沸き上がる。
――まさか名を呼んでくれるなんて!
「ああ、そうですか! ……それは、お邪魔してはいけませんね!!」
ハインリヒは一瞬ひどく驚いた顔をしたけれど、次の瞬間、妙に嬉しそうに顔をほころばせる。
ユーリはその姿を見てさらに唖然とする。
――ハインリヒも変だ。一体俺が居ない間に何があった?
ハインリヒは踊るような軽い足取りで、アンジェリカの部屋を出て行く。侍女がそれに付き添い、彼の部屋まで案内していった。
そして、部屋にはユーリとアンジェリカだけが残された。
*
アンジェリカは扉をじっと見つめている。話をすると言った割に、なかなか口を開かないアンジェリカに、ユーリは戸惑う。
「なんだよ、話って」
ユーリは妙に緊張して、切り出した。
「……あ、あのね。この間の話の続きなんだけど」
「この間?」
――あぁ、例の夢の中のオトコの話かよ。
ユーリは顔をゆがめる。
アンジェリカの変貌ぶりに、変な期待をしてしまった彼は、一気にハインリヒを追って逃げ出したくなった。こっそり後ろを向くと、アンジェリカが回り込んでそれを妨害する。
「ひょっとしたら、ハインリヒ殿が、そうなのかもって……」
――やっぱり。
嫌な予感が的中して、ユーリは顔の皮膚がぴりりと引きつるのが分かった。乾いた肌がひび割れそうだ。
「なんで? どこで会ったんだ?」
無性に気になって、ユーリは責めるような口調で尋ねる。
珍しく彼が話を聞く姿勢を見せたので、アンジェリカが驚いた表情を浮かべた。
「……お会いしたことはないと思うのよね……ただ、その夢の中の男の子、同じような黒髪だったの。だからもしかしたらって思って。気になって仕方がないのよ」
アンジェリカの頬が赤い。よく見ると金色の髪から覗く耳も真っ赤だった。そんな顔をした彼女は、そのワガママさなどどうでも良くなるくらい、どうしようもなく可愛らしかった。
ユーリはひどく悔しくなる。
――なんだ、ハインリヒのやつ。こんな可愛い女の子に好かれるなんて、羨まし――、
一瞬そう考えたユーリは、慌ててそれを否定する。
――俺は何を考えてるんだ!! こいつが可愛いわけないだろ! どうしよう、俺、酒のせいで頭がおかしい!
ユーリは一人焦った。
「ねえ、どうしたらいいと思う? 私、確かめたいの」
アンジェリカは瞳を潤ませて、ユーリを見る。
――なんでこいつの恋愛相談を聞いてやってるんだろう。
ふとそんな想いが落ちて来て、ユーリはなんだか急に馬鹿らしくなってきた。
「直接聞けば?」
一気に冷めたユーリはぶっきらぼうに言う。一転して急に聞く気をなくしたユーリにアンジェリカはむっとした様子だった。
「聞けないから言ってるの!」
アンジェリカは頬を膨らませる。
「だいたい、なんて聞けばいいのよ。『あなたの夢を見ます』って?」
アンジェリカがそうハインリヒに言っているところを想像して、ユーリは頭に血が上る。
――ああ、もう駄目だ。考えたくない。なんでこんなに嫌なんだ。馬鹿らしい。そうだ俺は、ハインリヒをこいつに取られるのが嫌なんだ。こんな女にハインリヒはもったいなすぎる。ハインリヒにはもっとしっかりした大人の女性が似合う。そうそうこいつの姉さんみたいな。だからこんなちんちくりんじゃ駄目だ。きっとそうだそうに決まってる――
ユーリは必死で自分に言い聞かせる。
まっすぐに自分の心を見つめるのはなんだか怖かったのだ。