アンジェリカはため息をつきながら自室までの長い廊下を歩いていた。
赤い絨毯に埋もれる靴の先を眺めながら、スカートの裾を蹴り出すように一歩一歩ゆっくりと進む。誰かに見つかったら行儀が悪いと咎められるような歩き方だったけれど、アンジェリカはむしゃくしゃして何かに当たりたい気分だったのだ。
先ほどのことがアンジェリカの心に大きな影を落としていた。そう簡単には立ち直れない気がしていた。
昔からそうだった。
ベアトリクスは、アンジェリカの持ち物に特別の興味を持っていて、彼女が大して気を払わずに油断しているうちに、いつの間にかそれは奪われているのだ。
父に貰った異国土産のネックレスは、きれいな貝殻といつの間にかすり替わり、母に貰ったシルクのスカーフは姉のお下がりの可愛らしい柄のハンカチに替わっていた。
たいていそれらが奪われた後になって、重要なものだったとアンジェリカは気づく。
今回はそれがユーリのようだけれど、いったいどういうつもりなのか、アンジェリカには姉の気持ちが分からなかった。
――もしも、ユーリが私にとって重要なものだったら……。
過去の苦い経験から、アンジェリカはひどい胸騒ぎがした。
――馬鹿みたい。ユーリは、お姉様にとってはただの蛙なのに。
アンジェリカとは違い、ベアトリクスはユーリと話せないのだ。――ハインリヒがいなければ。
姉もハインリヒと話す口実でユーリを出汁にしているのかと一瞬考えたけれど、それではあのキスの意味が分からなかった。
「あぁ、もう!」
混乱して、混乱して、アンジェリカは思わず金色に波打つ髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしる。
「あなた……何をやっているの」
呆れたような冷たい声が廊下に響き、ふと顔を上げると、イザベラがこちらをじろじろと見ていた。
アンジェリカは姉の部屋の前で考え事をしていたらしかった。
「十六歳の淑女がやるような真似ではないわ。いい加減もう少し周りの目を気にするようにしなさい」
イザベラはそう言うと、アンジェリカの手を引いて自分の部屋へと連れ込む。
そうしてアンジェリカを大きな鏡の前に座らせると櫛を取り出して、乱れてしまった彼女の髪を丁寧に梳いていく。
アンジェリカはまたお小言を貰うのかと、内心ひどくうんざりしていたけれど、一度捕まってしまったものは仕方が無い。姉がすっきりするまで付き合うしか無かった。
このイザベラという姉は、アンジェリカのような妹がいること自体、きっと恥だと感じている。アンジェリカの言動にいちいち文句を言ってくるので、母親よりも彼女の方が怖いとこのごろは感じていた。
しかも、言うことに間違いが無いところが気に障った。
アンジェリカだってそれなりに一生懸命にやっているのだ。ただ姉のようには出来ないだけで。
幼い頃からずっと続いて来たその上下関係に、アンジェリカの心は萎縮してしまい、変に捻くれてその言葉を捕えるようになってしまっていた。
アンジェリカは鏡の中の姉を見つめながら頬を膨らませる。
「どうせ、私は子供です」
「何をいじけてるの? ほら、そんな風に頬を膨らませれば余計に幼く見えるわよ」
イザベラも鏡の中のアンジェリカを覗き込みながら言う。
自室でくつろいでいるはずなのに、姉の栗色の髪は見事に整えられていて、これから就寝するようにはとても見えない。
アンジェリカが黙って膨れたままでいると、イザベラはその様子からすぐに答を導き出した。
「なに? ベアトリクスとまた喧嘩でもしたの」
言い当てられて渋々頷く。
「……だって……ベアトリクス姉様ったら、私のペットに手を出して」
「ああ、あの子も仕方が無いわね……また人のものに手を出して。あら? でも、あなた、あの蛙にそんなに執着していたかしら?」
「ユーリって言うのよ、似合わなくておかしいでしょう? このごろようやく仲良く出来るようになったの。蛙だけど、慣れたら意外に可愛いのよ」
アンジェリカはユーリの色々な表情を思い浮かべながら、少しだけ微笑んだ。
最初を考えると嘘みたいに距離が縮まったんじゃないかと思う。触るなんてとんでもなかったのに、さっきはどさくさだったけれど、触れる事さえ出来た。予想していたよりもさらっとしていて、意外に何ともなく、アンジェリカはなあんだと、拍子抜けしてしまった。
物事というのは実際やってみないと分からないことが多いものだ。
同意を求めて姉の様子を伺うけれど、彼女は全く賛同できないらしかった。
「かわいい、かしら……」
イザベラは、眉をひそめ不可解そうに息をつく。
そして、ややして納得したように頷きながら言った。
「ベアトリクスに盗られそうになったから、急に惜しくなったというわけね」
「惜しいっていうわけじゃないけれど……ベアトリクス姉様に目をつけられて、盗られなかったものなど今までに無いのですもの。悔しくて」
ネックレス然り、スカーフ然り、それに、アンジェリカの見合い相手然り。
アンジェリカももう十六歳、当然縁談の一つや二つ舞い込んできている。しかし、ちょっといいなと思った男性でも、いつの間にかベアトリクスにべた惚れしているなんてことはいつものことだった。そして、その逆は悲しい事に一つもない。思い出すと悔しいよりも自分が情けない。
「そうだったわね。あの子は一期一会という言葉を大事にしているもの。あそこまで貪欲だと、ある意味感心するわ」
イザベラはアンジェリカの気持ちも気にせずにくすくすと笑う。ベアトリクスもこの姉をライバルにするのは分の悪さを感じているらしく、イザベラの恋人には決して手を出さない。だからきっとアンジェリカの気持ちがわからないのだ。
「お姉様たちには敵わないわ。イザベラ姉様みたいに頭もよく無いし、ベアトリクス姉様みたいに美しくもないし」
神様は不公平よ――ため息をつきつつアンジェリカは言う。
「あら……あなた、まだそんな風に思っているの」
「だって、実際そうなんですもの」
アンジェリカがさらに膨れると、イザベラは急に表情を強張らせた。
「敵わないですって? 私やベアトリクスが何もせずに今のような姿や教養を身につけたとでも思っているの? ――甘えないで」
声がいつもと比べ物にならないくらい尖っていた。
「お姉様……?」
これまでに何度もあったようなやり取りのはずだった。
だから、アンジェリカは姉が本当に怒っているのを感じて驚いた。これは、いつものようにお小言を言っている雰囲気ではない。
「何も自分を磨く努力をしていないくせに、同じものを求めようなんて虫がよすぎるわ。――あなたももう十六。もう子供じみた考えからは卒業しないと」
イザベラは激してしまったのを恥じるように、最後は少し表情を和らげた。
「自分を磨く努力、か……」
アンジェリカは一人でベッドに横になると天井に向かって呟く。
彼女は、さっき初めてイザベラという人間を知ったような気がしていた。
姉は意地悪であんなことを言っているのではなかった。さすがにアンジェリカにもそれは分かった。
姉達が、努力をしていた――そんなこと、考えても見なかったのだ。
ただ、与えられた聡明さをうらやましく思っていた。
与えられた美貌をうらやましく思っていた。
――そしてアンジェリカはうらやましく思うだけで、何もしなかった。
特別にたくさん勉強をしているわけでもないし、特別に美しくなるための努力をしているわけでもない。
甘えている。言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。
でも、どんな努力をすればいいのだろう。
姉に問うたけれど、姉は
「私は知を求めて、ベアトリクスは美を求めたわ。あなたがどうなりたいのか、何が欲しいのか、それをまず見つけなさい」
といつものように冷たく言い捨てて、アンジェリカを部屋から追い出した。
どうなりたいのか、未来の自分について少し考えたけれど、目前の目標と言えば、ユーリやハインリヒをベアトリクスに奪われないこと。そのために姉達のような魅力的な女性になることだった。
――そんな不純な動機で、いいのかしら……。
その晩、アンジェリカは自分の貧しい発想にがっかりしながら、眠りに落ちた。