13 自分にしか出来ない事

 ――食われるかと思った。

 ユーリは、魂が蛙の体から抜けて、天井辺りに漂い、上から自分の姿を眺めているような気になっていた。
 以前眠っているアンジェリカに触れた時とは大きな違いだった。
 ――誰でもいいかと思っていたのに
 でも違った。その証拠に、ユーリの姿は蛙のまま、なんの変化も起こらなかった。
 とんでもない間違いを犯してしまったような気がして、ユーリはひどく落ち込んでしまう。
 ベアトリクスは、澄ました顔で紅茶をすすっていた。おそらく彼女はこういうことに慣れているだろう。それとも蛙とのキスなんてキスのうちに入らないと思っているのか。本当に何事もなかったかのように涼しい顔をしている。
「ほら、ユーリ様。誰でもいいって訳じゃないんですよ」
 ハインリヒが呆然とするユーリにこっそりと耳打ちする。
 その言葉にユーリはムッとした。
 先ほど自分でそう思ったばかりだというのに、人から言われると認めたくなくなってしまう。
「まだ、わからないだろ。これから互いに知り合っていけば、変わるかもしれないし」
「ユーリ様……無理されてません? ……あの、差し出がましいかもしれませんけど、ユーリ様にはベアトリクス様は手に余るのではないかと……」
 ハインリヒは心配そうに囁く。
 たしかに、ベアトリクスは、ユーリの好みではなかった。どちらかと言うと苦手なタイプかもしれない。
 ユーリの好みは、可憐で、くちづけをしようものなら真っ赤になって恥じるくらい初心な少女だった。
 ユーリは思わずアンジェリカにくちづけをするところを想像する。
 ――あいつなら、真っ赤になって「なにするのよ!」って怒るだろうな。……まあ、相手が俺じゃ、それだけですまないだろうけど……うん、多分殺される。
 ユーリは深々とため息をついて、その想像を頭の中からかき消す。
 比べて目の前の女性は、可憐というには迫力がありすぎて、大胆過ぎた。こういった女性が美しいと言われ、憧れられるのはよく分かる。だがユーリは、このタイプの美しい女性には、姉という人間のせいでそこまで感動を覚えない。
 美しい薔薇には刺があると言うけれど、それは真実だ。ユーリは幼いながら姉を見ていて学んでいた。ユーリの姉は、ベアトリクスと同じように派手な顔立ちをした美女で、その外見通りに気も強く、腹も黒く、ユーリはまったく彼女に頭が上がらない。喧嘩をしてもいつも言い負かされてばかりで、こんな女は絶対嫁にはしないと心に誓っているのだ。
 ――好きになれるだろうか。
 ユーリは不安だった。
 しかし自分の努力次第で、元の姿に戻れるかもしれないのだ。ユーリは、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。

 ベアトリクスはユーリを部屋に引き止めたが、彼は丁重に断った。なぜだかとても恐ろしかったのだ。
 名残惜しそうな、明日もお話ししましょう、という言葉に頷くと、ユーリはハインリヒの肩に乗って彼の部屋へと戻る。
 大きな寝台に潜り込むと、大の字になってため息をついた。
 ――ひさびさに普通に眠れそうだ。
 ここ二、三日、ユーリはまともに眠っていなかった。
 もうアンジェリカの隣では目が冴えて眠る自信もなかったし、泉の淵で眠るには、もう朝夕の冷え込みが辛くなっていた。
 泉にいた蛙たちもずいぶん減って来たような気もする。おそらくこの季節に眠るのに良い場所があるのだろう。
「……それにしても、ベアトリクス様はお綺麗な方ですね。なんというか大人の女性という雰囲気が」
 ハインリヒが寝台に腰掛けると、ぼうっとした様子で呟いている。
 ユーリは呆れた目でハインリヒを見やる。彼は、ユーリの姉のようなタイプが好みで、子供の頃から憧れているのだ。
 ただ、身分違いということもあり、半ば諦めてはいるようだけれど。
「なに? お前、やっぱりああいうのが好みなわけ? 姉さんにあれだけいたぶられてるくせに……懲りないよな」
「いえ、ただやはり目を引くじゃないですか。ユーリ様もそう思うでしょう? アンジェリカ様もお綺麗ですけど、やはり並ぶと霞むと言うか……」
 ハインリヒがそう言うのを聞いて、ユーリはムッとする。――霞むだって?
「アンジェリカよりベアトリクスの方がいいって?」
「アンジェリカ様は……なんというか、まだ随分子供っぽいところがおありですし……。私と同じ歳のはずなんですけどね、ユーリ様と同じくらいにしか見えません。大体、ユーリ様と同じくらいわがままな人も初めて見ましたし……そういえば、ユーリ様あの扱いによく我慢されてますよね、感心します」
 ユーリはその言葉に腹を立てる。
 ――なんだっていうんだ、その低い評価は。
「そんなことないぞ。アンジェリカだって、よく見れば姉さんに負けず劣らずの外見だし、子供っぽく見えるけど案外そうでもないし、確かにわがままだけど、たまには優しいんだ!!」
 そこまで勢いで言って、ユーリはしまったと口をつぐむ。
 ハインリヒが黒い目を細め、ニヤニヤと笑っていたのだ。
「ほうら、やっぱり無理してましたね」
 ユーリは口をへの字にしてむくれ、俯いた。
 能天気そうなハインリヒの表情が気に障る。
「……お前のせいだぞ」
「はあ?」
「アンジェリカは、……お前に惚れてる」
 認めたくもないけれど、ユーリは悔し紛れにそう言う。
「えっ!?」
 ユーリはアンジェリカの夢の中の少年にハインリヒが似ていること、アンジェリカがそれをとても気にしていることを打ち明ける。
 話しているうちにだんだんムカムカしてくるのが自分でも分かった。
「望みなんてないんだ……蛙と人間がいたら、普通人間を選ぶだろ……」
 その上に相手がハインリヒというのも痛かった。彼は一番恋敵にしたくない人間だった。
 たとえユーリが人間の姿でも勝ち目がないのは分かっている。ハインリヒは大きい。自分のようなわがままな人間に無理せず付き合って行けるというのは並大抵の事ではない。
 ユーリのように、アンジェリカの仕打ちにいちいちムッとしているような小さな器じゃ、とてもじゃないけれど敵わないのだ。
 ユーリがしゅんとしていると、ハインリヒはそっと彼の頭を撫でる。
「簡単にあきらめては駄目ですよ。まだあなたは何も行動していないじゃないですか」
「……だけど」
 ユーリは恨めしそうにハインリヒを見やる。
「夢の中の少年のことはよくわかりませんが、それは私とは違う人物でしょう? 私は前に彼女に会ったことなどないのですから。――彼女が見ているのは『私』ではありません。ユーリ様は夢の中の人物とまともに勝負する気なのですか? あなたにしか出来ないことで、勝負してはいかがです?」
「俺にしか出来ないこと?」
「アンジェリカ様はその少年と話をしたことは無いのでしょう? どんなに素敵な人物でも話が出来ないのでは絵と同じです。そんなのは恋とは呼べませんよ。でもあなたは話が出来るのです。それを利用しない手はないでしょう?」
 ハインリヒは必死でユーリに言い聞かせる。まるで自分のことのように懸命だった。こういうところは本当の兄のようだとユーリは思い、固くなりかけた心が絆された。
「じゃあ、具体的にはどうすればいいんだ?」
 ハインリヒはにっこりと笑って、ユーリの耳元で囁いた。