ユーリは結局アンジェリカの話をだらだらと聞いてしまっていた。
ひたすらに、夢の中の少年がどれだけ素敵だったか、本当にハインリヒがそうなのか、そうだとしたらどうすれば想いを伝えられるかということの繰り返し。
終わったかと思うと、また同じようなことで悩み出す。
そもそも夢の中の少年とハインリヒが同一人物かなど、そんなこと確かめようが無いのだ。
アンジェリカがそう思えばそう。違うと思えば違うのだ。いくら悩んでも解決するわけが無い。
ユーリの体からは、次第に変な汗のようなものが出てくる。
彼は自分がなぜ話を聞いてるのかも分からないし、なぜこんなに不快なのかも分からない。
とにかく、そのきらきらした瞳から目が離せなかったし、弾んだ声も聞き逃せなかった。それなのに、話の内容はひどく不愉快でたまらない。
話を大方聞き終わったころには、ユーリは全身の水分を全て失ったかのように干からびていた。
「……俺、今日はハインリヒのところで寝るから」
やっと話が途切れたところで、ユーリは息も絶え絶えに伝えると、逃げるように部屋を飛び出した。
そして例によって泉に浸かる。乾いた体に水分がしみこみ、ようやく人心地付いた。
ユーリはもう心も体もくたくただった。
大きくため息をつき、ふと空を見ると日はもう西に傾きかけていた。
――よく考えたら、もうここにも用事はないよな。ここにいても……元の姿に戻れるとは思えないし。
ユーリは泉のふちに仰向けに寝転がると、大の字になって天を仰ぐ。空はアンジェリカの瞳と同じ色に染まっていた。
――ハインリヒに言って……明日にでも国に帰ろう。国に帰れば、俺の呪いを解いてくれる人間がひょっとしたら居るかもしれない。父上に言って、出来るだけたくさんの女の子を集めてもらって。
そう考えようとするけれど、考えれば考えるほど、ユーリは余計にむなしく絶望的な気分になってくるのだった。
タタタと足音が聞こえてそちらを見ると、一人の少女がキョロキョロしながらこちらへやってくる。
逆光になっていて、輪郭からはみ出る髪が夕日で赤く煌めいているけれど、あれでは誰だか分からない。
――アンジェリカだろうか。……またさっきの続きか?
ユーリはそう思って今度こそは体が固まる前に逃げ出そうと構えた。もうこれ以上は無理だと思った。
少女はユーリをめざとく見つけると、素早く駆け寄ってくる。
金色のくせのない髪、金茶色の瞳の派手な顔立ち。アンジェリカのすぐ上の姉、ベアトリクスだった。
ユーリは起き上がって座り込む。
さすがに堂々と腹を見せているのは具合が悪かった。
「ユーリ様?」
――……『さま』?
ユーリは驚きすぎて後ろによろけ、泉に落ちる。
ベアトリクスは泉に手を突っ込むと、ユーリを難なく掴んで引き上げた。
「そうですわね?」
その瞳が熱くかがやくのをみて、ユーリは目が回りそうになる。
とても蛙を見る目つきではなかった。
「あの、なんか用?」
ユーリは戸惑いながらも聞いてみる。
「わたくし、ベアトリクスといいますの。フェルディナント王子ですわよね? ずっとお話したかったのです」
――フェルディナント!?
ユーリは驚いて答えようとしたが、次の瞬間ベアトリクスが、ユーリの小さな手をぎゅっと握る。
手が千切れそうになったユーリは悲鳴を上げた。
「あのさ、そこつかまれるとめちゃくちゃ痛いんだけど……!!」
ベアトリクスは全くそれを無視して話し続ける。
「アンジェリカばかり、ずるいと思っていたのです。わたくしもお話したかったのに」
「いいから、離してくれ!!」
ユーリは、空いてるほうの手で、ベアトリクスの手をぺちぺちと叩くが、彼女は全く気にする事もなくにっこりと微笑んだ。
「ああ、カストックの挨拶は、握手ではありませんわね」
――どうしようもない。話通じねえ!
ベアトリクスが手を離した隙に、ユーリは慌ててその手から逃れた。
そして彼は部屋に向かって全速力で跳ねだす。
話の通じない人間など、彼にとっては怪物以外の何者でもなかった。彼は今、命の危険さえ感じていた。
そのためユーリの頭には、ベアトリクスが何の抵抗もなくユーリに触れていたということなど、かけらも残らなかった。
「待ってください! ユーリ様! 今日からわたくしの部屋で――」
後ろでベアトリクスが叫んでいるけれど、必死なユーリの耳には届かない。
――ひ、ひどい目に遭った……。
ユーリは跳ねて跳ねて跳ねまくって、ようやくアンジェリカの部屋の前にたどり着いた。しかし、よく考えるとハインリヒの部屋が分からない。
侍女に尋ねようと思ったけれど、ユーリの言葉が分かる人間は限られていた。
この城の人間では、リュンベルク王とアンジェリカしかいないのだ。
もう先ほどのような目には遭いたくないと思い、渋々ユーリはアンジェリカの部屋に戻る。
扉を叩くと、微かな音にアンジェリカが反応して部屋から顔をのぞかせた。
「……あら?」
アンジェリカは意外そうに足下を見下ろす。そして、ウキウキした顔でユーリを覗き込み、驚くようなことを口にした。
「さっきは、話を聞いてくれてありがとう」
ユーリはぽかんと口を開けた。
――こいつ、本当にアンジェリカか?
他の人間がアンジェリカの皮を被っているんじゃないかとユーリは思った。
「誰にも言えなかったから、すごく苦しかったの。すごく助かった。また話を聞いてね、ユーリ」
ユーリは心臓が口から飛び出しそうだと思った。
はにかむような笑顔から一瞬も目が離せない。それと同時に、どうしようもなく胸が痛くなった。
――この笑顔は……俺のものじゃない。
ユーリは、生まれてはじめて、ハインリヒを憎いと思った。
*
――それにしても驚いたなぁ。あのお姫さまは、ユーリ様と話が出来るみたいだ。
ハインリヒはひどく驚いていた。
ルーツィエが言っていた言葉をよく思い出すと、正確には『子供のような心を持ったもの』と言っていた気がする。
そうであれば、話は違う気がした。
ただの蛙にキスは出来ないが、話の出来る蛙となれば、可能性はゼロではない……ような気がする。
何事も前向きな姿勢が大切だ。
ハインリヒは無理やりそう思い込むことにした。
――となると、ユーリ様の内面に惚れて頂く必要があるわけで。
ハインリヒは考え込んだが、今前を向いたばかりの気持ちが後ろを向きかけるのがわかる。
――やっぱり無理な気が……。外見ならまだしも、内面……どうやってあれを矯正しろというんだろう。
普段のワガママ放題のユーリを思い出し、次第に頭が痛くなってきた。
しかし、やらねばならなかった。
ハインリヒは背中にカストックの未来を背負っていた。
――とにかく、ユーリ様の気持ちをまず確かめないといけないなあ。
ハインリヒは先ほどのユーリの様子を思い浮かべて微笑んだ。
まず間違いないはずだけれど、彼はきっと認めないはずだ。
――あの人は変なところでプライドが高いんだよなぁ。王子だから仕方がないけれど。ともかく、まずは、認めてもらうところからはじめようか。
ハインリヒはこっそりと作戦を練ることにした。
ハインリヒが夕食へ向かうと、すでにユーリはアンジェリカに連れられて席に着いていた。
だが、なぜかユーリがこちらを見る目つきが鋭いような気がする。
――ユーリ様? なぜそんな目で……?
ハインリヒはユーリの様子ばかりに気をとられ、アンジェリカが彼に熱い視線を送っているのには全く気がつかない。
ユーリはアンジェリカの皿から、丸い指で器用にサラダを掴んでは口に運ぶ。
「おい、また残してるぞ、肉」
アンジェリカは少し不機嫌な顔をすると、フォークに細かくした肉を刺してユーリの口に向ける。
「もう食べられないから、ユーリにあげる」
ユーリはびっくりした顔をしながらもその口を大きく開ける。
――うっわあ、惜しい、惜しいなぁ!
ハインリヒは一人で悶絶する。
もしユーリが人間の姿だったら……そして、もうちょっとアンジェリカが嬉しそうにしていたらと、想像すれば思わず頬が緩むのだ。
口をモゴモゴ動かしているユーリは、何とも表現しがたい様子で手をすり合わせてもじもじとしていた。
――いいなあ、ユーリ様。
ハインリヒはユーリの気も知らず、うらやましさからため息をつく。
ふと溜息が聞こえて、隣に座っているリュンベルク王の方を見ると、彼はなんだか複雑そうな顔で二人の様子を見ていた。
「どうかされましたか」
「いや……アンジェリカの様子が少しだけ変わったなと思ってな。ずいぶんユーリ殿と仲良くなった」
「はあ」
「最初ユーリ殿のことを聞いたときは、とんでもない良縁だと思っていたが……」
「……良縁?」
ハインリヒは耳を疑う。
いくらユーリが王子であったとしても、この場合、良縁と言うのはどうだろう。
ハインリヒが納得いかない表情をしているのを見て、王は苦笑いをしながら口を開く。
「あれもいつかは嫁に行かねばならないと思っていたが、性格が性格で……心配しておったのだ。姉たちと違い、すぐに呆れられて出戻ってくるのが目に見えていてな。実際、これまでも……」
王は何か思い出したようで、ひどく渋い顔をする。
――あのぅ、それ、非常に、気になるのですが。
ハインリヒは詳細を聞きたくて王を見つめたが、彼は咳払いをしてそれをごまかした。
「ユーリ殿は見た感じでは、アンジェリカに少しは好意を抱いているようだ。もしユーリ殿さえ良ければと思うが、いざそう想像するとなんだか複雑でな……。いや……ユーリ殿が元の姿に戻れば、それはこちらから頭を下げてでもという想いがあるが、もし戻らなければ……」
王は少し泣きそうな顔をする。
――確かに複雑ですね、……蛙に娘をやるというのであれば。
ハインリヒはリュンベルク王に同情した。
分かっていても、実際目の前にいるのは……蛙なのだ。不安がない訳がない。
「事故でも何でもよいから、ユーリ殿が元の姿を見せてくれれば安心するのだが……」
切羽詰まった時に考えることは、皆同じのようであった。