9 姉ベアトリクスの企み

 その日、アンジェリカはめずらしく真剣に授業を受けていた。
 一緒に授業を受けていた姉たちが不気味に思うくらいの真剣さだった。
 もともと、アンジェリカは勉強が大嫌いだ。しかし、今日の彼女は知りたいことがあったのだった。――例の蛙の名前である。
 蛙の名前自体は、そんなに興味のあることでもない。
 ――道ばたに咲いていた綺麗な花の名前……いや、そんな喩えはおかしいわよね。……そうそう、“あれ”の名前は何かしら? くらいのものよ。
 アンジェリカは足元を這っている、指の先ほどもない小さな虫をちらりと見ると頷いた。
 彼女にとっては、それより、黒髪の少年の正体の方が重要だったのだけれど、その鍵を握ると思われるハインリヒに直接そのことを問うわけにはいかない。第一どのように切り出せば良いのかも分からない。
『あなたに似た少年を毎日夢で見るのです』
 ――これでは、まるで愛の告白だわ。
 ハインリヒに尋ねている自分を想像すると、顔から火が出そうだった。
 だから、突然そのようなことを聞くのではなく、ひとまずは共通の話題を持ちかけて、親しくなることが先決だと思ったのだ。
 共通の話題と言えば、彼が探しにきたという蛙の存在がちょうど良い。前にアンジェリカは“その名”を調べようとした事を思い出していた。

 彼女はカビ臭い図書室に籠って少し調べてみたのだが、勉強嫌いが祟って、どこをどう調べればよいか、全く分からなかった。大量の本に囲まれ、慣れない環境に次第に気分も悪くなる。
 そうしてしばらく資料をあさるうちに、その場所にいることさえ嫌になってしまった。
 彼女はあっさり調査を打ち切って、教師に聞くことにした。幸い今日は、諸外国の文化についての授業だった。
「先生。……あの……聞きたいことが」
「はい、アンジェリカ様。どうなさったのです、質問なんて珍しい」
 教師は重そうな瞼を持ち上げ、目を見開いた。姉達も驚いてアンジェリカを見つめている。
 視線を気まずく思いながら、アンジェリカは口を開いた。
「ええ……ええと、ユーリという名の、カストックの人物について知りたいのです」
「ユーリ、ユーリねえ……なんだか聞いたことがある気もするんですけどねえ……。わりとありふれてはいる気がしますけれどねえ」
 アンジェリカの教師は、父王をも教えていたという熟練の教師で、ずいぶんと高齢だ。
 彼は、白くなった長い髭を撫でながら、目を天井に向けて考え込んでいる。齢のせいか、すぐには記憶を辿れないようだった。
 先ほど視界に入った虫がのんびりと机の上を這っている。アンジェリカはいつの間にかぼんやりとそれを目で追っていた。
 虫がテーブルの端まで辿り着く頃、教師がようやく口を開いた。
「思い出せませんねぇ。ご自分で調べてみてはどうでしょうか? 図書室の諸外国の文化の棚に――」
 教師が言いかけるのをアンジェリカは遮る。
「もう調べました。でも全然分からないんですもの。本は黴臭いし……もうたくさんです」
 教師の顔に僅かな呆れが滲む。
「そうですか……じゃあ、次の授業までには調べて来ましょうかね。それでいいですか?」
「……」
 ――ああ、役に立たないわね。
 期待していた分、アンジェリカはがっかりして大きくため息をついた。彼女の顔に明らかな不満の色が現れるのを見て、教師はやれやれといった表情で、椅子から腰を上げる。
「よっこらしょ」
 足を押さえて辛そうに立ち上がる教師を、イザベラが手伝う。彼女は相変わらず膨れたままのアンジェリカを横目で冷たく睨みながら、教師と一緒に部屋から退出した。
 ――なあに? イザベラお姉様、何に怒っているの? もしかしたらあとでお説教? 逃げちゃおうかしら。
 憂鬱になるアンジェリカに、隣に座っていたベアトリクスが不審そうに声をかける。
「なあに? ユーリって」
 強引に覗き込む瞳はアンジェリカが逃げるのを許さない。アンジェリカは面倒に思いながら、渋々答える。
「私のペットのあの蛙がそう言う名なの……なんだか事情があるみたいで。それを知るためには、名前が鍵になっているようなの」
「ふうん……今朝、朝食の時にいらしたあの彼と何か関係があるの? あの方カストックの人でしょう?」
「……探しにきたんですって。蛙のこと」
 アンジェリカは何気なくそう言った。
「へえ、ユーリという蛙をねえ……」
 ベアトリクスは今の話のどこに興味を持ったのか、急にウキウキし出した。
 その茶色の瞳がいつもよりきらきらと輝きを増している。過去の経験から思い返すと、こんな時の姉は、ろくなことを考えていない。ひどく嫌な予感がした。
「なあに? お姉様ったら」
「ふふふ、あんたは知らなくっていいのよ。
いつもみたいに、のんびり、ぼーっとしてればいいの」
 ベアトリクスは意地悪そうに微笑むと、その長い金色の髪とドレスの裾を揺らしながら、いそいそと自室に帰っていった。
 広い部屋にはアンジェリカが一人ぽつんと取り残される。
 ――何かしら。なんだか不愉快だわ。
 ベアトリクスは最初から最後までアンジェリカを馬鹿にしたままだった。
 アンジェリカは一生懸命姉の態度について考えた。けれど、材料が足りないのか、ベアトリクスが何を企んでいるのか見当もつかなかった。
 やがてアンジェリカはため息をついて、考える事止める。
 ――とりあえず、蛙の事は来週になれば先生に教えてもらえるんだし。深く考えることもないわよね?
 考え慣れていない彼女は、急に何もかも面倒になってしまったのだった。

 *

 その午後、アンジェリカは裏庭を歩いていた。
 木の陰は日の光の強さに比例するように濃くなっている。なるべく影から影を伝いながら足を進めるけれど、まだまだ残暑は厳しく、アンジェリカの額にはもうびっしりと玉の汗が浮いていた。
「ここにも居ないわ……一体どこに行ったのかしら」
 アンジェリカは泉を覗き込む。彼女は蛙を探していた。

 昼食時にはさすがにお腹が空いて戻ってくるのではないかと待っていたのだけれど、蛙は帰って来なかった。
 ――困ったわ。
 実はアンジェリカの好き嫌いは、蛙のせいで悪化していたのだ。今日は蛙が居ないため、嫌いな人参の行き場が無く、こっそり捨てようとしていたら、とうとう父親に見とがめられてしまった。
 この頃残さずに褒められていただけに、結構堪えてしまった。それで、困り果て、結局は自分で探しに出る事にしたのだ。
 可愛くないペットだけれど、居なくなるとと不都合だし、万が一飢え死にされでもしたら寝覚めも悪い事に気が付いたのだ。
 ――蛙の行きそうなところねえ……。
 アンジェリカは少し考えると、例の泉に向かうことにした。
 しかし、泉に向かう途中でばったりと出くわしたのは、ハインリヒだった。

「ああ、王女様……」
 その手の上にはべろんと伸びた蛙。
 彼は両手の手のひらを開いて、その上に大事そうに蛙を抱えている。顔を見上げると彼は泣きそうな顔をしていて、アンジェリカは驚いた。
「あ、蛙……じゃなくって、『ユーリ殿』。見つかったのですね」
「はい。……ただ、あの、暑さのせいか、空腹のせいか伸びてしまわれて……」
 ――なぜそんなに恭しいの……?
 アンジェリカはハインリヒの態度を不審に思ったけれど、とりあえず、蛙の様子が気になり、彼の手の中を覗き込んだ。
 茶色がかった緑の体が、いつもより青に近い……ように見えないことも無い。
「とにかく、部屋に運んで、様子を見ましょう」
 心底心配そうなハインリヒの顔の顔を見て、アンジェリカは付け加えた。
「一応、医師も呼ぼうかしら?」
「お願いします」

 部屋の中に、ハインリヒとユーリを招き入れると、アンジェリカは侍女に言いつけて医師を呼んだ。
 侍女が出て行ったため、部屋の中にはアンジェリカとハインリヒと蛙の二人と一匹だけ。
 急にそのことを意識して、アンジェリカの頬がカッと熱くなる。
 そんなアンジェリカに気づくことも無く、ハインリヒは心配そうに蛙に付き添っている。まるで家族が重い病気にかかってしまったような表情だった。
 沈黙は気まずいし、何か話をしたいと思うものの、全くと言っていいほど話題を思いつかない。
 なにしろ、ハインリヒは蛙に夢中だ。
 ――こういう時は、男性が気を使うべきなのに……。
 アンジェリカは空気も読まずに、ハインリヒに不満の視線を送り続ける。
「お待たせしました」
 医師が額に浮いた汗を拭きながら入室してきて、アンジェリカはようやくハインリヒを見つめるのを止めた。
「病人はどこでしょう」
 アンジェリカは黙って蛙を指差す。
「……王女様、まさか、病“人”は、コレでしょうか……」
 医師は困ったように頭を掻く。
 ハインリヒが必死に医師に言いよる。
「お願いします。大事な方なんです!」
「………大事な、方?」
 医師は目を白黒させている。
 そのちぐはぐな光景があまりに滑稽で、アンジェリカは笑いを堪えるのに必死だ。
 それでも印象を悪くしないため、アンジェリカは一緒になってお願いする。
「おねがい。診てあげてちょうだい」
「と言われましてもねえ……一応、呼吸も規則的ですし、寝ているだけな気もしますけど」
 医師は蛙のそのぬめぬめした肌におそるおそる触れると、気味悪そうに上のまぶたをそっと持ち上げ、目の動きを見たり、口を開けて喉の奥を見たりと、一応の診察を行った。
 そして一言、きっぱりと言った。

「わかりません」
「……」

 部屋に生温い沈黙が流れる。
 ――それは、そうよね……。人間とは造りが違うのだもの。
 アンジェリカはため息をつく。
 ふと隣を見ると、ハインリヒは真っ青で、今にも倒れそうな顔をしている。
 そんなハインリヒを哀れに思ったのか、医師は手を拭いながら、古ぼけた鞄をごそごそ探ったかと思うと、小さな壜を取り出した。
「これを」
 アンジェリカは小壜を受け取った。
「なあに?」
「ブランデーです。酒は百薬の長と言いますし……一滴二滴、飲ませてみて下さい。気付けになるかもしれません」
 ――……かもしれない、ね。この先生、いつもこうやって適当なんだから。
 この医師は結構な頻度で出す薬を間違っているらしい。先日も、姉が熱冷ましの代わりに腹痛の薬を出されたと怒っていたのを思い出す。それでも不思議と熱は下がったのでお咎めは無かったのだけれど……今回もうまくいくかと言われると分からない。
 アンジェリカは医師に不信の目を向けつつ、礼を言って部屋から送り出した。