食事が終わり王が退出するのを見て、ハインリヒがユーリの元へと向かっていると、テーブルの反対側からも人影が現れた。
ハインリヒは思わずぎょっとする。
――ああ、確か二番目の……ベアトリクス王女だ。
これまた、近くで見るとすごい美貌だった。カストックまで噂が響くだけの事はある。アンジェリカが野に咲くスミレのようだとすると、このベアトリクスは念入りに手入れされたバラのような感じだった。
彼女はアンジェリカに近寄ると、手の上のユーリに話しかける。
「先ほどは失礼しましたわ。……少し急ぎすぎたようです」
ベアトリクスは頬を染めてユーリを見つめる。
ハインリヒは何のことだろうと首を傾げる。
ユーリは明らかに狼狽して、アンジェリカの手の上のハンカチに必死でしがみついている。
「これから、私の部屋で過ごしませんこと? アンジェリカは子供だし、退屈でしょう」
ベアトリクスは妖艶に微笑むと、ユーリをいきなり素手で掴んだ。
「うわ」
ハインリヒは思わず声を上げる。
――素手でいったよ、この人!
ベアトリクスはアンジェリカが半月かかっても出来ないことを一瞬でやってしまった。なんというか度胸が違う。
見るとベアトリクスの手の中で、ユーリは苦しそうにもがいている。
「おい! やめろって!! く、くるし……」
「お、おねえさま! 何やってるのよ!」
アンジェリカがユーリの様子を見て仰天し、ベアトリクスの手からユーリを奪い返す。
白いハンカチが床へふわりと落ちた。
「――あ」
ハインリヒは慌てて二人の元へ駆け寄りながら、驚く。
――触ってる!
アンジェリカの白い小さな手の中で、ユーリは一息ついていた。
彼女はふと感触が気になったのか、少し気味悪そうに顔を歪めた。けれど、結局ユーリを手に乗せたまま、姉をきっと睨む。
「苦しんでるじゃない! もうちょっと優しくしてあげないとつぶれちゃうでしょう」
「……お話がしたいだけなのよ。別にあんたのものじゃないでしょう? 独り占めはずるいわ」
ベアトリクスは不満げに顔を歪める。
「お話って……おねえさま、ユーリの言うことなんて分からないくせに」
アンジェリカの言葉にベアトリクスは憤慨する。
「いいから。貸しなさいよ!! ……ちょっと、そこの! ――……ハインリヒ殿でしたかしら」
噛み付くようにアンジェリカに言うと、ベアトリクスはくるり、急にハインリヒの方を向いた。
ハインリヒは、一瞬で表情が元の王女様仕様に戻ったベアトリクスの豹変ぶりが恐ろしく、固まった。
「通訳をお願いしたいのですけれど」
しなを作ってベアトリクスはハインリヒの手を握る。
「お、お姉さま!?」
アンジェリカの焦った声が後ろから聞こえる。
ハインリヒは大きな薄茶色の瞳の迫力に圧されて動けない。
頷くまで離してもらえないような感覚に陥って、ハインリヒは何か不思議な力に操られるように首を縦に振った。
「通訳なら私がやりますわ!」
アンジェリカがなぜか必死なのを見て、ハインリヒはもしかして、と思う。
――ユーリ様が盗られると? そ、それはヤキモチというヤツでは……!
ハインリヒは一瞬で舞い上がり、ユーリの表情を窺った。
――ユーリ様!! 希望を持って下さい!!
ところが、ユーリは、口をへの字に曲げ、悔しそうな表情でハインリヒを睨んでいる。
その黄金の目がギラギラとしていて、よく研がれた刃物のようだ。
――怒っていらっしゃる? ……なぜ?
「いいよ、分かった。俺行くからさ。ただ、通訳はどっちか一人でいい。……おい、ハインリヒ。そう伝えてくれよ」
なぜか諦めたようにユーリは言う。
「わかりました。……ええと。ベアトリクス様。ユーリ様は行くと言っておられます。ただ、通訳は一人で良いと」
「それなら、ハインリヒ殿の方がいいわ」
ベアトリクスはアンジェリカを睨みながらそう言う。
――まあ、喧嘩になるのが目に見えているしなあ。
ハインリヒは納得して、ユーリをアンジェリカの手から受け取ろうとした。
アンジェリカは、ハインリヒが手を伸ばすと、妙な具合に赤くなった。
そして、心細そうにハインリヒを見つめる。すみれ色の瞳がとても綺麗だった。
「早く戻っていらしてね」
次の瞬間、いきなりユーリがハインリヒに向かって飛びついたかと思うと、ハインリヒの顔に衝突した。
一気に視界が遮られ、何も見えなくなる。
――う、うわぁ!
ちょうど目の部分を覆うように、ユーリはハインリヒの顔にしがみついていた。
ひんやりとしたお腹が瞼に密着して、気持ちいいのか悪いのか分からない。
「ちょっと、ユーリ様!! なにするんですかぁ!!」
ハインリヒはユーリを顔から引きはがすと、たしなめようとする。
しかしユーリは怒った表情のまま、何も言わない。ハインリヒの目さえ見ず、ぷいと顔を背けたままだ。
こんな時のユーリは、もう放っておくしかない。ハインリヒは経験からそれを知っていた。
彼は仕方なくベアトリクスの後ろについて、彼女の部屋に向かうことにした。
長い廊下を歩きながら、ハインリヒは小声でユーリに話しかける。
「ユーリ様。脈がありそうじゃないですか」
ベアトリクスは足取りも軽く、数歩先を歩いていた。耳を澄ませば鼻歌まで聞こえて来る。
「……」
「これで、元のお姿に戻れるかもしれません」
「……そうだな」
ユーリは、明らかに機嫌が悪い。目と目の間にしわが寄っていた。
何か考え込んでいるようで、その丸い指先を口の中に突っ込んでいる。
ユーリは考え込む時に爪を噛む癖があった。今は爪も歯も無いけれど、だからといって習性というのはそう簡単に治るものではないらしい。
「こんな姿の俺と話したいと言ってくれてるんだもんな。普通に俺のこと触ってたしさ。……通訳がいれば何とかなるかもしれない」
「?」
いったい何の事だろう?とハインリヒは首を傾げる。
「――通訳がいれば、ですか?」
彼は口に出し、急に思い当たった。
「ええと……もしかして、ベアトリクス様のことを言われているのですか?」
「それ以外に誰が居るって言うんだよ」
次第にまた目つきが厳しくなる。
射殺されそうな目に怯えるハインリヒの前で、ユーリは顔を上げると、前を楽しげに歩くベアトリクスの背中をじっと見つめた。
「俺、決めた。彼女にキスをしてもらう」
「え?」
――ええ!? そっちに行っちゃうんですか!?
ハインリヒは驚愕する。
――なんで。どう考えても、ユーリ様は……。勘違いだったのかなぁ? ……まあ、どちらでも、結果がよければ問題はないんだろうけれど……。
楽観視しようとしたハインリヒだったが、不安は湧き、膨らみ続け、終いには彼を押しつぶしそうになっていた。
*
アンジェリカは、長い廊下を音を立てないようにひっそりと歩く。彼女はベアトリクスとハインリヒの後をつけていた。どうしても彼らの様子が気になって仕方がなかったのだ。
アンジェリカはユーリが自分でなくベアトリクスを選んだことに腹を立てていた。
――まさかついていくなんて。ユーリったら、私のペットのくせに、私の意見も聞かずに勝手な行動をするなんて!
そう思うと悔しくてたまらない。アンジェリカの心にはいつの間にか妙な独占欲が生まれていた。
――お姉さまもお姉さまよ。ハインリヒ殿まで連れて行くなんて。……それに……ハインリヒ殿だって。
実のところ、アンジェリカは、彼らがアンジェリカではなくベアトリクスを選んだ事が一番悔しかった。
自分でも分かっている。華やかな姉と比べるとどうしても自分が見劣りすることは。
たいていの若者が姉に心を惹かれてアンジェリカのことなど見向きもしない。彼らもそうなのかと、アンジェリカはがっかりしていた。
ユーリだって、あんなにほいほいと姉について行くからには、そう思っているに違いなかった。
アンジェリカが姉に勝るとすれば、ユーリと話が出来ることだけ。アンジェリカはひどくつまらない気分になっていた。以前、その事で優越感を感じた事があったなど、嘘のようだ。
二人と一匹がベアトリクスの部屋に入るのを見て、アンジェリカは扉に張り付く。そして音を立てないよう細心の注意を払って、小さく扉を開けると中の様子を覗き込んだ。
侍女が紅茶と菓子をテーブルに運んでいる。ベアトリクスとハインリヒが向かい合う形で椅子に座っていた。二人の横顔がかろうじて見える。
二人の間のテーブルの上にはユーリがぽつんと佇み、さっそく出された茶菓子に手を伸ばしている。
ベアトリクスとハインリヒはユーリが茶菓子を食べ終わるのを黙って見ている。部屋には妙に緊張した雰囲気が漂っていた。
自分用に用意された紅茶をすすると、ユーリは口を開く。
「あんたさあ……俺のヒミツを知ってるんだろう? ……だから近寄って来たって訳?」
ユーリの嗄れた声が響く。
――なんなのかしら、あの態度。仮にも一国の王女に向かって。
アンジェリカに対してもふてぶてしいけれど、ベアトリクスに対してもユーリの態度は変わらないらしい。まあ、相手が言葉を理解しないのだから言いたい放題だろうけれど。
ハインリヒがユーリの言葉に驚いた様子で尋ねる。
「ベアトリクス様は、ユーリ様のヒミツを知ってらっしゃるのですか?」
「……ええ」
ベアトリクスはゆっくりと頷く。その唇の端を少しだけ上げる抑えた笑みは、鏡の前で研究され尽くされたもの。妹の目から見てもかなり魅力的だった。
「それで……その……ユーリ様と親しくされたいと?」
ハインリヒがどぎまぎした様子でさらに尋ねた。
「ええ。せっかくですもの。お近づきになりたいと思ったのです。国と国を結びつけるいい機会だと思いません?」
――国と国?? ユーリと仲良くなることが?
てっきり、単なる姉が興味本位で『話が出来る蛙』と話してみたいのかと思っていたアンジェリカには、彼女が何を言っているのかさっぱり分からない。
――ヒミツって何かしら。蛙が話が出来るようになる魔法があるとか、そういう事?
そんなものがあるのなら、ぜひとも知りたい。もしかしたら、他の動物の話も聞けたりするのかもしれない。
「ふうん」
ユーリが口を大きく歪め、その黄金の目を細めている。それはにやりと笑っているように見えた。
アンジェリカの前では見せたことのないような、嫌な笑い方だ。
「じゃあ、利害は一致してるわけだ。話は早いかもしれないな……おい、ハインリヒ」
ユーリはハインリヒを近づけると、耳元で何か囁く。
ハインリヒは驚いた表情を浮かべたかと思うと、次第にその顔を赤らめる。
「ゆ、ユーリ様……それを私に言えと?」
「俺に……もとの……欲しいんだろう?」
「それはそうですけど……」
ハインリヒとユーリは何かこそこそと話し合っている。所々声が小さくて聞き取れない。
やがてしぶしぶと言った感じで、ハインリヒがベアトリクスに向き直る。
そして咳払いをすると、覚悟を決めた様子で言う。
「き、キスをして頂けますか!?」
ハインリヒの声は裏返っていた。
「はあ?」
さすがのベアトリクスもあまりに唐突なお願いに驚いた様子で固まる。扉の外のアンジェリカももちろん石像のように固まっていた。
――キスって、誰にっ!?
「おい、『誰に』が抜けてる」
ユーリが呆れた様子でハインリヒをたしなめる。内容の割に冷静でなんだかひどく気持ちが悪い。
「え、あ、すみません。ユーリ様に!!」
アンジェリカの頭は噴火しそうだった。
――な、何を言っているの……。ユーリもハインリヒ殿も。
混乱するアンジェリカの目の前で、ベアトリクスはすぐに冷静さを取り戻し、妖艶に微笑んだ。
「おやすい御用ですわ」
そう言って、ベアトリクスはユーリを手の上に乗せると、その顔を近づけた。
――お、おやすい御用って……お姉様!! 相手は「蛙」!! 刺身を食べるのとは訳が違うのよ!!
アンジェリカは心の中で思い切り叫ぶと、扉に背を預けて目を瞑る。
どれだけ時間が経っただろう。実際には三回深呼吸をするくらいの時間だったのかもしれないけれど、アンジェリカはまるで一日中そこに突っ立っていたような疲労感を感じていた。
とにかく不快感がひどかった。
姉に対しても、ユーリに対しても。
――ユーリは私のものなのに。私の見ていないところでこっそりそんなことするなんて。
それは、信頼していた友に手ひどく裏切られたような感覚だった。
「うわぁ、ベアトリクス様、肝がすわってらっしゃるなあ……もしかしたら、慣れてらっしゃるのかなあ……」
さすがに逃げて来たのか、扉近くでハインリヒのつぶやきが聞こえる。
微妙な実況にアンジェリカは耳まで真っ赤になった。
――いったい何のために逃げたのかしら。しっかりと見ているじゃない!
「……ああああ、でも。やっぱり……だめだぁ……ユーリ様……」
しばらくして、ハインリヒのがっかりした声が再び聞こえる。
あまりに絶望的な声は、混乱するアンジェリカに、さらに追い討ちをかける。
――いったい何にそんなに絶望するというの。
アンジェリカは、使い慣れない頭を必死で働かせたけれど、ハインリヒがベアトリクスとユーリのキスに心を痛めているとしか思いつかなかった。
――やっぱりハインリヒ殿もお姉様の方がいいってわけね。
深く息を吸って、胸の内のもやもやを吐き出そうとするが、失敗した。
居たたまれなさに、アンジェリカはそれ以上そこに居ることが出来なくなった。そして、逃げるようにその場を離れたのだった。